三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・オリエントを訪ねて(H16/4/7放送)
明治時代に東京大学が出来た時に歴史学科が出来ました。
その時に西洋史、東洋史、国史の三本立てになり、それが今日まで続いています。
日本オリエント学会の発起人でもある杉勇先生が文部省に申請をして、大学院の方に中近東関係の学科を作ってよいと言う文章が規則の中に入りました。
学部の方に中近東関係の研究するものはできなくて、今でも西洋史、東洋史で扱っていました。
制度は一度できるとなかなか変わらない。
NHK学園で当時の理事長がこれから必要になる学問と言う事で、古代オリエント史講座を作ったのが昭和63年になり、監修を担当して、古代オリエント講座が発足しました。
通信教育講座。
古代オリエントの美術にあこがれる、宗教に興味を持った方、言語に興味を持った方がいますが、宗教社会学的な見地から、旧約聖書の研究に入ったものなので、若いころは美術、芸術等は現実から逃避するためにそういったものをやるものではないかと、誤った観念を持っていましたが、東京芸術大学で教えるようになったので関心を持つ様になりました。
歴史学はやはり生きんがための人間同士の血みどろの争いの足跡、その上に組み立てられてきたと思います。
研究する以上はドライに研究を始める方がいいと思います。
古代史はすでに出来上がっている様に思うかもしれないが、遺跡から出てくるもの、残されたわずかな文字に依る記録等に頼って歴史を組み立てるものなので、フィクションも多いが、これから研究する人は鋭い眼光を持って実際に実物のない、裏の裏まで見通して行かなくてはいけない。
歴史を書いた人の意見が入っているので注意しなければいけない。
古代史は実際に起こったこと言う風に考えやすいが、考古学的発屈、新たな場所から古い記録が発見されることもあるので、決して出来上ったものではなくて、これからの研究者が組み立てていくものだと言っています。
1956年サマーワを訪問 古代のシュメール(シュメル 私はそう言っています)。
京都大学中原先生から伺いましたが、戦争中に俗説として、シュメルをスメル、天皇のことをスメラミコトと言いますが、スメルのミコトであると、日本の天皇はシュメルから来たと言う俗説がはやったのでそれを抑えるために、中原先生はシュメール(長音を入れる)とシュメルではないと
言う風になさったらしいが、当時の一時的な便法であったので、昔の様に「シュメル」と直した方がいいと私は思っています。
1956年に初めて中近東の土を踏みましが、鼻の中がピリッと乾いた、乾燥の国に来たと痛感しました。
現地に行きますと、全て肌で感じる、ウル遺跡、ウルク遺跡に行きましたが、何とも言えない感じでした。
テラスを重ねた様な神殿で、下部の方は残っている。
イラク政府が修復を始めて、レンガの跡も新しい様な風に直ってくるので、1956年に私が撮った写真は現地に行っても見られないという価値が有るのかもしれません。
シンメトリーの研究。
シュメルの時代のはんこには、2種類有って、押すはんこと、粘土の上に葦の先を削って、粘土の上に文字を書いてゆくという習慣が有り、指の太さぐらいの円筒の周りに沈み彫りでいろいろなデザインで書いて、粘土の上に転がすと無限に絵が展開されて、円筒印章と呼ばれます。
円筒印章のデザインの中に真ん中に聖樹があり、その左右に対照的に動物を配置したと言うのが有ります。
西と東に伝搬して行って、真ん中の植物、動物の種類が変わってくるが、真ん中に神聖なもの、両脇に動物を配置するモチーフは変わらず、それがシルクロードを経て、中国に渡り、日本にもはいってきて、奈良の正倉院の宝物の中にも、植物、動物の種類が変わってくるが、そういったもののデザインが入ってきます。
中近東の歴史を学んでいるうちに日本の歴史にも関心を抱くようになり、両者の比較を始めました。
その手始めがシンメトリーのデザインだったと言う事です。
中近東では今でもシンメトリーのデザインが多いです。
ユダヤ教が紀元前6世紀ごろに現れましたが、ユダヤ教の用いてるデザインにもシンメトリーがあり、キリスト教でもそうですし、イスラム教でもシンメトリーのデザインが用いられています。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、所謂一神教の様な宗教が信仰された場所だと、シンメトリーのモチーフのデザインが用いられるんじゃないかと考えています。
日本では一般的にシンメトリーと言うものは、窮屈に感じる、奈良時代に中国から入ってくるが、平安時代になるとどこか崩されていくが、日本人はバランス感覚が発達してるので、見た目がおかしい様なところまでは崩しません。
日本では、宗教的な神社、お寺、家紋などにはシンメトリーが用いられるが、真ん中に植物、両側に生物という様なモチーフは極めて少ない。
多神教と言っても、シュメルと日本では異なるところが有りますし、一神教でもユダヤ教、キリスト教、イスラム教では異なるところが有り、注意しながら一神教、多神教の言葉を使うべきだと考えるようになりました。
昭和50年 エジプト訪問。
カデシュの戦い、紀元前1286年 エジプト19王朝ラメセス2世と、ヒッタイト新王国のカデシュの戦い。
アナトリアに国を設けたヒッタイトと、南のナイル川流域に国を建てたエジプトが戦うわけで、両方とも記録には自分の方が勝ったようなことが書いてあるが、実際にはそれほどはっきりした勝負はつかなかったのではないか、むしろヒッタイトに分が有った様なふうにもあるが、戦争の重要性は後で出来た平和条約、平和条約を結んでお互いに領土を侵略しないとか、第三国から攻撃をされた時には援軍を差しのべるとか、捕虜になった場合にも返還するとか、条約が有った。
現在の平和条約のルーツの様な感が有る。
ヒッタイトとエジプトでも同じ文章が発掘されている。
イラン2度訪問、昭和31年、46年。
ペルシャ ペルセポリス 2度行っています。
アケメネス王朝が古代オリエント史としては一番重要だと思っています。
紀元前6世紀ごろになるとペルシャ人が勢力を持つようになる。
民族、発屈の人骨では判らなくて、記録に残った言語に依ります。
シュメル人 独立したシュメル語を話していた。
南はバビロニア人、シリア人はセム語族の分類に入ります。
北はインドヨーロッパ語族(印欧語族) 紀元前2000年頃 ロシアのステップ地帯から東ヨーロッパに渡って広く分布していて遊牧をして馬を連れていたが、南に下って来て中近東の歴史に参加してくる。
ペルシャ人が中近東に入って来て勢力を伸ばして、殆ど征服して支配する様になる。
紀元前500年ごろにダレイオス大王が出てきて統治する。
世界帝国と称していい様な制度ができてきます。
税制、交通、宮殿等いろいろなことを成し遂げた、重要な遺跡が有ります。
ペルシャ帝国ができる前にバビロニア王国が有り、パレスチナにせめてユダの王国を征服して、ユダヤ人をバビロニア王国のバビロンにつれてきました、有名なバビロンの捕囚、ユダヤ人はバビロン付近に住まわせられていた。
政治的、宗教的な活動は許されなかった。
ユダヤ人は想を練ったり、宗教的な感覚を得たと思います。
ペルシャ帝国が成立すると、バビロンに捕えられていたユダヤ人が解放され、故郷のエルサレムに帰ってゆく。
エルサレムの神殿を再建するが、周りはそれぞれ権力を握った人たちがいて、再建がなかなかできなくて、ペルシャ王が支援をして、エルサレムの城壁、神殿も完成する。(第二神殿、紀元前515年)
ユダヤ人(ユダ部族)はそれまでいろいろな神を信仰していたが、ヤハウェの神を唯一の神とする。
純粋なユダ部族が固まり、ヤハウェという一つの神だけを信じる、第二神殿でもって新しい宗教集団として営みを始める、それがユダヤ教です。
ペルシャ帝国が西南にあるエジプトを考慮してパレスチナに防御のための橋頭保にしようとユダヤ人にゆだねたと思われます。
一神教はペルシャ帝国の政治的な状況の基にユダヤの一神教ができ上ったとこういうふうに考えたらどうかと思います。
ササン朝は勢力が衰えてくると、有力者がシルクロードを経て中国に流れてきて、ササン朝の文化(オリエント文化)が中国に入って来て、やがて日本に入ってくると言う事です。