2021年8月28日土曜日

嵐山光三郎(作家)           ・【私の人生手帖(てちょう)】

 嵐山光三郎(作家)           ・【私の人生手帖(てちょう)】

昭和17年静岡県生まれ、雑誌編集社を経て作家活動に入りました。   軽妙洒脱な作風で多くの著作を世に送り出し、平成18年に出版されました「悪党芭蕉」は泉鏡花文学賞、読売文学賞をダブル受賞しました。   現在も25年目に入った週刊誌のエッセーなどを中心に毎日原稿用紙に向かっています。  その博識ぶりを余すところなくパワフルに語ってきた嵐山さんですが、語りと縁を絶つという人生の岐路がありました。   そして作家と編集者両方の顔を併せ持つ作品世界の原点はどのようなものだったのでしょう。   来年80歳、大きな節目を前にした人生の楽しみ方についても伺いました。

以前NHKの「新話の泉」に出演、「深夜便」も聞いています。  昔はラジオを箪笥の上に置いてあって、「笛吹き童子」などの物語が空から降ってくるようにして聞いていました。  母は104歳で1階に降りてゆくと「深夜便」を聞いたりしています。  著書は200冊ぐらいあると思います。  連載をもとにして書き直して本を出版することになります。  締め切りは気になりません。   1997年からスタート、時事ネタ、エッセーなどで話をつなげてきました。   メモをもっていろいろ観察しています。  25年目に入りました。  

1980年代に不況になって会社が倒産するところも出てきて、私がいた会社も240人いましたが、希望退職を募りました。   温厚な総務部長が先にいなくなり、学者肌の人もいなくなりました。(行方不明)     新宿西口バス放火事件(路線バスの車両が放火され6人が死亡・14人が重軽傷を負った事件)があり、或る38歳の男が気になり、記事になって、自分でも調べてみようと思いました。   住所不定者が西口に200人いると、その社会にルールがあってみんな仲がいいんです。   人間は社会的動物だという事がつくづく判りました。  路上生活をしてみて変わったことは特にないです。   

編集者は若いころはかっこいいなあと思っていました。  編集者をやってみてわかったのは接客業だという事でした。   30代で編集長をやったので、老人化してしまったと思います。   会社で人員整理をした時に、精神がカタっと変わる時があったと思います。

「悪党芭蕉」ですが、中学3年の古典で「奥の細道」が出てきました。  修学旅行が東北で芭蕉のコースに繋がるわけです。  芭蕉の人間的なものを見たいというのが一つありました。   「古池や蛙飛び込む水の音」は有名ですが、世界100か国に翻訳されていますが、「さや岩にしみ入る蝉の声」のほうがよく知られています。  13歳で父親を亡くして、若くして伊賀国上野の侍大将藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え俳句を習う。  さや岩にしみ入る蝉の声」というのは自分がえていた蝉吟という蝉のことだと思っています。  芭蕉が23歳の時に蝉吟が死ぬんです。  29歳の時に江戸に来て俳句の修業をして、奥の細道に出て、46歳の時に山形の山寺でさや岩にしみ入る蝉の声」を詠むわけです。   蝉吟を追悼しているわけです。

水道工事人だった、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。   

和歌になんで貴族は夢中になってやるんだろうと思いますが、和歌を知らないと貴族は生きて行けなかった。   何故かというと和歌は政治用語だった。 比喩、貴族の政治は断定しない、言質をとらない、比喩で聞いて比喩で答えるという日本の政治風土は平安から始まって、和歌は文芸でありながら政治用語であったということで、延々日本の歴史にあるわけです。  日本人は情緒的な民族ですが、今はそれが壊れてきていますね。  目に見えるものしか信じるのではなくて、目に見えないものが一番大事なんだという考え方の日本の伝統に繋がって来るんです。   そういう流れで、万葉集、古今集、新古今集を読んで、芭蕉、西鶴など読むと繋がって来るものがあって、それを我々が話したり書いたりしてゆくことがものすごくおもしろいし、いつまでたってもやめられないですね。 

仕事場が神楽坂にありますが、下り坂が気持ちがよくて、上り坂は嫌ですね、下り坂が快楽ですね。  老いてゆくというのは下り坂を楽しむわけですから、『「下り坂」繁盛記』を書いています。  下り坂の価値を身体的に覚えると、下降してゆくことが面白いんですね。