2020年11月28日土曜日

覚 和歌子(作詞家・詩人)       ・【私の人生手帖(てちょう)】

 覚 和歌子(作詞家・詩人)       ・【私の人生手帖(てちょう)】

*映画千と千尋の神隠し』の主題歌「いつも何度でも」 作詞:覚 和歌子、作曲:木村弓

大学卒業後、作詞家デビュー、平原綾香さんや、沢田研二さんらに作品を提供、2011年にはいつも何度でも第43回日本レコード大賞金賞受賞しました。  詩人としても詩集「ゼロになるからだ」「はじまりはひとつの言葉」など多くの著作を発表しています。   近年は詩の朗読ライブや、谷川俊太郎さんとの二人の対詩の取り組みなど、言葉と体の関係性に着目して詩作と共に活動を続けていますが、現在の活動のきっかけとなったのは、31歳のころに直面したうつの症状でした。  どのようにしてその時期を乗り切ったのかなど人生の節目について、豊かな言葉がどのように生まれるのか、伺いました。

夫は古典落語家入船亭扇辰で、落語と現代詩の詩作は全然違うフィールドで仕事をしてきましたが、コロナ禍で今までと違ったことを試してみたいと思って、噺家の夫とか弟子たちのことを書いてみたら結構楽しめているんです。

夫は読書が好きで布団の中で本を読んでいたりして、それがワニのような感じで、夫をワニにして書いたら面白いと思って書き始めたら面白くて10編ぐらいになります。

山梨の出身でおてんばでした。 歌を歌う事と文章を書くのが好きでした。  小学校2年の時にブランコに乗っているときに突然詩を作って、母に褒められたことを覚えています。

父と母のなれそめは同じ職場の合唱部でした。 父は小説を書いて母にプロポーズしました。

作詞家としてデビューした時には両親はとっても心配して、その後もずーっと同じように心配していました。

千と千尋の神隠し』主題歌「いつも何度でも」の仕事が来たことを、運という風に言ってしまえば簡単なのですが、私が強い気持ちをもってこの仕事で身を立ててゆくという状態のほうに、この仕事が引き寄せられてきたという風にも言えると思います。

両親はこれで本当に喜んでくれました。

夫の師匠が俳句をやっていてそれに影響されて、夫ももう20年以上句会を主宰しています。

対詩の元々の形は連詩、その源流は連句、連歌で、自由詩という形で連詩ができないかという事をやっていたのが、大岡信さん、谷川俊太郎さんたちの「櫂(かい)」という同人誌のメンバーでした。  数人が数行の詩をリレー形式で書いてゆくものですが、対詩はその二人版で交互に詩を書いてゆくものです。  基本的には現場で一緒に行います。       ライブ対詩、二人がステージの上でパソコンを使って対詩をするわけですが、プロジェクターとつなげて、観客にスクリーンで見てもらいながら推敲を含めて行います。

即興に近い創作現場で、お客さんと作る現場を共有したら、また新しい世界が開けるのではないかと思って始めたのがライブ対詩です。  対応してくれたのは谷川さんだけでした。

中学1年の時に,NHKの「青年の主張」という番組を見ていた時に谷川さんが登場して「新成人に向けて」という自作を朗読されて、それに感動して、私はこういうことをする人になりたいと思ったことを明確に覚えています。

言葉の原型は文字ではなくて、音、声だと思ってる節が私にはあります。

31歳の頃うつのような状況になり、それまでの創作態度が根底から覆ったという感じでした。  うつを経験して気流法という名前の身体技法に出会い、自分の身体と向き合って、自分の身体の実感と言葉をつなげてゆくという構造を発見した時に、そこから書くものが変わりました。  それで詩人としてやっていけるのかなあと思いました。

身体からの実感を言語化してゆくという事です。 繊細なセンサーを働かせることが必要で待っていて受け取る。

詩というものの発祥は古代シャーマンたちが神様とやり取りをする言葉として詩があったという説があって、文字ではなくて音としての言葉が詩ではないかと思います。

私性は言い換えるとエゴとか小我(仏教)だと思いますが、それを消すためには徹底的に見つめて向かい合わないと消えていかないと思います。  自分自身を見つめていって、深いところに降りて行った先は、集合無意識のようなどんなに分かたれた人間同士でも共有できる意識の層にたどり着けるような気がしていて、そこには徹底的に自分を見つめることでしかたどり着けない境地ではないかと思います。

エクササイズとしては、イメージとしては例えば見たくないネガティブな自分がいろいろやってきて、そういった自分についての色んなことを全部花火の玉の中に入れ込んで、打ち上げて夜空にはじけてその光が星々になってゆくような感じです。  イメージトレーニングです。