2015年12月4日金曜日

那須正幹(児童文学作家)      ・戦後70年 戦争と平和を語る 

那須正幹(児童文学作家)      ・戦後70年 戦争と平和を語る
山口県在住 73歳 広島での被爆体験をもとに戦争を描いた作品を数多く発表してきました。
那須さんは来年出版する新作に向けて、かつて地上戦が繰り広げられた沖縄等を取材し、始めて戦場で戦う少年兵を題材にしました。
平和の大切さをどう子供たちに伝えてゆくのか、伺いました。

少年たちが戦場に出かけて人を殺す場面があります。
戦後、太平洋戦争をつたえる作品は随分有るが、戦争の時には子供は完全な被害者なんだけど、歴史を見ると子供自身が戦闘員として加わったというのが結構あるわけです。
子供は被害者だという概念だけで、戦争を語っても其れは戦争の一面で子供がその場その場で戦闘員になって、加害者になった不幸があるのではないかと感じていて、それを一つの物語にしようと思いました。
4つの物語になっている。
第二次世界大戦の満州、沖縄、戊辰戦争の少年兵
満蒙青少年開拓義勇軍に入隊して、そまん国境の警備をしたために戦闘に巻き込まれて、そのあと八路軍に入隊する数奇な運命。
沖縄では中学生の男子はみな少年兵として戦闘に加わっている。
戦争を今の子供達につたえるためには、爆弾の中を逃げ回ったという話だけでは駄目なのではないかと、「少年たちの戦場」という短編連作で書いてみました。

戦争は本当は無意味な死だと思います。
3歳と2カ月で被爆して、あの日のことは覚えています。
爆心から3km、母親におぶさるように立っていて母と一緒に被爆、父親は爆心から2kmのところの教員室で被爆し頭や背中に怪我をしたが、教え子を探さなければいけないと、2週間家に帰らなかった。
「死者名簿 名前の有れば 今は早 ほっと息づく 悲しさはそれ」 父が作った短歌
生死が判って、悲しさも忘れてホッとしている自分を歌った歌ですが、体験者でないと歌えない歌ですよね。
中学生になってクラスメートの一人の女の人が原爆症で亡くなって、見舞いに行った時には真っ白になって痩せて、毛布から足が出ていて、時々ぴくっと痙攣しているのが見えて、それだけは凄く未だに覚えています。(中学2年の夏に亡くなる)
中学2年の秋に被爆者検診が始まる。
私は赤血球に異常があり、その時初めて被爆者という認識があります。

デビュー後、広島の事を書くまで12年掛かっているが、外に出てみるとぎゃくに広島の事が気になる。
親になってそのことを書いておかないといけないと思う様になった。
この児には同じような目に遭わせたくないと思った。
佐々木禎子さん 反核運動のシンボルになっている折り鶴、佐々木さんが亡くなる時に折り鶴を折っていた。 (彼女とは同学年)
戦後ばたばた亡くなった。(あれはピカのせいだという事で)
広島の原爆は書かなければいけないと思った。
生き残った者の次の世代に伝える義務、務めみたいなものを感じますね。
70年という昔のことを現代の子供たちにつたえようと、想像して一生懸命書くけどそれを現実に共感してもらえるかは、正直言って判らない。
残酷なものを読ませないような議論もあるが、子供が3歳のころに広島資料館に連れて行ったが、展示を見せて回ったが動けない様になってしまったが、次男が高校生になった時に、次男の行きたいところに付き合うと行ったら、広島資料館に行きたいとの事だった。

材料を提供するのが大人の役目だと思う。
想像力をかきたてて、できるだけあの日の事を想像して疑似体験できるようになればいいなと思います。
戦争、原爆は僕の創作テーマとして最後まで持っていたいし、幼児絵本になるかもしれないし、シリアスなものになるか判らないが、創作テーマの一つとして死ぬまで持ち続けるだろうなという予感はあります。
僕の作品を読んで何かを感じてくれる人たちがいるんではないかと思う。


柴田れいこ(写真家)
女性をテーマに写真を撮り続けている岡山県の写真家 67歳
戦後70年の今年、3年かけて撮り続けた戦没者の妻たち 54人の写真とエピソードを展示する写真展 「届かぬ文 戦没者の妻たち」を岡山、東京、大阪で開き写真集も出版しました。
その女性たちの今の姿を写真に収め一人一人に聞き取った夫を失った後の人生とともに紹介しています。
「届かぬ文 戦没者の妻たち」
88歳から102歳までの女性たちのありのままの姿と横に彼女たちの半生、思いがつづられています。
服部茂美恵さん 94歳
夫と一緒に過ごした4カ月が生涯で一番幸せな時間でした。
夫が亡くなり昼も夜も懸命に働きました、忙しく働く事がさびしさを紛らわしてくれました。
二度と戦争は嫌です。
月日がたっても悲しい戦争があって母も子も苦しんだことをいつまでも忘れないでほしいと思います。

このような文章、写真が54人分が一冊の本にまとめられています。
母は神戸の女学生だった頃神戸大空襲に会って友達もたくさん亡くなったことを、戦後よく話してくれました。
父は戦争に行って帰ってきましたが43歳で亡くなり(中学生だった頃)ましたが、何度聞いても戦争の話は語ってくれませんでした。
フィリピンに行っていたので、いろいろな体験等を話したくない事があったのだろうと思いました。
今まで女性の色々な生き方をテーマにして写真を撮ってきたので、戦争でご主人を亡くして、戦後をどのようにご苦労なさって生きてこられたのかなという事を考えまして、お話を聞いて記録して後の世代に伝えていけたらなと思いました。
何か自分にできる事を写真家として、なにか戦争を記録して、あとに伝えていけたらと思っていました。
最初のうちは知り合いを通して近くから探していたのですが、行き詰まって岡山県遺族連盟を知って、いろいろ話をしてそちらの方から協力を得て始めました。

片山鈴子さん 88歳
私の結婚生活は僅か9日間でした。
私は夫の戦死が信じられず、生存を信じて40年以上帰りを待ちました。
平成3年にゴルバチョフ書記長がシベリア抑留者死亡者名簿を持って来日し、6000人もの死亡者が新聞に掲載されました。
私は毎日探し続け遂に夫の名前をみつけました。
その時初めて彼が死んだことを受け入れて泣きました。
片山さんは奉天の事務所に彼と一緒に勤務されていて、結婚をしたいという気持ちが固まっていたので赤紙が来たので、キチンと結婚という形を取って出征していきたいと言ったので、結婚されたそうです。
出征が8月5日、終戦が8月15日なので、直ぐシベリアに抑留されて亡くなったわけで、どうしても彼の死が信じれれなくて、シベリアのどこかで生きているのではないかと信じて、ずーっと長い間待たれたわけですが、それだけ彼の事を愛していらっしゃるんだと思いますし、日々こちらに帰ってこられてから忙しい仕事をされて、9日間だけの結婚生活だったので、お子さんがいらっしゃらなかったので、今でもお一人で暮らしていらっしゃるのですが、その分仕事先では皆さんのお世話をするような仕事をして、一生懸命皆さんのお世話をして自分のさみしさだとかを紛らわせて、お仕事の方を一生懸命それに没頭されていたのではないかと思います。
待って待って信じて待っているというつらい思いがあったのではないかと思いました。

山下由喜恵さん 96歳
二人の子供を抱えて、年老いた舅に鎌や鍬の使い方を教えてもらいながら、毎日農作業に明け暮れました。
雨にぬれて帰りついた時には夫を想い涙が止まりませんでした。
山下さんは戦後本当に御苦労をされて、鍬の打ちおろし方から教えてもらいながら、田んぼに行って、全てしたことのないことを一生懸命農業をして、大変な苦労された話は途中で声をつまされて、涙をながされて、しばらく涙を流されていました。
お姑さんを看取った話は感動して、山下さんが一生懸命苦しい農業をされる傍ら、最後まで看取られた。
お姑さんが抱いてほしいとい事で、山下さんは小さくなったお姑さんを毛布にくるんで抱いてあげたそうで、しばらくして山下さんの手の中で息を引き取られたそうです。
最後まで優しく看取られて、今でも思い出すと、胸がいっぱいになります。

取材の中で心の中に土足で踏み込んでいく様な気がして、これでいいのかなあと思いましたが、何人か話を聞いているうちに、あれっと思ったのですが、聞いてもらいたいという風な感じで進んで話してくださる人がいて、気持ちが楽になってきて話を聞きに行けるようになりました。
聞いた話は残して伝えていきたいなあと思いました。
ちゃんと子供達を育て上げ家を守りぬいて、立派に生き抜いてこられた彼女たちの誇りの様なものを、穏やかな表情の中にも凛とした美しさを誇りと共に感じました。