工藤千恵(性暴力サバイバー) ・語る決意
8歳のころ、塾からの帰り道で見知らぬ男に連れ去られ性的な暴行を受けました。
被害を受けた後は長年にわたって突然鮮明に浮き上がる記憶や周囲の好奇な目に苦しめられてきたと言います。
しかしその被害から35年、43歳になった工藤さんは性暴力サバイバーとして活躍しています。
性暴力サバイバーとは性暴力被害からの生還者という意味で性的暴行などの被害から立ち直ろうとする人々を指す言葉です。
同じ苦しみを持つ被害者の支援に繋がればと自分の体験を講演会等で語るようになったのです。
警視庁に依りますと、去年の強姦と強制わいせつ認知件数は合わせて8600件余り、しかし誰にも被害を打ち明けることも出来ない人もいるため、性犯罪被害者の実際の人数は、さらに多いと考えられています。
工藤さんが体験したこと、そして人知れず苦しむ性犯罪被害者を支えていくためには、どんなことが必要なのか、伺いました。
日本全国に数名、自身の経験の話をしている方はいますが、九州では私一人だと思います。
この1年半で30回講演を行ってきました。
今回、熊本で講演、警察関係、医療関係、弁護士、地域で見周り活動しているボランティアの人達、学校関係の人たち等に参加していただきました。
私の話を聞く事によっていろんなパターンの想像ができる、想像力ができればいいなあと思います。
小学校3年生の時に、塾の帰りに道を聞かれて、不審に感じて逃げようとしたが、手首を掴まれて、声を出したら殺すぞと言われて、そのまま連れてかれました。
1km歩かされて、畑のビニールハウスのわきに連れ込まれて押し倒されて、触られたり舐められたりしました。
助けてと、声をだそうとしたが、声が出なくて、ただただ涙だけが出てきて、悲しかったです。
不審に感じた通行人が110番して、事件が発覚して、被害にあっている最中に検察官が到着したという形でした。
恥ずかしいこと、悪いことをしたという様な思いがわいてきて、とても悲しい気持ちになったのを覚えています。
不快に感ずること、見られてはいけないところを、こんなにたくさんの人に見られてしまった、という思いが強かったと思います。
犯人は50代後半で、酔っていたという事です。(新聞記事)
次の日、学校に頑張っていったがクラスメートに取り囲まれ、たくさんの人から色々質問されたが、私ではないという事を言うだけしかできず、心を閉ざすことしか選択は有りませんでした。
中学校に行った時に性行為の意味を理解する事が出来た時に、生きていく事が出来ない位、大変な経験をしてしまったという思いになって、生きるのが苦痛になり自暴自棄になりました。
非行に走って行って、男性恐怖症になり体が震えるが、この身体はどうにでもなって良いという感覚にもなり、好きでもないのに凄く年上の人と付き合ったりして、人生をあきらめてしまった様な、自分の性、身体を大切に扱えなくなって、無茶苦茶になっているんだから無茶苦茶にしていいよ、という様な感覚で過ごしていた様に思います。
中学校3年生になった頃に、女性らしくなってゆく身体を受け入れられなくなりました。
女性らしく自分が変化して行ったら、又同じような事件を引き起こしてしまうのではないかと思って、自分が女性であることが憎らしくなって、男性には成れないのかとか、死ねば終わるのかと思ったりして、薬を大量に飲んだりすることを何度かしました。
20歳のころ、主人と付き合いのスタートをしました。
主人と食事に行ったりする時に、体が震えていないという体験をしました。
この人だったら大丈夫かもしれないと思いましたが、過去の事を黙っているという事がいいのかが、自分の中にあり、主人に付き合い始めたころに話をしました。
淡々と聞いてくれて、「そんな大変なことがあったんだね、話してくれてありがとう」と言ってくれたのを今でも凄く感謝しています。
25歳で結婚して2人の娘に恵まれました。
長女が8歳になった時にスイッチがはいってしまって、娘を家から出せなくなって、学校には行かせるが、夕方被害に遭った時間と重なると、いてもたってもいられなくなって、探したり学校に電話をしたりして、家にいるとパニックになってしまって、主人、母から説得をしてもらったが、頭では分かっているが、娘が被害に遭うかもしれないという事で心の中はいっぱいで、娘に怒鳴ったりしました。
薬を飲んでも症状は悪化してゆきました。
娘の立場になって考えて、被害に遭った経験を娘に話してみようという思いになり、主人と両親に話したが特に母に大反対された。
両親を何とか説得して、3年生の娘に話をしたら、「そんなことがあったんだ、かわいそう」と言ってくれて、だからそうなっているんだと理解してくれました。
時間を守る、行き先を細かく伝える、等どうしたら症状が出ないかを話し合った。
娘が凄く協力的で症状もよくなり、薬も手放すことが出来ました。
自分と向き合える時期が段々出てきて、何かできないかと思った時に、犯罪被害者支援センターを訪ねた処、講演会とかで話てはみないですかという申し入れがあって、講演後、会場に新聞記者の方がいまして、取材をしたいという申し入れがあって、実名で一面に4日間連載で書きたいとの事で、家族と相談する事にしました。
誰か一人でも反対があれば断るつもりでいました。
長女に話したら、怒られた、「やりたいんでしょ、誰かの役に立てると思っているんでしょ、お母さんがしなくて誰がやるの」と言われ、背中を押された様な気がしてやることにしました。(長女は高校2年)
周りの人が記事を読んで言ってきても、私は言い返せる、母は別に悪いことをして新聞に載る訳ではないので、と言ってくれました。
決心が固まった時は、自分が強くなった様な気がしました。
講演で聞いている方の中で当事者がいるので、昔のことを思い出してしまったりするので、講演後、主催の方を通して控室に来て私も当事者なんですと、どこの会場でも必ずあると言ってもいい
ぐらいいます。
訪ねてくるだけで物凄い勇気がいることです。
被害にあったからこそ被害の大きさを当事者は考えてしまったりします。
未遂の場合でも、怖さは同じで、来て頂いた事に対して勇気がいるので、有難うとまず伝えます。
話を聞いて言葉を少しずつ声をかけて行き、泣いていたのが段々落ちついてきます。
自分も自殺未遂をしたことがあるので、当事者の方も死にたいと思ったことがあるはずなので、今日出会えたこと、生きていてくれてありがとうと言います。
講演会で話をする中で、支援をする人の心のケアが重要だと言っています。
代理受傷を出す方がいて、自分は被害には会っていないがPTSD症状を起こしてしまう場合があります。
家族となると、やり場のない気持ちとかをぶつける場所が無く、家族のケアまでなかなか回っていないというのが現実です。
周りからの支えがあれでよかったのかと後悔している方などが多いので、自身を責めないでほしいとも言っています。
人は言葉で伝えるので、何が伝わるかと言うと言葉だけでなく、思いも伝わります。
罪は許せないが、2年ぐらい前から加害者の人と交流するようになって、或る人は生後10か月で両親に捨てられた経験のあるかたで、施設にたらい回しにあい、感情を溜める癖がついて、感情が溜まっていって、こらえ切れなくなって爆発した時に加害をしてしまった、といっていました。
加害者を無くすという面から考えると、いろんな角度から見ていかなければならないと思っています。
匿名でなく実名にしたのは、被害に遭った後でも、未来や希望があると思うので、架空の人では想像できないと思うので、どう見ても楽しく生きている、今の自分が好きと生きているという事を感じて欲しいので、実在していて私が工藤千恵であるというかたちで、みせたかったというのが思いの中に強くあるかもしれないです。
どっちに向かってどうしていったらいいのか見えない状態から、回復した先に自分が望めば光が必ずあるという事を感じてほしい。
自分が楽しく、自分のために精一杯生きて、それを見せることによって、判らないゴール、判らない行き先の一つを見せる意味なのかなと思っています。
被害に遭った後、毎日の生活の中で生きにくさを感じていると思うが、一人ではない、回復の過程でいろんな寄り道をするが、そこで感じることで回復に向かう事があるので、自分の人生は自分が諦めたら終りなので、もっと幸せを感じたいと思うならば、諦めないで下さい、必ず人との出会いがあるので、諦めないでくださいと伝えたい。