三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・三笠宮様と古代オリエント(H16/4/6放送)
10月27日、昭和天皇の末の弟君、三笠宮崇仁様が亡くなられました、100歳でした。
三笠宮様は生前、オリエントの宮様の愛称で親しまれるほど、古代オリエント史に造詣が深く、東京芸術大学等で講義をさたり講演も数多くなさっています。
ラジオ深夜便にも12年前「心の時代」に御出演されています。
三笠宮様を偲んでオリエントに思うをアンコール放送します。
私が陸軍の参謀をしていまして、中国、南京の支那派遣軍総司令部におりまして、いろいろ見聞をしまして、キリスト教の宣教師の方が山の奥に入って伝道に勤めているとか、八路軍(中国の共産軍)が日本軍と対峙していて、岩山でどこからか土を運んできて農耕をすると言う様なこともありました。
中国の民衆に対していろいろな問題を起こした訳でしたが、
八路軍は婦女子に対する軍規が厳正であった、情熱が優れていた。
そういったことがどこから来るんだろうと考えていて、敗戦になりもういっぺん勉強し直さなくてはいけないと言う事で東京大学の文学部の研究生となり、西洋史を山中先生についてキリスト教を学んで、さかのぼってゆき、宗教改革、もっと古いことを知りたくて、宗教史、大畠清先生の講義を伺う様になりました。
キリスト教も新約聖書から旧約聖書までさかのぼらないとわかりませんし、八路軍のマルクシズムも、マルクスが代々ユダヤ教のラビ学者(律法学者)の家に生まれていて、ユダヤ教のことも聞いていたと思います。
キリスト教もマルクシズムも辿ってゆくと旧約聖書の問題になるのではないかと思って、東大の文学部に入る時には旧約聖書の研究をしていました。
創世記、天地創造の物語、ノアの洪水の物語など有りまして、出エジプト記もあり、物語の基が今のイラクの古い所、メソポタミア文明になり、古代エジプトの歴史になり、物語の基を探るようになり、範囲が広がっていって、古代オリエントの研究になったわけです。
旧約聖書の一番最初に創世記が有りますが、天地創造物語が有り、洪水物語があり、ノアの洪水と一般的に言われますが、流れつくところがアララト山という事になっています。
今のトルコの東の国境付近にあります。
好奇心の強い人がアララト山に登って流れついた船を探そうとした人がいます。
洪水物語で一番基はイラクで人類最古の文明を栄えさせたシュメル人の作った洪水物語、チグリス川、ユーフラテス川、特にチグリス川が毎年洪水を出して、その悲惨な物語がシュメル人の洪水物語になっています。
シュメル人の洪水物語がバビロニア、シリアとかの民族に伝わり、船に乗って助かる人の名前も、山の名前も民族に判る様な名前に変わってきます。
その後、パレスチナに行ってノアになり、船の泊ったところがアララト山になり、決してノア、アララト山が実際の地名、人名ではない訳です。
旧約聖書を学ぶ時に周辺の諸民族の歴史を研究する必要が有ると思います。
オリエントという言葉は、古いラテン語にある「登る太陽」とか、東の方を意味したオリエンスという言葉に由来します。
イタリア半島に住んだローマ人はラテン語を話していて、東にはギリシャが有り、ローマ人はギリシャの文明を高く評価していて尊敬していたのでギリシャ文明を取り入れて、ギリシャ文明は東から来る、光は東方よりと言う有名な言葉を残したわけで、近年では拡大解釈をされて、ヨーロッパから見て東、アジアから光が来ると言う事にも使われていますが。
オリエンスが今ではオリエントという事になりました。
中近東の範囲がオリエントですが、今では英語でオリエントと言うと東アジア、日本までも入ると言う事が有ります。
古代オリエント、多少範囲が違うが、西は東部地中海地方、北は黒海、カスピ海を連なる線、南はエジプトのナイル川流域地方、アラビア半島、 東はペルシャ帝国の東端、或いはアレクサンドロス大王が征服して行った、インダス川流域の支流五川地方迄を考えたらいいと思います。
時間的に考えると、5000年前ぐらいから文字を用いだして、ペルシャ帝国、ペルシャ帝国を滅ぼしたアレクサンドロス大王の時代までを終りとしたと思います。
アレクサンドロス大王はマケドニアの王でギリシャ兵を連れて遠征して、ギリシャ風の文明、ヘレニズム文明がアジアの方まで入ってきた。
古代オリエント文明はアレクサンドロス大王の遠征までその後はヘレニズム文明と考えたらいいと思います。
紀元前3500年~紀元前330年ぐらいまでが、古代オリエントの占める時代。
近東、中東、中近東、 地理的な名称というよりは政治的名称
近東:第一次世界大戦が始まる直前に支配していたのがオスマントルコ帝国で、ヨーロッパの諸国がオスマントルコの領土に野心を持ち始めて、ヨーロッパから見てオスマントルコ帝国の西の方の部分を指して近東(Near East)と呼ぶようになり、極東(Far East)は東アジア、日本あたりを指すがかつては、インドあたりと思われる。
近東と極東の間を中東(Middle East)という様になった。
近年になり中近東(the Middle and Near East)という名称が使われるようになりました。
第二次世界大戦が終わって、東京大学の文学部の研究生になり、旧約聖書を中心とした歴史を調べていたが、古代オリエントの歴史を研究している学者が少ないと言う事、中近東諸国との経済関係が深くなってきたので、研究組織を作らなければいけないと思って、古代オリエントを研究していた先生方に相談をしまして、オリエント学会を作った訳です。
1954年、昭和29年に正式に成立しました。
古代から現代までの研究をしなくてはいけないと言う事で、「日本オリエント学会」として、英語では
「THE SOCIETY FOR NEAR EASTERN STUDIES IN JAPAN」
正会員が70人ぐらいでした。(維持会員が10人余り)
昭和53年には維持会員は237名に達しました、現在正会員は700人余りになりましたが、維持会員は90人以下に減少しています。
「オリエント通信」雑誌が出ていたが、その後纏まって単行本が出ました。
日本オリエント学会が発展して、研究者の組織はそれでよかったのですが、研究の資料を提供する、図書を閲覧する場所が必要になり、博物館と図書館を管轄する組織が無かったので、一緒にする所がほしかった。
両者を平等にしないで一方を上位に持っていったような文章に直してようやく国の許可を得て、ICU(国際キリスト教大学)で講演をした時に、中川先生が学長でその話をしたら、学校の牧場だった所を購入して、出光美術館の三鷹分館という形で建物が出来ました。(昭和50年)
「日本オリエント学会」の事務所 三笠宮研究室
東伏見宮様の屋敷を宮内庁が管理していて(今、常陸宮様のあるところ)、の一部屋を借りて勉強したりしていましたが、今の陛下が東宮時代にお入りになると言う事で、出なくてはいけなくなって、宮内庁の資料部に一部屋空いていると言う事でそこを借りて三笠宮研究室になりました。
日本オリエント学会ができた時にそこを事務所にしようと言う事になりました。
助手の村井すみえさんが日本オリエント学会も兼務すると言う事になりました。
宮内庁という国の役所に民間の事務所を置くことはいけないと言う事で出なくてはいけなくなり、理事の加納 久朗さんが持っていました太平洋協会に事務所を移しました。
日本オリエント学会の強力なスポンサーであった天理教の中山正善氏で、図書なども買っていただいたりしていて、天理教館が出来た時に日本オリエント学会の事務所もそこに移りまして、現在まで続いています。
今年の秋、それぞれが執筆する形で、古代オリエント事典を出すことになりました。
固有名詞を(地名、人名)を日本のカタカナに直すということは本当に大変です。
執筆者184名、800ページになろうかという本です。
中近東文化センターとしてはトルコの発掘は大変重要なことと思っていて、募金のために3年前から全県下で講演をやっています。
最小限の目標は達せられて、アナトリア考古学研究所の組織を作って、建物を建て替える計画をしています。