渡辺えり(劇作家・演出家・女優) ・山形で抱いた初心にかえって
今年4月に個人事務所を立ち上げ、新たなスタートを切る。 コロナ禍で人との交流もできなくなり、お芝居も中止になり、劇場を何とか上映してほしいという事で、女性劇作家による女性を主人公に描いた戯曲を集めて、女性のフェスティバルのような形でやろうと思いました。 「さるすべり」という戯曲を書き上げて、ほかに永井愛さんらと3人で3本を急遽やることになりました。 朝の9時から夜の11時半までずーっと稽古しました。 遣り甲斐がありました。 「ガラスの動物園」を16歳の時に見て感動して、そしてこのコロナ禍で朝から晩まで芝居漬けの日々を送っていたら、山形からどうして自分は上京してきたんだろうという事を改めて考えました。 気が付いたら65歳で好きなことをやるんだったら今しかないと思って、「ガラスの動物園」のような作品を少数の人たちの幸せのために上演するという事と、映画も好きで高校生の時に「シベールの日曜日」という映画を見て感激してしまってこういう監督になりたいと思ったんです。 自分と同じように悩んでいる人たちを救いたいというか、希望を与えたいというような気持になってしまったが、全く実現できていない。
映画は最初に見たのが「アンクルトムの小屋」で小学校1年生の時に見ました。 奴隷制度があったのかと驚きました。 絶対平等な世の中にしたいと思いました。 映画で影響を受けたのは「赤い靴」でした。 生まれて初めて2歳の時に見た映画でした。 好きなことをやると不幸になるという事が刷り込まれてしまいました。 ほかにもいろいろ見て、金持ちは性格が悪いというようなことも刷り込まれてしまいました。 苦労して苦労して何かやらなくてはいけないという事と、幼児のころはバレリーナになりたいと思いました。 車酔いするので通えなくて、高校3年生の時に1年間クラシックバレエを習いました。 小学生と一緒にやっていました。
やりたいことをやるとなると独立しかないと思いました。 子供のころから物語を作るのが好きでした。 物語を作っては書いていました。 「シンデレラ」では王子との結婚で終わってますが、その後どうなったのかとか、死ぬまでのことを考えました。 「桃太郎」では鬼を退治した後に金銀財宝を村に持ち帰って、どう分けたのかとか桃太郎が亡くなるまで考えました。 「赤い靴」を見て死ぬまで踊り続けなくてはいけないというのを見たので、それを桃太郎の続きの新作歌舞伎の物語を作った時に、影響が現れたりします。
28歳の時にフランスに行って、ロダンとかいろいろな彫刻のところに行ったら、日本にロダンを紹介したのが高村光太郎だということが判りました。 人間の苦悩する姿を彫刻にしたのがロダンが初めてでした。 それまでは貴族が喜ぶような美しい彫刻、絵が流行っていましたが、今までタブーだったものを作っていったが、そのはしりの人がロダンでもあったわけです。 子どもの頃父がよくロダンの絵ハガキを買ってきてくれましたが、父がそういうものを伝えたかったんだなあと30歳近くになってわかりました。
高村光太郎のことを書いてほしいと父から言われて、その約束を果たせたのが40歳過ぎてからでした。 祖父が父が5歳の時に亡くなっていて、父親を想像でしかわからなくて、その面影を高村光太郎に見ていたんだなという事が判って、高村光太郎に影響され心酔していって、その気持ちを私に伝えたくて、いろんなことを言っていたんだなあという事が「月にぬれた手」を書くための資料を調べていた時に、一気にわかりました。
父親の反戦の思い、戦争はこれだけ人を傷つけてこれだけ駄目にしてゆく、そういうことを伝えて行かないという事は父親を通して思ったことでした。 山形ではほとんど男性が亡くなったりしています。 自分を戦争に向かわしたのはなんだと思った時に、教育が戦争に向かわしたと、教育の現場に入って自分は学ぼうといって、軍需工場から帰って独学で学んで、大学に行っているんです。
軍需工場が爆撃に遭うという事でそこの管理をすることになりますが、或る意味死を覚悟するようなことで、結局父が手をあげてしまったそうで、ものすごく怖い思いがあってもう駄目かと思いながら高村光太郎の「必死の時」という詩を朗読したら、不思議に怖くなくなったといいます、それほど高村光太郎に心酔しているんです。 高村光太郎がなんで「必死の時」を書いたかというと、空襲の時に、隣のおばさんの太ももが電信柱に宙吊りになっていて、それを見て高村光太郎自身が死ぬのが本当に怖くて、死ぬのが怖いのを何とか慰めるために書いたのが「必死の時」だったらしいです。 必死になれば日本という民族は死さえも怖くなくなるという詩なんです。 特攻隊員がみんな胸ポケットに縫い付けて特攻隊に行ったんです。 これを戦後知った高村光太郎が猛反省して岩手の山奥に独居生活を送るという流れになっています。 高村光太郎は戦争を賛美する詩と戦争は駄目だという詩と2種類書いています。 戦争は駄目だという詩は国から発禁処分になっていて、戦争を賛美する詩は全部発売されている。
それを読んで若者たちは奮い立っている。 その若者の一人が父親だった。 父は高村光太郎、宮沢賢治の文学にも影響を受け、石原莞爾、本居宣長の研究もしていて、日本という国がどこから来て、どこに向かうのかという事に興味があったようです。 私は劇作家になっていろんなことを調べなくてはいけなくなって、結局父親の世界に入り込んだという事ですね。
「老後の資金がありません」という小説を舞台化したものが上演されます。 身につまされる話をミュージカル仕立てにした楽しい舞台になっています。
*特に前半は話がいろいろ飛んでまとまりずらい内容になっています。