浜野佐知(映画監督) ・「怒りが私の原動力」
浜野さんは1948年徳島県で生まれ、静岡県静岡市で育ちます。 高校卒業と同時に映画監督を目指し上京、ピンク映画の制作会社で助監督として働き始めます。 23歳の時に監督としてデビュー、その後300本以上のピンク映画を監督。 1984年「株式会社旦々舎」を設立、監督とプロデュースの両方を兼ねるようになります。 1998年「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」で、一般映画の監督としてデビューし、国内外で高い評価を得ました。 2000年日本インデペンデント映画祭で「林あまり賞」受賞。 同年第4回女性文化賞受賞しました。 今年3月浜野さんの7作目の一般映画「金子文子 何が私をこさせたか」を公開します。 この映画は、1920年代、国家や社会のあり方に対して強く批判的な姿勢を持っていた朝鮮の若い活動家朴烈(パクヨル)と、日本人の同志で、恋人の金子文子が逮捕、投獄された朴烈(パクヨル)事件を題材にしてます。 金子文子は自身の信念を最後まで貫き通し、獄中で亡くなりました。 その生き方を克明に描いた作品です。浜野佐知さんの話を伺いました。
「金子文子 何が私をこうさせたか」と言う映画の監督をしました。 私は金子文子と言う、100年前の時代に自分を曲げずに貫き通した生きた女性に惹かれました。それまではピンク映画の制作監督を300本ぐらいやってます。 1998年頃に獄中手記を読みました。 裏表紙に「・・・東京に行く。お前は私に何を与えてくれるのかそして私は17である。」と言う一文がありました。 私も映画の監督なりたいと思って東京に行こうと思って、家出同然に東京を目指したのが、やはり17歳でした。 文子はものすごく悲惨な育ち方をして、戸籍もなく学校にも行けず、親にも親類にも日本と言う国家にもういじめ抜かれて生きてきた文子がいるわけです。
絶望の泥の中を這いずり回って掴んだ思想で、その思想が無政府主義と移っていくわけです。 その彼女の思想が本当に素晴らしいと思ったし、私は17歳で上京しましたけれども、監督になれるのは大卒男子でないとなれない、と言う大きな壁にぶち当たったわけです。 女にはなれない職業があると言うことに怒りを感じまた。その怒りが文子の怒りとドッキングしたというか、文子に強烈にひかれたのが最初です。
精神的なものだけでなく、肉体的にもダメージを受けてます。 冬の深夜0度以下のところで木に吊るされたとか、9歳から16歳7年間ですが、よく生き抜いたと言うほどのことがありました。 そこから始まった人生は、自分を阻害したもの、認めなかったものに対する大人、社会、肉新、あらゆるものに対する復讐だったと思います。その復讐が生きるエネルギーになったと思います。
ほとんど書き物が残されてなくて、獄中で書いた九首の短歌から獄中のストーリーを作り上げました。 自分が拘束されて生きると言う事は、ただ息をしてるだけじゃなくて、自分の意志で行動して初めて生きる、と言うことだと言うことを文子は言ってます。 自由に生きると言う文子のたったひとつのためには、今の自分を殺さなければいけないんじゃないかと言う矛盾してますが、転向声明さえ書けば外に出られる可能性はあるけれども、転向声明を書く、謝ると言う事は、彼女にとって思想をもぎ取られるものと一緒なんですね。
未来の自分を生かすためには、今の自分を殺さなければならないと言う結論に達したんだろうなと思います。 小さな雀に自分の未来を託して、大空に飛ばせていくという、満足して未来を見て文子は死んでいったと思います。 今の人たちに「自分の頭で考えろ。」と言うメッセージを託したかったんです。 どんなことでも1分1秒でも無駄にしないで全身全霊で生きるという人なんですね。 字が書けなかった人がある時から字を学び、文章を書き思想的なことも理解できるようになるまでほんと短期間でした。 文子にとって学ぶと言う事は経験なんです。体験なんです。叩かれて叩かれて、炎のような人だったんだと思います。
私の父親が映画が好きで、毎週土曜日になると映画館に連れてってくれました。 私は10歳の時に突然父親が亡くなりました。 父親は41歳、母親は36歳の時でした。 弟が7歳で母親は全く働いたことがなかった。 母親はすごく苦労して私たちを育ててくれたと思います。 お金がなくて映画館には行けませんでしたが、ある時おじさんが映画館に連れて行ってくれることになって、そこが映写室でした。 毎日毎日映写室に通って、映画のことをいろいろ教えてくれました。
高校生になってアルバイトをして、自分でも映画を見に行けるようになりました。調べてみたら、当時女性の映画監督は1人もいませんでした。 私が監督になって等身大の日本の女性を描こうと思いました。 東京に出て行ってみましたが、周りが大卒の男子でないと監督になれないと言うことで、ピンク映画の世界に飛び込みました。 映画監督になる勉強しながらやってきました。
1971年23歳で映画監督になりました。この業界にしか私が映画監督になれないならば、女の視点で性を撮る、女のセックスを女の手に取り戻そうと言うことをライフワークにしました。 女の欲望が主体と言うピンク映画を撮り続けてきました。女優さんの協力がありました。 同性であったので、安心感があったと思います。フィルムからデジタル化することによって徒弟制度が崩れて、手軽に撮れる様になったので、女性映画監督が増えていきました。
1997年の東京国際女性映画祭にて、日本の長編劇映画の女性監督で最多本数は、田中絹代の6本であると言う発言があり、その時私はピンク映画を200本ぐらい撮っていました。 私はいないのと同じだと思いました。 金子文子と一緒だと感じました。 1998年「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」と言う映画を撮りました。 私が撮ってきた女性たちはみんな100年前ですが、私が映画にするまではそれまであまり知られていませんでした。でも世界でも知られるようになると言うことが映画はいいなあと思います。 彼女たちの生き方を今の女性たちに見てもらいたい。
大逆事件を朴烈、文子事件とよく言われますが、やはりそういうものであって、金子文子と言う一人の人間、一人の女性を描きたかったと言うところから始まりました。 何が私を突き動かしているかと言うと、やはり自尊心じゃないかなぁと思います。 自分は守る、自分以外には誰も守ってくれない。 絶対に私は私を裏切らない、私は私自身を生きると言う大きな生きてきたテーマだったと思います。 ですからピンク映画もずっとやり抜いてこられたし、今もこうして映画監督でいられることだと思います。 人が生きていく上で、自分を認めてあげられないと言うことが1番悲しいことだと思います。 「金子文子 何が私をこさせたか」と言うのが私の集大成です。 人との関係性を平等に戻す。 誰かのために生きると言うのは、愛じゃないからと言いたいです。 愛と言うのは自分のために生きてこそ生まれるもので、相手に対する愛も。