塩谷五月(宮崎県・島野浦島) ・"島の戦争"を語り継ぐ
延岡の港からフェリーで20分、島野浦島は日向灘に浮かぶ人口800人ほどの小さな島です。 この平和な小島が太平洋戦争末期アメリカ軍の攻撃対象になりました。 昭和20年5月2日小学校が標的になり、児童4人を含む6人が犠牲になりました。 当時小学2年生で九死に一生を得た塩谷さんは、80歳を過ぎた今もこうした戦争の記憶を風化させまいと継承活動を続けています。
給油所があってそれを狙って焼夷弾を落としたんです。 失敗して焼夷弾は海に落ちました。 当たっていたら駄目でした。 父は戦地に渡って祖母と母と5人兄弟で長女です。母は妊娠中でした。 防空壕に寝泊まりしていたことは忘れられません。 ほとんど毎日でした。 昭和20年5月2日 雨が降っていて敵機は来ないという意識で学校へ行きました。 雨戸を上級生が開けているときに大きな音がしました。 敵機来襲と言われて、廊下にでて目を押さえて、親指で耳を押さえ伏せました。 逃げろ、逃げろという声がありましたが、私は怖がりで腰を抜いてしまっていて、気が付いたらその場には私一人でした。
大分県の佐伯市に駐屯地があり、民間の船が常駐していて最初その船を攻撃しました。 それから島のほうに近づいてきて、45分間島を攻撃したそうです。 気丈な祖母で、祖母におんぶされて帰ってきました。 隣の教室の1年下のたっちゃん(辰裕?)が壁に身をよせたそうですが、壁を撃ち抜いてきた弾が当たったんです。 膝から下の部分がなかったのを鮮明に覚えています。 廊下を這っていました。 旗を使って止血してたすかりました。 攻撃が怖いので夜になって延岡の病院に行き、片足を膝から下をのこぎりで切ったそうです。 学友も4人亡くなって、棺が6つ並んでいました。
文集を平成10年に作りましたが、それから戦争のことを語るようになりました。 何か残さないといけないという気持ちになり、一人ずつ家に行って、中には断られた人もいます。 10人の人が協力してくれました。 たっちゃんが表紙の裏に飛行機と船の絵を描いてくれました。 文集がきっかけとなって小学生が自分たちの手で紙芝居を作ることになりました。 私自身で作った紙芝居もあり、実演もしました。 兵隊が船に乗って送る場面です。 中学校でも紙芝居をして女の子は泣いていました。 感想でこんな悲惨なことがあったとは知らなかったと言っていました。
島野浦島の小学校では、塩谷さんらの証言をもとにした朗読劇が上演されました。
受け継いでくれる人がいてありがたいなと思います。 島の歴史が残ると思って本当に嬉しかったです。 日本だけでなくどこの国でも戦争をやってはいけない、人を殺してはいけないという気持ちは常に持っています。 父は赤紙が来て戦地にわたってそれっきりでした。 島からはもう一人行きましたが、その人は帰ってきて父が亡くなったことがわかりました。 雨戸を閉めて祖母と母は何日も寝て起きてこないんです。 その時の辛さは一番苦しいですね。 長女だったので家のいろいろな仕事を手伝いました。(小学校2年生以降) 遠足にも行ったことはない、そんな生活です。
「カモペスのかばねとなりて七十余年父の面影瞼に残る」 塩谷五月
カモペスはフィリピンのいくつかある島が集まってカモペスというんだと聞きました。 地図上にはカモペスというのはないんです。 父の思い出は小学校1年生の時位までしかないんです。 心の中では戦争は終わっていないです。 平和を願う人が何人でも増えて世界中が仲良くしましょうという人が増えたらいいなあと思います。