2026年3月2日月曜日

柴裕之(歴史学者)             ・「『豊臣兄弟!』の時代考証を担当して」

柴裕(歴史学者)         ・「『豊臣兄弟!』の時代考証を担当して」

 今年の大河ドラマは、豊臣秀吉、秀長兄弟の立身出世から天下統一を描く「豊臣兄弟」、その時代考証を担当している1人が、3年前の「どうする家康」の時代考証も手がけた歴史学者の柴裕之さんです。 これまで、秀吉の影に隠れてあまり知られてこなかった弟秀長とはどんな人物だったのか、時代考証の難しさを含めて芝さんに伺いました。

秀吉と言う人物だけではなく、秀長と言う人物に光を当てられていますので、兄弟と言うものはどうあったのか、この2人の人物を注目することによって、違った視点が見えてくるんではないかと思ってます。  兄弟でも母親が違っていたりすると、他人のような関係にもなります  。武家階層になるとそれぞれを支持する家臣たちがいますから、そういった中で対立が起きてしまうと言うこともあります。豊臣兄弟は仲が良くて性格も対照的に描かれています。 兄の秀吉のほうは、脅威を感じさせるところがあったことが、当時の宣教師たちの資料に書いてあります。 

秀長のほうは、人に対して誠実であったと当時の資料からわかってます。    時代考証と言うのは、その描いてるドラマの時代背景、社会状況が、実際にその時代や社会に合ってるものかどうか、を検証し監修すると言うことをやっています。時代考証はもう1人いて、黒田先生と2人でやってます。 秀長に関する資料を収集して、秀長と言う人物がどういう人物だったのかと言うことをドラマの作成にあたって準備してきました。  

秀吉が出した文書は7000に対して、秀長のほうはおよそ150ぐらいしかないです。  残っている資料から考えると、秀吉と秀長は同じ父親であったと思われます。 秀長が本格的な活躍をし出すのが本能寺の変以降だと思います。  秀長は軍事面でも優れていました。  戦陣の表に立って、秀吉に代わって、軍勢の指揮を取る活躍をしています。  四国攻めとか九州討伐で豊臣を率いて大将として活躍してます。  四国攻めのときには、後から秀吉が来る予定だったのが結局来なくて、秀長が総大将として活躍します。 

秀長の調整能力と言うのは素晴らしかったです。 徳川家康に対する対応とか、毛利輝元に対する対応などが伝わっています。  誠実な接待をしてくれる人物に対しては信頼が厚くなっていくんではないかと思います。 公儀の事に対しては私に任せてほしいと内々の事は千利休にと言いますが、豊臣政権については私がいるから、安心しろと言って言うことです秀長の最大の功績は、織田家との関係だと思います。  主人の家を、小牧長久手の戦いで、秀吉は負かしてしまうわけです。   織田家が自分たちに従っているんだと言うことを世の中に示すためには、秀吉が言ってしまうと、威厳が保てなくなってしまうので、秀長が説得を果たす。     

当時織田家の当主であった織田信雄を説得し上洛させたと言うことを秀長がやっています。 秀長は、大和と紀伊の両国を支配しました。 民衆は、秀長の時代の統治は良かったと言っています。  民衆に対しての思いやりがあったと言う事ですね。 秀長蓄財家でもあり、現在のお金に換算すると220億位はあったと言われています。(倹約家)  秀長が亡くなった時、大徳寺の古渓宗陳と言う僧侶が言った言葉では、「秀吉の信頼が厚く、文武両道で威張ることなく、穏やかな人柄で、戦場では軍勢を率い、世の中のあり方を問い続け、財を成した人物だ。」と言ってます。

天正17年(1589年)末ぐらいから病にかかってしまって、天正18年1時回復は見せるが、小田原出兵には出陣できない。  天正19年1月に亡くなってます。(52歳) その後、甥の秀次の切腹もありました。 朝鮮出兵もありました。 秀吉も慶長3年(1598年)の8月に62歳で亡くなります。 豊臣政権の調整役は、秀長が負っていたわけです。 その後、調整役を担う人物がいなくなってしまうわけです。     秀吉は、徳川家康と前田利家を頼りにし、家康は秀頼の後見役として、豊臣政権を維持していこうとする。

大学に入って史学科と言うところに入りますが、戦国時代が日本歴史上における変革期と言われており、今でも戦国時代を研究しています。  豊臣秀長をもう少し深く調べてみたいと言う思いがありますが、織田信雄についても私の検討課題になってます。