難波和夫(元歩兵第21連隊 功績係 ) ・【戦争・平和インタビュー】"功績係"が見つめた戦争
島根県飯南町に住む難波さんは戦時中、戦争の記録を残す功績係に任命され、マレー作戦のほかニューギニアやインドネシアなどのアルー諸島などを転戦します。 功績係として難波さんはどんな経験をしてなにを記録したのか、そして何を感じていたのか、伺いました。
1919年に島根県飯南町で生まれ、15歳から広島県の呉の海軍工廠で働いていた。 20歳の時に浜田市の歩兵第21連隊に召集される。 召集令状が来た時にはとうとう来たのか、というぐらいのものでした。 中国に向かってベトナムとの国境に近い旧江西省で軍事作戦に参加。 昭和15年3月26日に出発、15日間で500kmぐらい歩きました。 一日に45~50km歩いて辛かった。 30kgに加えて11kgの軽機関銃を担いでいきました。 死んだ方が楽になるというような思いでした。 昭和15年4月3日300~400m先の小高い山から軽機関銃が20~30、撃ってきました。 戦闘になり隣の兵隊が頭を撃ち抜かれました。 恐怖なんか感じる暇はないです。 悲しいというような思いは出てきませんでした。 夜になってご飯を炊きながら遺骨にするわけです。 遺体から手首を切り離して焼くわけですが、つらかったです。 死が恐ろしいとは思いませんでした。 人間いずれは死ななければいけないし、死ぬ死なないも運だと思いました。
太平洋戦争が開始して、戦争の記録を残す功績係に任命される。 分隊長が記録したものを中隊が集めて本人の功績名簿の欄に書き入れます。 誰がどういった手柄を立てたのかを記録します。 他の部隊に転部したら一緒に送ります。 めいめいに勲章なり資金が送られるわけで最後まで保管しなくてはいけないが、敗戦になってGHQが来て辞めてしまえという事で功績名簿は要らないようになりました。 10行以内に文章をまとめていました。
昭和17年にはニューギニアに転戦する。 かつて民間の飛行場があったので、木を切ったり、草を刈ったり凸凹を整備したりしましたが、飛行機を使用したのはたった一回だけでした。 機材がなくて手作業でやるより仕方なかった。 朝は飯盒に一合の米を入れて水を一杯入れて草を混ぜて塩をちょっと入れて汁を吸うだけで飯は食わないんです。 昼は同様にその飯盒に草とか木の芽を入れて、半分食います。 残りは同様にしてお粥にして夕飯にします。 約半年で58kgあった体重が38kgになってしまいました。 パラオに上陸した時にトラックに乗せられシートを被せられて現地の住人に知られないようにして運ばれました。 余りにもみすぼらしい姿なので、日本軍が負けることを悟らせないようにとのことでした。
戦闘はなく食料を何とか調達するためにジャングルを切り開いたり、そんなことが戦争のようなものでした。 開墾などの行動の記録だけは残しました。
1945年シンガポールに向かうが、魚雷の攻撃を受ける。 火災が発生して、バーンと鳴って手帳も貯金通帳もみんな飛んでしまった。 救命胴衣を付けて海に入りました。 脱出できない人の「万歳 万歳」という声が聞こえました。 海面は重油だらけでした。 4時間ぐらい浮いていました。 駆逐艦が来て助けられました。 握り飯を貰って油のついた手で食べましたが、美味かったです。 生きていてよかったなあと思いました。
120人程度の本籍地は覚えていたので、全部書き直しました。 敗戦までは約2か月でしたが、ほとんど記憶で書き入れました。 終戦はシンガポールで聞きました。 「ああー、とうとう負けたか」というぐらいのことでした。 前から軍のやる行動はおかしいと思っていましたから。 広島、長崎の原爆も電波で知っていました。 内地のことが心配でした。 終戦から9か月後に日本に帰国しました。 日本の土を握って「日本の土はいいのお」と思いました。 でも焼け跡を見て、内地の人は我々以上に苦労しているなあと思いました。
戦争を賛美する教育だったので、出征するときによく「ご奉公して帰れよ」と言ったりしていましたが、ということは「死んで帰れ」という事でした。 命令されたことしか、ほかに選択肢はなかった。 功績係として記録したことは、敗戦となって軍隊もなくなって、本人の手柄、功績も無駄なものになって、何にもならんものになったなあと思いました。 戦争が残したものは虚しさですね。 役に立つものは何にもなかった。