前田はるみ(タンゴ歌手) ・89歳、歌い続けるタンゴの心
前田さんは1931年(昭和6年)栃木県足尾町(現・日光市)生まれ、、父親が早世したため4歳の時家族と上京、太平洋戦争末期の1944年一家で群馬県に疎開しました。 すでに歌の道を志していた前田さんは、女学校の通学途中にあった劇場の楽屋に出入りするほどでした。 1949年17歳のころ楽団を頼って上京し、浅草、銀座の小劇場やナイトクラブで歌手や女優として舞台に立ちました。 喜劇俳優の伴淳三郎さん、由利徹さん、八波むと志さんといった人たちと共演したのもこのころです。 前田さんは25歳になったら歌手一本に絞ろうと決意し、1960年にはラテンタンゴ歌手として再デビューしました。 アルゼンチンの女優で国民的なタンゴ歌手ビルヒニア・ルーケとはルーケが亡くなるまで終生の交流がありました。 タンゴ歌手のキャリア60年を越える前田さんはタンゴ歌手としては初めて 文化庁芸術祭優秀賞を受賞しています。
猫が2匹いて大事な家族です。 隔週でタンゴ教室を開いていますが、今場所が使えません。 足が悪いので歩行器を使っています。 衣装はちゃんと着てやっています。
7人兄弟で下から2番目で、兄が3人、姉が2人、下に妹がいます。 男兄弟は全部東京に下宿して学校に行っていました。 4歳で上京して小学校の時に先生が空襲で亡くなって群馬県に疎開、桐生の女学校に行きました。 戦争が終わってホッとしました。
音楽の世界に浸りたくて、学校の途中に映画館があり、そこの楽屋にまで出入りするようになりました。 ある日東京から来た楽団より急病にかかった歌手の代役を頼まれ、ステージデビューしました。 学校卒業して何のつてもないままその楽団を頼って上京しました。 銀座のスターライトというクラブで歌っていたら、声を掛けられてコメディアン・俳優の伴淳三郎さんのところに連れていかれて、伴淳三郎主演の舞台「痴人の愛」のヒロイン役に園はるみの芸名で出ることになりました。
浅草の楽屋に永井荷風先生がいらっしゃってとてもかわいがっていただきました。 先生が「お前は浅草の人間ではない、丸の内に行きなさい、僕が紹介してあげる」とおっしゃって、岡田先生を紹介していただき行きました。 高橋忠雄先生のお陰でタンゴにめざめました。 25歳になった歌だけでやろうと自分で決めていました。
最初はラテンですね、淡谷のり子さんなどの歌も歌っていました。 中西さんからタンゴが廃れてしまうという事で、タンゴをやってくれと言われてタンゴに絞りました。 人脈に助けられてきました。
アルゼンチンタンゴではスペイン語で歌わなくてはいけないので先生につきました。
*「ジーラ・ジーラ」 歌:前田はるみ
アルゼンチンの女優で国民的なタンゴ歌手、ビルヒニア・ルーケさんが私の歌を聴いて、『なんて力強い!』と褒めていただきました。
ビルヒニア・ルーケさんの「メルセ寺院の鐘」という歌を聴いて本当に歌に魅せられました。 それから彼女のレコードをいっぱい買いました。 ルーケさんからは本当によくしていただきました。
「ジーラ・ジーラ」の演奏、オマール・バレンテと彼の劇団で、オマール・バレンテさんも忘れられない人です。 日本でも何回か演奏しました。 バレンテさんとのツアーがありました。 レコーディングもアルゼンチンでやったりしました。
藤沢嵐子さん、宝とも子さんからもいろいろ教えていただきました。
夫の永田文夫は宝とも子さんから紹介されて、彼が新人をレコーディングさせていて、私にレコーディングしませんかと言ってきて、その時には35歳で若くないしほかの人にしてくださいと言ったんですが、それからの知り合いです、師匠でもありました。
夫が2016年に亡くなり残されたレコード、CD、資料は膨大にあります。 LPだけで5万枚ありました。
自分は典型的な『アプレゲール』(無軌道な若者)でしたね。
「私は才能がないので努力をするしかなかったです」と言ったら、ホセ・コランジェロがそれが才能だよと言ってくれました。 私が毎日発声練習するのを、夫はいつも喜んでくれてましたし、他人に自慢していました。
タンゴ歌手ビルヒニア・ルーケさんが私のCDに乗せた言葉があります。 「彼女(前田はるみ)は一体どのようにしてなぜ、自分を表現するためにこんなにも違う言葉とリズムを選んだのだろうか。 この不思議な現象を解明できるのはただ一つ、彼女も又タンゴを感じタンゴを愛すると言う私(ビルヒニア・ルーケ)と同じ能力を身に付けているという事だけ。」