*今年(2021年)5月に88歳で亡くなった澤田隆治さんへの2015年のインタビュー。
NHK大阪放送局 JOBKがラジオ放送を始めてから90年になります。
昭和26年民間放送の登場で、大坂のラジオ番組特に演芸番組には活気がみなぎっていました。
昭和26年民間放送の登場で、大坂のラジオ番組特に演芸番組には活気がみなぎっていました。
昭和8年に大阪に生まれて、戦後外地から富山県の高岡に引き上げてきた澤田さん、やがて故郷の関西に戻って大学を卒業すると昭和30年に大阪の朝日放送に入社ます。 ラジオの園芸プロデューサーになった澤田さんは、多くの寄席中継や娯楽番組を制作します。
昭和30年代はラジオの時代からTVの時代に移ります。 コメディー番組やドラマに携わり、最も人気を集めた番組のひとつが、昭和37年から6年近く続いた朝日放送TVの「てなもんや三度笠」 最も高かった視聴率が東京で42.9%、大坂では64.8% プロレスやドラマを抜いてトップに立ちました。
この番組を製作していたのが澤田さん、昭和30年 朝日放送に入社、しばらくはラジオの演芸担当のプロデューサーとして腕を磨き、その後草創期のTVディレクターに転出、数々のコメディーを製作、1970年代に製作会社に活躍の場を移してからは、日本TV系列の「ズームイン朝」を企画したり、1980年代は関西TV製作の「花王名人劇場」で漫才ブームの仕掛け人としても知られ、漫才ブームを巻き起こしたりしてTVの第一線でプロデューサーとして活躍し続けました。
この番組を製作していたのが澤田さん、昭和30年 朝日放送に入社、しばらくはラジオの演芸担当のプロデューサーとして腕を磨き、その後草創期のTVディレクターに転出、数々のコメディーを製作、1970年代に製作会社に活躍の場を移してからは、日本TV系列の「ズームイン朝」を企画したり、1980年代は関西TV製作の「花王名人劇場」で漫才ブームの仕掛け人としても知られ、漫才ブームを巻き起こしたりしてTVの第一線でプロデューサーとして活躍し続けました。
戦後ラジオしか楽しみはなかったです。 あと映画ですね。 高岡は空襲を受けてなかったので映画館は全部残っていました。 映画はむさぼるように見ていました。 昭和24年に始まったNHK大阪放送局の「上方演芸会」は面白いと思いました。 海原お浜小浜さんは戦争中は「愛国お浜小浜」と名乗っていて、これはいかんという事で田舎に引っ込んでいました。 その後大丈夫だからという手紙をもらいおずおずと出てきたという事です。
昭和26年に民間放送局が相次いで開局します。
昭和30年にアサヒ放送に入社しました。
昭和30年 関西地区ラジオ 1位アサヒ放送「漫才学校」(ミヤコ蝶々さんが校長)57.5% 2位新日本放送「浪曲ごもくめし」44.8% 3位NHK「浪速演芸会」41.3%
昭和30年 関西地区ラジオ 1位アサヒ放送「漫才学校」(ミヤコ蝶々さんが校長)57.5% 2位新日本放送「浪曲ごもくめし」44.8% 3位NHK「浪速演芸会」41.3%
西宮球場で「浪速演芸会」の公開放送をやって、その時にいっぱいになったという話があります。(ラジオであるのに万という単位の人が入った。)
アサヒ放送の「お笑い街頭録音」というのがあって、13位ですが、前座があり、雁之助,小雁さん、かしまし娘の照枝、花江の時の二人を替わりばんこに連れて行きました。 堺筋の建物では公開放送の場があり、そこでは漫才の大会があり、藤田まことが新人の時に使いましたが、あまり受けなかった。 彼と出会ったのはそれが最初でした。 当時物まねでうまかったのは川上のぼるさんでした、声帯模写が実にうまかった。 司会は川上のぼるさんがやっていて忙しい時には藤田まことがやって、これがもっと忙しくなると大村崑がやっていました。
「お父さんはおひとよし」を何とか抜かなければと思っていた。
「お父さんはおひとよし」は日常会話の中にクスッと笑わせる、大阪弁の言葉を大事にした。 長沖一さんの原作でしっかりしていて、こういうものでいいのかと思いました。
「お父さんはおひとよし」は日常会話の中にクスッと笑わせる、大阪弁の言葉を大事にした。 長沖一さんの原作でしっかりしていて、こういうものでいいのかと思いました。
花菱アチャコ、浪花千栄子 で後は劇団の人たちでした。 漫才の会話とは全然違っていました。
劇仕立てでストーリーを構成するときに、漫才的な要素を入れて成功するのは難しかった。 リズムが違っていてボケと突っ込みをなかなか持ち込めない。 受けたのは「漫才学校」だけでした。
劇仕立てでストーリーを構成するときに、漫才的な要素を入れて成功するのは難しかった。 リズムが違っていてボケと突っ込みをなかなか持ち込めない。 受けたのは「漫才学校」だけでした。
入社して「東西寄席風景」、「浪曲歌合戦」等を担当する。 東京の放送局との共同制作でした。 東京は落語主体でした。
楽屋に一回見学に行ったことがありますが、凄い人たち、桂文楽さん、小さんさん、円生さん、正蔵さん等がいました、大坂はダイマルラケット、砂川捨丸・中村春代さん等。
生中継ではなかった、編集して行った。
「東西寄席風景」がその後「寄席風景」となる。 昭和31年になると聴取率を盛んに気にするようになる。
昭和29年朝日放送 ダイマルラケット、三笑亭可楽さんと準専属契約、31年ダイマルラケット、森光子、川上のぼるさんと専属契約、32年かしまし娘さんと準専属契約、33年桂米朝さんと準専属契約。
専属契約をして人を確保する。
新人を発掘する、鳳啓助京唄子さんでは鳳啓助さんが全部ネタを作りました。 そのころから新人が増えてくる。 漫才はどうにでも時間を調整できるが、落語の場合は昔のテープがありますが、ほとんど完成品ではありませんでした。 民間放送は特にそうでした。
TVの時代になってきて、ラジオよりTVが盛んになってきて、「スチャラカ社員」がベースになって「てなもんや三度笠」藤田まことにやらせるようになる。
澤田さんは昭和33年 「びっくり捕物帖」、「やりくりアパート」のアシスタントディレクターを担当する事になる。
「びっくり捕物帖」 主演は中田ダイマル・ラケット 与力(藤田まこと)の指示で事件の捜査 森光子さんとっての出世作ともなった。
「やりくりアパート」 横山エンタツ(アパートの管理人) 大村崑 佐々十郎 茶川一郎さんなど
CM 最後にセットの前に持ち込み、大村崑 佐々十郎さんが来て「ミゼット」「ミゼット」と連呼した。
大村崑 佐々十郎さん ぶっつけ本番で出演していた。
毎日放送TV 昭和35年 「スチャラカ社員」 社長 ミヤコ蝶々、中田ダイマル・ラケット、藤田まことさん等が出演、人気コメディー番組になる。
高度成長期にずぼらな社員が登場。 藤田まことがめちゃくちゃ売れてきて、他の局にも参加。
裏番組をやらない様に動く。
昭和37年5月 「てなもんや三度笠」がスタートする。
あんかけの時次郎 藤田まこと、珍念 白木みのるさん
時次郎が「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」と締める。
演出 澤田隆治、脚本 香川登志緒さん
日曜日の6時からだったので、時間帯としては難しい時間帯だった。
半年ぐらいは厳しかったが、そのうち東京でも人気になってきた。
最も高かった視聴率が東京で42.9%、大坂では64.8%となった。
笑いのテンポが早く、東京の人がなじんでしまったという事もあると思う。
全国にも判る大阪弁にしようと心掛けていました。
東京からゲストを招いたりもしました。
昭和34年 毎日放送TV 「番頭はんと丁稚どん」が「私の秘密」を抜いたと言って話題になった。
東京でめちゃくちゃ受けました。
大村崑 茶川一郎 芦屋小雁 芦屋雁之助さんなど
立体漫才の突っ込みとぼけ、大阪の場合はそれを集団で見せてゆく。
昭和の時代には大阪の番組が10年ごとに大きな波を起こしたという説を持っていて、昭和24年「上方演芸会」 昭和34年「番頭はんと丁稚どん」 昭和44年「ヤングおーおー」、昭和54年「花王名人劇場」