2015年12月14日月曜日

西蔵ツワン(病院院長)      ・来日50年、「チベットの魂」を胸に(1)

西蔵ツワン(病院院長)        ・来日50年、「チベットの魂」を胸に(1)
1952年チベット第二の都市、シガツェ市生まれ、1959年中国政府の支配に反発する蜂起、チベット
動乱が勃発した時は7歳、チベット政府の役人だった父親はインドから戻れなくなり、其れ以降母親と妹の 3人でチベットで暮らしました。
1962年密かに戻った父親と合流し、一家4人でインドに亡命、ラージリンにある難民センターに収容されました。
1965年 13歳の時にチベット亡命政府の方針とチベット問題に関心のある日本人の働きかけがあって、他の4人の少年と初めて日本の地を踏みました。
ツワンさんは埼玉県内の中学高校で学び、医科大学を卒業して医師と成りました。
現在は埼玉県日高市の病院の院長を務めています。
1987年には日本に帰化して、医師の仕事のかたわら、日本人にチベットの事をもっと知ってもらおうと、講演や執筆活動をしています。
6年前に出身高校の同窓生達と飯能チベットを知る会を立上げ、映画の上映、講演会を開いています。

インドに行って今年で25年になります。
80年代に妻と私がインドに行く事があり、妻の出身地が南インドにある難民キャンプでモンコット?、そこで可なりのショックを受けました。
暗くて子供たちが置かれている環境が劣悪で、ショックを受けて、日本に帰って来てから何か出来ないかという事で、埼玉医大出身者の同僚と話をして、組織を立ち上げようという事になり、後輩の椎貝典子先生が父親(椎貝慶太?さん)に話をして、200万円を寄付しようと言ってくれて、3階建ての幼稚園ができました。
チベット子供支援会 パサニア(しいの木)会ができる。
図書館もたて書物もいれ、健康のためにバスケットグラウンドも作りました。
里親制度を導入して70名近く支援してきて、それから25年経ちました。

現在、中国のチベット自治区に位置付けられている。
1959年以前は広大な地域だった。
中国の青海省、西康省はかつてはチベットだった。
現在でも123万平方kmある。
東南アジアの水源がチベットにある。
ラサが中心都市 第二の都市、シガツェ市(インド、ネパールに近い商業都市)生まれ。
塩の道があり、インドに岩塩を運び、インド、ネパールからは米を運んできて物々交換をしていた。
父はいくつかある塩の道の統括する地方役人だった。
標高4000mぐらいで特に夜の空が、星が素晴らしい。
ルンタ ルンは風 タは馬 風の馬という意味を持っていて、旗に5色で願いを印刷して、チベットの風になびかせて、旗に願いを込める。
チベット人の家に行くと必ず仏画、仏間があり、朝昼晩 お祈りします。
生きとし生ける全てのものに対して、平和がありますように、というものの考え方がチベット人には心に沁みついています。

2008年6月に発行の月刊誌に手記を載せる。
チベット騒乱 
1959年 チベット動乱 民衆が蜂起、中国政府からの抑圧、ダライラマ14世がインドに亡命。
父はしょっちゅうインド、ネパールに行き来していて、チベット蜂起の日
ダライラマ法王初め約6万人がインドに亡命する。
父はチベットに戻れなくなってしまった。
中国が侵攻してきた目的
①古い封建制度から解放する。
②帝国主義が入ってくることへの阻止
それからすると中国政府から狙われやすい立場にあり、父は戻れなくなり3年ぐらいインドにいて、3年間別れ別れになりました。
中国共産党の凄いプロパガンダの中で暮らしました。
毎週映画を見せられて、如何に中国八路軍が日本軍と戦ったのか、朝鮮戦争等の内容だった。
野外の壁に映して見せられた。

遊びは兵隊ごっこだった。
公開裁判を見学させられた。
先生はチベットと漢民族の半々で、チベット語、中国の漢字などを習った。
国家分裂という事で、プロパガンダにさらされた中で、ダライラマ法王は嫌いでした。
中国共産党の予備軍として、首に赤いネッカチーフがあって、右に腕章があって2までもらって(3が最上級)いました。
3年後に父がもどってきました。(その間家族を連れだそうと機会を狙っていたらしい)
身分の低い服装に変装して戻ってきました。
父が戻ってきたときに私が密告してしまうのではないかと両親は思ったらしい。
私が骨折をしていて、湯治が目的だという事でチベットを離れインドに向かう。
ヒマラヤを越えなくては行けなくて、夜に動くのでおかしいと思って、聞いてみたら、インドに行くという事だった。
歌を歌いながら歩いてきたりしたが、国境を越えたところで、今まで歌っていた中国の歌は歌うなと父親から言われた。

インドのダージリン 難民センターに到着する。
着いたその日に公安局につかまって、一時4人共拘留される。
知り合いのお坊さんがいて、身元保証人になって解放される。
難民キャンプが70位あるが、一番最初に出来た難民キャンプで、子供に対して教育に熱心で、英国式の学校に行く事に選ばれて、全寮制の学校に入学する事が出来ました。
英語は全く知りませんでした。
キリスト教なので日曜日には教会に行ってお祈りしたり、キリスト教の勉強をさせられたりして、後で考えるといい勉強になりました。
3年間過ごして日本に留学する機会がめぐってくる。