2020年11月1日日曜日

李 鐘根(在日韓国人被爆者)      ・被爆と差別、二重の苦しみを越えて

 李 鐘根(在日韓国人被爆者)      ・被爆と差別、二重の苦しみを越えて

広島市内に住む在日韓国人で被爆者の李 鐘根さん(92歳)、子供のころから差別に苦しみ16歳のときには爆心地から1,8kmのところで被爆しました。  原爆で姉を失い、ご自身も全身にひどいやけどを負って生死をさまよいました。   しかし、近所に住む日本人老夫婦に命を救われ差別を越えて人を思いやる大切さを痛感したといいます。     広島に原爆が投下されてから75年、李さんは92歳になった今でも原爆の恐ろしさと共に差別をなくして、互いを理解しあう大切さを 子供たちに伝えています。

75年は長いですが、朝鮮人が約2万人亡くなったと後で聞いて凄いなあと思いました。

1920年ぐらいに父は島根県匹見に来たようです。 どうしてここに来たのかは一切聞いていません。   戦後一度だけ父の故郷に行った事はありますが、大変貧しい村でした。

父が日本に来て5年後に母と姉を呼んで、私は1928年(昭和3年)匹見で生まれました。  広島には小学校6年生の時に引っ越してきました。  朝鮮人朝鮮人と言っていじめられました。

弁当を持っていきますが、判らないようにキムチを洗って入れてくれるのですが、冬弁当箱を温めるんですが、先生が臭いと言って窓の外に放り投げたりしました。   6年生の時に学校から帰る途中に近所のおじさんがお前立ってろと言って、私に小便をかけるんです。   父に話して文句を言ってくれるのかと思ったが父はそうはしませんでした。

日本名で江川と名乗っていましたが、母は民族衣装のチマチョゴリを着ていたので、すぐに朝鮮人だとはわかりました。  脱いでほしいとは何べんも言いましたが聞かなかったです。父は普通の着物を着ていたが、言葉の発音が違うのですぐにわかってしまいます。

尋常高等小学校を14歳で卒業して、鉄道局に勤めました。  鉄道には憧れていました。 2年後、16歳の時に朝出掛けて荒神橋を渡たったときに原爆に遇いました。

黄色味がかったオレンジ色が一面に目の前に広がりました。  家が陽炎のように浮いて見えました。  すぐに伏せて2,3分後眼を開けてみたが、真っ暗で何にも見えなくて、段々明るくなるのを待って立ち上がりましたが、全部家が倒れていて、焼け野原になってしまいました。   「お前顔が赤いぞ「」と言われて顔に手を当てたら痛かった。  両手、首から上、足が焼かれてしまっていました。   

姉は仕事先で亡くなりました。  私は機関区に行きましたが、生きていたかと言われ、やけどには油がいいと言って、機関車の工業用のオイルを塗ってくれたが、凄く痛かったです。

練兵場にやけどをした人々が水を呉れと言って続々と来ましたが、爆心地に近い人達でした。

夕方4時ごろに機関区から帰りましたが、橋が無くて渡れる橋を見つけて渡ろうとしたら、やけどをして真っ赤になった人たちが群がって座って、「助けてください、水をください」、と言って7本の橋を渡るたびに、焼けただれた人がたくさんいました。地獄だと思いました。

夜11時ごろ家に帰ったが、両親はいなくて弟が私を探しに行ったというんです。  翌日の夕方に帰ってきました。  母は私を抱きしめてしばらくずーっと泣いていました。

翌日鉄道病院の分院があるという事を聞いて、行ってアカチンを塗ってもらって、その瓶を持ち帰りました。  後ろから母に塗ってもらうが、そのやけどを見て母が泣くんです。

首の後ろが腐ってきて、膿が出てきて臭くて、蠅がたかってきて卵を産んで、ウジ虫が湧いてきて、母が取るたびに泣くんです。 大人になってこんな顔ではだれも雇ってくれないだろうし、韓国語で死んでくれと言っていました。

或る時に日本の老夫婦がいて、いろいろ聞いていたようで、湯飲みの植物性の貴重だった油を持ってきてくれて、大事にやけどの部分に付けて、1か月したら、よく成ってきてその後も持ってきてくれてこの油で完治しました。  この油がなかったなら私は今はいないと思います。 この老夫婦は全く知らない人です。 朝鮮人だとは判っていたと思います。

韓国に帰りたいという気持ちはなかったです。  母がお前の故郷を見るようにという事で30歳ぐらいの時に一度韓国の故郷に行った事っがあります。   親戚などに原爆のことを話しましたが、従兄弟が「日本に原爆が落ちてよかったよ」と言いました。 「何を言ってるんだ。 あそこで朝鮮人が亡くなったのは2万人ぐらいいるんだよ。何言ってるんだ」と言ったら、「おじさん原爆が無かったら、私たちはまだ苦労してるよ。 原爆が落ちたから私たちは解放されたじゃないか。」と言いました。  「ああそうか35年間苦しんだのは、あれで解放されたんだ。」という事を感じました。  考え方が違いましたが、理解することはできました。  しかし、原爆は決して許せないと思いました。

無差別にたった一発の科学兵器で子供だろうが、女性であろうが殺してしまう悲惨な兵器に対しては私は許せないです。

朝の閃光の恐ろしさ、練兵場での光景、私のウジが湧く状態、在日という影が付きまとうんで、被爆体験は話することすら知らなかったですね。   この話を外国人の私が話をしなければならないという事を勿論、過去いません。 人間同士の差別も有ってはいけないと思います。  戦争のない世界、戦争のない意識が大事だと思います。  戦争したらいけないです。  植物性の貴重だった油を持ってきてくれて、面倒を見てくれたあの老夫婦みたいな人のように世界に志を持った人が一人でも多くいてほしいと思いますし、そう無くてはならないと思います。