五輪真弓(シンガーソングライター)・歌で広げる“心の友”の輪
「恋人よ」のヒット曲で知られるシンガーソングライターの五輪真弓さんがデビュー45周年を迎えました。
アメリカやフランスでの海外レコーディングやコンサートなど独自の音楽路線を歩んで来た、五輪さんに日本の歌謡曲への回帰が転機となって「恋人よ」を初め数々の名曲が生まれました。
私生活でも結婚 、出産、育児を経て家族の絆が人間的にも音楽的にも五輪さんを成長させてくれたと云います。
五輪さんの曲「心の友」はインドネシアで第二の国歌として親しまれています。
スマトラ沖地震の際、現地の人たちが苦しみながら復興作業にあたり、大きな心の支えになったと伝えられています。
自分の作った曲が翼を持って飛び立ち、多くの人たちに生きる喜びを与える音楽の力に生き甲斐を感じ、歌で心の友の輪を広げ続けています。
デビュー曲「少女」。
精神的にも何か大人びた子でした、警戒心が強くて、未来のことを考えながら行動する子供だったような気がします。
両親が共稼ぎだったので、3人兄弟の末っ子で、外で彼らをいつも待っている様な状況でした。
小さいころから歌が大好きで、歌が寄ってくるという様な感じでした。
父が音楽が大好きでバイオリンとかオルガンとか弾いていてレコードを良く聞いていました。
高校1年の時に父が誕生日にギターを買ってくれて、夢中になって練習して、仲間たちと一緒に演奏したり歌を歌ったりしていました。
高校2年の時に民放TVのオーディションが有り、合格して出ることになりそれが初めて人前で歌う事になりました。
高校卒業後、小さなライブハウスで歌う様になり、色んなところを廻っているうちにラジオ局のオーディションを受けて、合格して、ラジオ番組に出ることになり、自分でもオリジナルを書く様になって、何時の間にかプロになってしまいました。
或るとき、自分が英語で歌うことの限界を感じて、ハートを伝えたいと思ってオリジナルを書く様になりました。
ロサンゼルスで制作しました。
10曲そろった時点でデビュー作を作りたいと申し出まして、シングル盤でデビューすると自分としての人となりをあまり理解されないと思って頑固になって、アメリカレコーディングも加えてしまいました。
キャロル・キングが一緒にやりたいという事にもなって、自分としてはもったいない、信じられない気持ちでやりました。(ピアノで参加してもらいました)
お世辞は言わない、インタビューには答えない横柄な子でした。
子供を持ってから変わりました。
デビューしてから五輪真弓の世界に拘って作曲していたが、書き続けることが難しくなってきて、違う世界を切り開かなければいけないと思って、75年スランプでもあり、次を考えようと思っていた。
そんな時、フランスから声がかかって、フランス語でデビューしてほしいとの事だった。
躊躇していましたが、空白のスケジュールを埋めるためにフランス行きを決めました。
どこまで伝わっているのか、判らなくて、これは日本で仕事をするべきだと、伝統的な歌謡曲を取り入れて作曲したらどうかと思いました。
それを機に沢山の曲が作れるようになりました。
「恋人よ」等が生まれました。(1980年、紅白にも出場)
あらゆる分野の曲を聞いていて、それが融合したんだと思いました。
結婚前は礼儀作法を教えてもらっていなかったが、結婚後、主人はお店の息子なので主人に物凄く厳しく教育されました。
横柄な態度は無くなり、子供を育てることで相手の気持も分かろうとする姿勢も出てきて凄く良かったです。
「ボーン・アゲイン」 10年前に思いついたが、その時の自分では書けなかったが、長い年月がかかって、東日本大震災が有り、自分が還暦になって2011年の時に書く事が出来ました。
息子が31歳、娘が25歳になりました。
子供に対する愛情、母性本能というのは物凄くあります。
3歳になるまでは一緒になってやりたかったが音楽との板挟みになり悩みましたが、二人目は状態も安定していたし、(1996年)二人で決めてそばいる様にしました。
息子はマスタリング・エンジニアで専門的な音作りをしてくれたりして、良かったなあと思います。
生まれてからずーっと同じ目線で育ててきて、自立心の強い子に育ってくれました。
友達の様に扱われてしまう事もあります。
子供によって私も育てられたと思います。
自分自身、野原で遊んだりして、外の世界と接していた時間がたくさんあるので、自然とそういった自然のことが素材として身体の中にあって創作の時には必ず出てきます。
渋谷に住んでいた時に子供がカーテンのところから出てきたときに鼻が黒くなっていて、こんなに汚い所にいたのかと思って、引っ越しました。
「心の友」インドネシアで良く知られていて、言葉を理解していないのにもかかわらず、物凄く好きで、「心の友」というタイトルも好きで、友達だという事でもしかしたら必然的に彼らに受けいれらたのかなあと思います。
1982年の潮騒というアルバムに入っていたのですが、ピックアップしたのがインドネシアの放送関係の人でした。
何回もかけるようになって全土に知られるようになって、今では第二の国歌という様になりました。
親が子に歌い伝えるようになって、スマトラ地震の復興の時にも、復興グループの方が一緒に口ずさみながら働いていたと聞いています。
「KOKORO NO TOMO」として地元の歌手も録音しています。
曲自身が命が有る様に、翼が有る様に羽ばたいていって、人々に受け入れていった、私がやったのではなくてこの曲が自分から羽ばたいて行ったという様な気持です。
インドネシアとの国交、振興に寄与したということで、大使館から頂きました。
夫は直感を重視する人間で、長いこと考えない人で、私の歌を理解していてくれる人です。
3年前のコンサートツアーの構成、演出も彼がやってくれていて、彼以外にはいないですね。
家族、子供は運命共同体だと思いますが、それぞれ独立して、主人も独立心が強いし、何れは一人になるともいうことですし、いま結構さっぱりとした結婚生活です。
難しくてとっつきにくいと言っていた人達が段々判る様になってきたと言って足を運んでくれる人達が多くいて、そういう方たちとの出会いもとてもうれしく感じて、生きている価値が有ると思っています。