2024年8月29日木曜日

吉良智子(美術史家)           ・〔私のアート交遊録〕 「戦争画」と「ジェンダー」

 吉良智子(美術史家)        ・〔私のアート交遊録〕 「戦争画」と「ジェンダー」

近代日本美術が専門、美術史において女性画家が取り上げられてこなかった時代背景や社会的な理由を長年研究してきました。 吉良さんの著書「女性画家たちと戦争」では、第二次世界大戦中に戦争画の製作に携わった女性画家集団「女流美術家奉公隊」とその作品「大東亜戦皇国婦女皆働之図」を紹介しています。 この作品は女性の画家44人による共同制作で、田植えや養蚕、砲弾の生産など42の労働現場が」描かれています。 戦前女性の美術教育や美術団体への参入は、男性よりも制限され描く対象も花や生物がふさわしいとされてきました。 そんな女性画家の絵の対象を広げたのは、皮肉にも戦争でした。 美術史の中で女性画家が取り上げてこなかった理由は何か、どんな時代背景があったのか吉良智子さんに戦争の時代のアートとジェンダーの関係についてお話を伺いました。

近代日本美術史、ジェンダー史を軸にした女性画家の研究、これをテーマにした動機ですが、大学2年生の時に受けた女性論があり、女性は結婚をして子どもを産んで生きてゆくというのが女性に課された人生というわけではなく、社会や歴史からの要請によってなった、という事を始めて知りました。 真剣に考えてみたいと思いました。 大学3年生の時に参加したゼミが、アートとジェンダーをテーマにしたものでした。 ここからの出発でした。 戦後50年という時期でもあり、戦争に関する美術作品が出版され始めました。 有名な画家が戦争画を手がけていたことも知りました。 卒業論文に戦争画とジェンダーに選んで、出会ったのが「大東亜戦皇国婦女皆働之図」でした。 

靖国神社に観に行きました。 横が3mの巨大な作品でした。 沢山の女性たちが戦争を支える労働に励む姿が、パッチワークのようにちりばめられていました。  描いているうちの本音が出てしまったという作品だと思います。 悲壮感はそんなに感じられず、色合いもカラフルです。 描かれている女性たちも何となく溌剌としている。 家の中に閉じこもっていた女性たちが外に働きに出て行って、ある種の解放感も感じられる。 砲弾、落下傘を作って居たり、養蚕、田植え、日常生活などが描かれている。(ほとんどが女性)     制作に参加した桂ユキ子が下絵を担当。「当時の新聞、雑誌、グラフ類には、働く銃後の女性をテーマにした、「戦時下に働く農村女性」、「女性消防団」「女子学生旋盤工」、「女子踏切番」その他さまざまな仕事をしている女性の写真がよく載っていたので、その写真をただ切りとって、大きな紙にベタベタ貼りつけたら、たちまち絵ができちゃったという事です。

参加した画家数名の方にインタビューしましたが、テーマは頑張っているという事を示したかったと言っています。  それまで女性画家は上品な婦人像、かわいらしい子供達、花などでした。 女性画家集団「女流美術家奉公隊」が生まれた背景は、東京美術学校(芸大の前身)では女性の入学資格はなかった。 私立美術女子学校(女子美術大学の前身)が作られて、画壇にデビューしても女性は中々地位が上がらなかった。 当時は結婚して子供を産んだら、筆を折るという事が当然のようにあった。 陸軍からの依頼があり、働く女性の絵も描いて欲しいという事でした。 評判については資料等が出て来ていません。 1943年2月25日、洋画家の長谷川春子を委員長として女流画家による「女流美術家奉公隊」が結成されます。 三岸節子も加わっています。 

年齢もバラバラで所属団体もバラバラだったので、一つにまとめるという事が難しかったと思います。 パーッチワークのように描かれている。 数人の方と話を聞くことが出来ました。 「女流美術家奉公隊」は終戦を機に自然消滅しました。 戦後、長谷川春子が女流美術家協会を、三岸節子が女流画家協会、二つの大きな団体が出来ました。  時を経て女流美術家協会はなくなって行きました。 「ジェンダー」に関しては一歩でも二歩でも進んで、社会的な状況を解決するために考え続けていきたいと思います。 桂ユキ子の「大きな木」がお薦めの一点です。