2020年11月27日金曜日

榮谷明子(ユニセフ職員)        ・希望のラジオをルワンダの親子に

榮谷明子(ユニセフ職員)        ・希望のラジオをルワンダの親子に 

2015年ユニセフ所員として赴任したアフリカ中部のルワンダで小さな子供たちが希望をもって成長できるようにとラジオ番組を立ち上げました。   番組名は「イテテロ」 ルワンダ語で子供を育む場所という意味です。  榮谷さんは2018年にルワンダを離れましたが、番組「イテテロ」は今も続いていて、ルワンダ全国の子供たち、子育て中の親たちに愛される人気番組となっています。   榮谷さんは1978年東京生まれ、現在41歳、東京大学卒業後、外資系の銀行での勤務を経てアメリカに留学、2004年からユニセフで働き始めます。  セルビア、スイス、アメリカ、ルワンダ、そして今はエジプト在住で、数年ごとに赴任する国が変わるユニセフの仕事をしながら結婚し、出産、12歳の男の子のお母さんでもあります。

主人もユニセフで働いています。   この17年間の中で何度も母が現地まで足を運んでサポートしてくれました。

きっかけは高校生の頃に皇后雅子様の外交官としてキャリアを積んでいることに憧れて、国際的に活躍して人々の生活を良くしてゆくような仕事をしたいと思うようになりました。    中学の時に父親の赴任についてオランダのインターナショナルのスクールに通っていましたが、あまりにも英語ができなくて、親に言ってイギリスのサマースクールに入れてもらいました。  そこでは人気があって多国籍の人が入り混じっているところは向いているのかと思いました。   しゃべるのは苦手ですが、人の話を聞くのは得意なほうでした。

ルワンダは温暖で気候がいい国で、雨が多く緑の丘がずーと続いていて美しい風景で、まじめな国民性で日本と似ていると思いました。

ルワンダでは1994年の内戦で多くの人が亡くなり、親を失った人が親になって子育てに苦労していました。  子供の怒り方がわからないとか、いろいろありました。       子供たちを温かい言葉で包んであげたいと思いました。  子守歌、おとぎ話を忘れかけていました。  子育ての文化を家庭に届けないといけないと思いました。  

家族のドラマに力を入れました。  愛情のこもった言葉、優しい言葉とか、リスペクトの言葉とかをどんどん入れ込んでいきました。   親が子供にやさしくして信頼関係を作ったうえで、躾、良いことと悪いことの区別、なんでいけないのかを説明したり、そういうモデルをドラマの中で作りました。

ルワンダでは親による体罰が日常的に行われていました。   会議で課題として取り上げたところ、我々の習慣ですからという事だったが、親にヒアリングをしていったら、多くの親は子供を叩きたくないという事が判り、叩いても子供のためにはならないという事も気付いていました。  私が叩かないと近所の人に駄目な母親だと思われるのではないかと、それで叩いているという話を聴きました。   言葉を通して子供を導いてゆくような躾をドラマを通して教えるようにしました。

当時TVは特権階級のもので、ラジオであれば電池で動くので、全国の人がラジオを聴いているので、ラジオでの番組を作りました。   凄い勢いで人気が広がっていきました。

スタジオ局の人、幼稚園の先生、幼児教育の専門家の人達と一緒に内容を考えて貰ました。   劇団員、障害のある子どもたちの教育にかかわっている人達などにもかかわってもらいました。

内戦の為引き継がれなくなっていた子守歌も復活させました。

シンジュラキボンド?(聞き取れず)という歌はルワンダの子守歌で、伝統楽器のイナンガ(木をくり抜いて作った舟形胴に8弦を張った大型チター。奏者は立ったままチターの片端を斜めに持ち上げ左脇で抱えながら両手で弦を弾く)という楽器の名手が「イテテロ」のために特別に作ってくれた曲です。   優しい曲が広がって親も安心して子どもを育てる事ができたらいいです。

新しいことを始めるときにはみんな不安で、仲間を安心させるためには私が自信をもって笑顔を見せてみんなを励まさなくてはいけなかったのでしんどかったです。  5年間のうちやったと思えた瞬間は多分3回ぐらいでした。   笑顔でリーダーを演じ切りました。

いろんな事が実を結んだ充実した仕事ができましたが、最初の10年間でいろんな国の外国の人の上司と仕事をしましたが、4人からは評価されましたが、2人からはあなたには大きな仕事は無理と言われましたが、反発の思がありましたが、「イテテロ」を成功させたことは自分の実力に自信を持ちました。

2018年ユニセフの東部南部アフリカ地域の若手女性リーダーの一人

に選ばれ、その後ジャイカの専門家としてエジプト日本教育パートナーシップの共同議長というより責任の重い仕事に就く機会を貰いました。

スイスのジュネーブで仕事をしていた時には夫はセルビアでユニセフの仕事をしていましたが、土曜日にセルビアに飛行機で行って、日曜日に結婚式をして、翌日にはジュネーブに戻るというような状態でした。  妊娠7か月の時にセルビアに移りました。  看護師がセルビア語しかできなくて判らないので不安でした。  孤独な時間が長くて2008年5月に子供が4か月になった時に仕事に復帰してホッとしました。

2009年子供が一歳半の時に家族でニューヨークに移って、そこでたくさんのママ友ができて色々参考になりそこで私の育児を大きく変えました。

人生は経験値がものをいうと思うので、子供のやりたいことを見守るようにしています。 子供がどうしても危なそうな地域のほうに行きたがって、道路で寝っ転がって泣き叫んでいて、私はそちらに行かせたくなかったのでずーっと横に座っていましたが、5分ほどして泣き止んで納得したようでした。  それを車の中から黒人の婦人警官が見ていて、「ブラボー」と言って褒めてくれたことがありました、知らない人から褒められてうれしかったです。

今は12歳になりましたが、年齢の割には自分の気持ちをある程度コントロールできるような子になっていると思います。  

素敵な言葉で社会とつながるという事を大切にしています。  良い言葉を使うようにすると頭の中が静かになり、逆に嘘、怒り、嫉妬の言葉は後を引きます。  相手を苦しませるだけではなく自分の頭の中も自由ではなくなってしまう。  良い言葉は軽くて新しく考えることがキラキラしてくる時があります。  愛情の籠った相手を思いやるいい言葉を使って相手を幸せをにしようと、それだけではなくて私とその人との繋がりを作ってくれる。  人のつながりができると自分の小さな悩みが段々気にならなくなってくるという事もあります。   自分のコミュニティーでいい言葉を使っていこうと思っています。

泣きたくなるようなことはしょちゅうありますが、先ずは人生は楽ではないという事を受け入れることだと思います。  人生は楽じゃないからこそいい友達を見つけて、お互いを励ますような言葉で繋がっていると、自分が大変なときに支えになってくれます。

何をしていても世のなかに希望の言葉や温かい言葉を増やせるようにしていきたいと思っています。