諸見里静子(元白梅学徒隊) ・【戦争・平和インタビュー】沖縄戦を生き抜き"日系人の母"となって
76年前激しい地上戦が行われた沖縄では20万人以上の人が犠牲になりました。 地元の住民も戦闘に巻き込まれて、県民のなんと4人に1人が命を落としました。 沖縄戦では多くの学生が学徒隊として多くの戦場に送り込まれました。 沖縄県立第一高等女学校は「ひめゆり学徒隊」、第二高等女学校は「白梅学徒隊」と呼ばれました。 白梅学徒隊では56人の女子学生が負傷兵の看護などに献身的に当たりました。 そのお一人、93歳になる諸見里静子さんは戦後ボリビアに移住し、現在は日系人が多く住む横浜市鶴見区に暮らしています。 これまで沖縄戦について多くを語ってこなかったという諸見里静子さんに伺いました。
諸見里静子さんは両親が移住した南米ペルーで生まれ、3歳で沖縄に帰国しました。 その後那覇市で育ち、1941年に沖縄県立第二高等女学校に入学、卒業を控えた1945年3月沖縄戦が始まり、静子さんも巻き込まれてゆきます。
軍隊が来て連れてゆかれました。 簡単な看護の方法を教えてもらって、すぐ野戦病院に行かされました。 兵隊さんも粗末な寝台に乗せられていました。 若い子が下の始末までさせられました。 私は内科でしたが、外科の人は足を切断したりしたものの担ぎばっかりさせられました。 負傷した兵隊さんで近所の人もいましたが、戦争が終わってどうなったかを友達に聞いたんですが、なかなか話さない。 残っている兵隊を青酸カリを飲ませてみんな殺してしまった。 それを聞いて心が痛みました。 「貴様と俺とは同期の桜・・・」という歌がありますが、それを聞くと蘇ってきます。 特攻隊だから突っ込んでそのままですよ、帰れないです。 私たちは生き残っただけでも幸せじゃないですか。 兵隊さんが俺たちは最後で、あんたたちは死んだら駄目だよ、生き残って国のためにするんだよ、と言われました。
兎に角沖縄戦は隠れる場所がなくて、沖縄はお墓が大きくてそこに入ったりしました。 夜になってあっちこっちに逃げるという感じで、車があってこの車に乗せてください・・・
沖縄戦を逃れてその後静子さん一家で沖縄本島南部の糸満市に移り住みます。 そこで19歳の静子さんは働くことを選択し、警察官になります。 沖縄では初めての女性警察官でした。 生きてゆくための働き口だったといいます。
私の父親は顔が広かったので助かったところもあります。 食糧難で買い出しに行くための許可証を出す仕事もしました。 ・・・ 警察官になって夫となる男性と知り合う事になり結婚します。 食糧難で沖縄北部に買い出しをしに行く日々でした。 食べるものがなくてソテツを食べた事もあります。
戦後の沖縄はアメリカ軍によって土地が接収され、多くに人が住む場所を奪われました。 さらに県外から人が引き上げてきたため、人口も急増、1953年 当時の琉球政府が南米ボリビアへの移住事業をスタートさせます。 それから静子さんの思いもよらなかった戦後の人生が幕を開けます。
先遣隊として夫がボリビアに行きましたが、私はあまり希望はしませんでした。 若いせいか深くは考えていませんでした。 3年後29歳の時に子供たちと一緒にボリビアに行くことになります。 しかし夫がその2年後に沖縄戦でのお腹の傷が原因で亡くなります。 子供4人と静子さんを支えたのはボリビアの自然豊かな風土と移住してきた沖縄の人たちでした。
家の周りにはバンア、アボガドなどがあり食べ物は豊かでした。 沖縄から移住した人々はたくさんの人が農業をしていました。 戦争の話は忘れていました。 兎に角生活しなくってはいけなくて。 地方移民の方と再婚しました。
移住生活は25年の長きにわたりました。 次女がボリビアでは治療ができない病気にかかってしまいました。 日本で治療をするためにボリビアでの生活に終止符を打ち、帰国を決意します。(54歳) 静子さん家族は日本で暮らしていた家族を頼りに、横浜市鶴見区での生活を始めます。 鶴見にはボリビアをはじめとした南米の国々からおおくの若者が日本に出稼ぎに来ていました。 自然と若者たちの面倒を見るようになり、日系人の母と呼ばれる存在になりました。
日本語が判らない若者たちなので、どこに何があるかわからないので、郵便局、銀行などの場所、やり方などから教え始めました。
沖縄戦などについては話すことはなかった静子さんですが、大きく変わったのは沖縄を訪れた時に出会った元白梅学徒隊の友人との再会でした。 白梅学徒隊の同窓会に出席することになりました。 あなたの人間の出会いを大事にしなさいという・・・逃げ回っているときにあなたに出会って・・・ 。
「人間の出会いを大事にしなさい」と言ってくれたのが、同級生でした。
沖縄戦の体験した人から聞くのは大変ためになると思うし、聞く人も喜ぶでしょう。
平和とは戦争のないことですね。 ・・・。
*非常に聞きずらくてうまく内容を伝えることができませんでした .