小檜山 博(作家・NPO法人「北の映像ミュージアム」館長) ・人生讃歌
1937年 昭和12年に北海道滝の上町生まれ、79歳、作家です。
新聞社に勤め、その傍ら執筆活動を始め、1976年発表の作品「出刃」は北方文芸賞を受賞、芥川賞の候補にもなりました。
その2年後、「イタチ捕り」が直木賞の候補になったほか、泉鏡花文学賞を受賞した、「光る女」は後に、相米慎二監督に依り映画化されました。
北海道内を走るJRの列車内に置かれる冊子に、長年エッセーを連載していてその温かな作風は根強い人気が有ります。
札幌市にある「北の映像ミュージアム」の館長、映画夕張国際映画祭の実行委員長としても活躍しています。
苫小牧工業高校電気科に進みました。
他人への思いやりの多さがその人間をきめると思っていますが、「チャリン」と音がすると振り向いてしまう自分がいて、心、心と言っていても金にはかなわないのかもしれないと、無意識に思ってしまうのかなあとの不安さが有ります。
お金で買えないものはないと、聞いたりするが「なにを」と思う事が起きます。
金では買えないものを残しておきたいという気持ちが僕の中にあります。
父が20歳、母が24歳の時に福島から北海道に出稼ぎに来ました。
両親が炭焼きをするために金物屋から、鋸とまさかりを借りようとしたら、保証人を連れてくるように言われたそうで、思いついたのが小学校の校長先生で、行ったところ保証人なってもらえて、泊るところが無かったが、泊めてもらいました。
両親がそれから時々話してくれて、僕の中に沁み込みました。
北海道に来る人たちは次男三男が多かった。
本州からの古い歴史観、風習などが北海道に持ち込まれなかったことと、78人のお雇い外国人が北海道に来て、テーブル、椅子等の洋風の施設ができていた。
自由と平等の気風が育っていった。
母親も男と同じ仕事をやっていて発言も強かった。
4歳まで炭焼き小屋で育って、次の山、次の山へと13回変わっていって、その都度小屋を作ってそこで寝ていました。
中学2年の時に村の学校から町の学校に転校して片道17kmの山道を毎日通いました。
朝4時半に起きて2時間ちょっと掛かって、家に帰ると夜の8時ぐらいになって、夕食食べて風呂も入らず寝てしまう生活をしていました。
その後遠い親せきに居候をして、そこは8人の子供がいて、そこに唯寝させてもらうだけでした。
腹が減ってしょうがなくて、或るとき実家に帰って、夜8時頃こっそり出掛けて家には12寺近かったが、母から箒を持ってきて叩かれました。
13歳にもなって、家の人達がおまわりを頼んで町中おまえを探すかもしれないことが判らないのかといわれました。(食べさせてはもらったが)
おばさんが起きていたらなんていうのだと言われ、帰った時は3時半ぐらいになり、どう言おうか判らなかったが、おばさんは気がつかずに寝ていまいた。
それから思い出すが、母親がどういわせようとしたのか、判らない。
それから65年が経ちました。
実家に飯を食いに帰ったことは言えない、飯を食いに実家に帰ったことは正しくなかったのではないかとだけは思っています。
中学を終わってきこりになるつもりでしたが、先生が3回父親を説得して苫小牧工業高校電気科に進みました。
或るときジャンバルジャン「ああ無情」の映画を見に行く事になっていました。
母親に映画代10円をくれとは言えなかった。(その前に20円のワークブック代を母親に言ったがもらえなかったので、ワークブック代を先生から借りた)
その日、仮病を使って早引きしました。
皆が映画館に入ってゆくのを見ていました、10円の恐ろしさを知っていました。
帰る度に母親から学校を辞めるように言われましたが、何とか3日3晩頼んで過ごしました。
寮仲間でアルバイトをするのにじゃんけんをして決めていましたが、或るとき裕福な先輩が加わって来て、彼がじゃんけんに勝ってアルバイトの仕事を譲ってくれました。
卒業式に卒業証書を貰えなかった、授業料などを2カ月分払ってなかった。
払った時点で卒業証書をもらうという事だった。
寮で食べることもできずに部屋で過ごしていたら、後輩3人が自分達の分を残して飯と味噌汁を調達してくれて、泣きながらそれを食べました。
7日後に父親がお金は払う事が出来ました。
新聞社に勤めて、小説を書いてゆく事になり、46歳の時に、卒業した時の3人(当時東京の会社にいた土木部長、、支店長になっていた)を温泉に呼んで御馳走することにしました。
あの時の飯が一番おいしかったと言ったが、3人は全然覚えてないとケラケラ笑っていましたが、覚えていないことはないと思いました。
例え彼らが忘れたとしても自分は忘れるわけにはいかないと思いました。
苫小牧工業高校電気科に行って、教わった事は人間にとって優しさとは何かを学びました。
全国138校廻ったりしましたが、メールで挨拶するので声を出さなくても言う必要がないと言って先生も困っているとの事で、どういう育て方をしたのか。
「今日はいいお天気ですね」(ところであなたのお体の具合はいかがですか、という相手を思いやる言葉)→「今日は」が「こんにちわ」になる。
これを親が教えなかったことはショックです。
「さようなら」 はまたお会いできるまでお元気で、という意味です。
学校に行く前に、子供に教えなくてはいけない言葉が1500語ある。
「行ってまいります」(行って帰って来るから大丈夫)、「行っていらっしゃい」
「ただいま」 唯今。(ただいま帰りました)
人間は言葉で考える。
思考力、判断力、主義主張全て言葉。
学力 子供自ら学びとる生きる力を学力と言う。(3つ)
①他人の心を感じ取る力
②他人と協力しあう力
③自分の感情をコントロールする力
お世話になった教育長が60歳で倒れてしまいました。
お礼の意味を込めて、はがきを毎日書いて届けました。
200枚を越えて、350枚、400枚を越えた時に亡くなってしまいました。
奥さんははがきを楽しみに生きてくれました、と言ってくれました。
私も残り少なくなってきたと思うので、お金のことだけは考えまいと思います。
お金のことを考える暇がない、本を読み、連載を5本持っているので沢山ものを書いて、カラオケをやり、酒を飲み、家族と友達と喋る。
40年前、原稿を頼みたいと言う事で、東京で会うことになったが東京に行く為の10万円のお金が無かった。
高校の友人(義侠心の強い人)が11回の退学処分の時に、先生が土下座をして彼を辞めさせるなら自分も辞めると言って彼の退学を救った。
その彼が30歳で社長になって、彼から10万円を借りて東京に行きました。
その時に書いた小説が直木賞の候補になっていきました。
金を返そうと、おでん屋で飲んで、お金を返したら、奥さんに3万円、自分に3万円、残りを取っておけと言って、「いいんだお前 困った時はお互いさまよ」と言ってくれました。
彼は自分を職員会議から救ってくれた先生ご夫妻に対して、お礼の意味で海外旅行を12年間全て援助し続けたそうです。
61歳の時に病気で亡くなっていきましたが、彼からもらった言葉、「いいんだお前 困った時はお互いさまよ」を座右の銘にして生きていきたいと思っています。