保阪正康(ノンフィクション作家) ・日本列島改造(第36回)
高度経済成長の中でも第3期、昭和45年万博から石油危機の起こった翌年の昭和49年頃までの時期。
佐藤内閣後半から田中内閣の時代に対応。
田中内閣は昭和47年7月7日に誕生。
昭和47年 戦争処理が一区切りついた年、5月15日に沖縄に施政権返還、沖縄県誕生。
沖縄は核の問題、アメリカの基地という問題を抱えながら大きな変化のない返還となり、屋良主席は内在していると複雑な思いを語っている。
田中内閣は昭和47年7月7日発足、日中国交回復正常化を推進。
9月29日に日中共同声明に調印、国交回復なる。
来年で45年になる。
日本列島改造に着手する。
今年は角栄本がブームになる。(2点が注目)
①田中角栄は危機的な状況を抜け出す時に、何か参考になることをいっているのではないか。
②難しい議論はいい、日常生活の中からすこしずつ生活を変えていこうと言う、即効的な政策では田中さんは多くの政策を打ち出したことが見直されている、今日本が発展している状況が太平洋側の都市主体となった偏頗な形の発展、日本列島改造というのはもう一回見直すべきだと世論が潜在的にあるのではないか、大都会集中で人々の生活が満足していないのではないか。
(均質化した社会を形成)
東条英機、吉田茂、田中角栄 この3人を昭和の代表的な首相として比べた時に、田中角栄だけが庶民の側の心理を理解できる、昭和史の中で重要な意味を持っていると思います。
庶民の思っている欲望を政策化した首相だったと思う。
「日本列島改造論」
3カ月で100万部越えた。
日本に25万都市の中小都市をいくつも作って、都市機能を分化させながら、都市と農村の格差を無くす、都市機能を高速道路で繋ぎ、日本社会全体に新幹線を走らせて、日本全国のそれぞれのところに住んでいる人達は東京と同じように文化、経済生活を享受できる、全国均質化計画だったと思います。
田中首相の演説
「まだまだ日本には沢山土地がありますよ、これを新幹線で結べば、高速道路で結べば、飛行機で結べば大したことはないじゃありませんか、そうすれば周りに少しは緑のある所、考えればどうするんですか、そこで日本列島改造というのがでてくるんですよ」
日本の歳出の幅が増えてくる。
老人医療無料、公共事業費が膨れてゆく、老齢年金の受給者が増えてゆく、列島改造のために予算を割くと言う事自体が厳しいという財政状況もあった。
農村主義、農村共同体として伝統を残す空間を作りたいと言う事もあったと思う。(愛郷心)
NHK総理と語るの中での話。
尋常小学校の校長草間先生のことを愛着持って語っている。
小学校の校訓作った人といわれる。(「人を信ぜよ。」、「自信を持て」、「責任を回避するな」)
小学校の校長草間先生は至誠の人。(愛郷心)
書道の達筆の人、書道は精神で書くものだ、書体を見ればその人の人格が判るとさえいわれた。
書が乱れている時には、自らから乱れていると思え、という様な教育をずーっと受けていました。
土地の価格が高騰してゆくと言う事で、生活の中で一生懸命働いても家も買えないと言う値上がりもして、社会全体が浮足立ったような感じがあった。
浮足立ったような感じが日本列島改造や新全国総合開発計画をすすめていたが、どうも上手く動かなかった。
大きなシステムとして連動して動く事が出来ずに、土地が上がる、財政が厳しい、その都度問題がでてきて、長いレンジの予算を組むとか、プログラムを持つと言う事が出来なかった。
上手くいかなかった外部要因として、昭和48年10月に第4次中東戦争がおこり、中東産油国が石油を戦略物資に使う。
イスラエルに好意的な国に対しては輸出しない、或いは大幅に減らすと言う戦略を打ち出す。
以前の様な量を確保できない、石油の価格高騰という事で高度成長がしぼんで来る。(外部要因)
オイルショックは家庭を直撃する、トイレットペーパー、洗剤が無くなる。(買占め)
田中首相の金脈問題、逆風と向き合う形になってゆく。
昭和49年、文藝春秋11月号、立花隆さんが書いた「田中角栄の研究、その金脈と人脈」で窮地に追いやられる。
日本列島改造はとん挫してしまう。
昭和49年12月辞意を表明。
昭和47年1月24日横井庄一さんがグアム島から28年ぶりに救出された。
昭和47年2月3日からは札幌オリンピック。 (ジャネット・リンが人気者に)
日本が70m級ジャンプで金、銀、銅を独占する。
昭和47年2月19日 連合赤軍の浅間山荘事件
昭和47年3月 高松塚古墳から壁画が発見
昭和48年8月8日 金大中事件
昭和49年3月10日 小野田寛郎さんがルバング島から30年ぶりに救出。
昭和49年10月14日 長嶋茂雄現役引退。