小椋佳(シンガーソングライター) ・歌手引退・もういいかい
小椋佳さんは27歳の時「青春 砂漠の少年」でデビューしました。 デビューから50年になる今年、芸能界の引退を発表しています。 およそ2000曲を作ったという小椋さん、今年「もういいかい」というアルバムを出しました。
77歳になりました。 足の血流が悪くて散歩をしても30分歩けないんです。 9月に片足ずつ血管を広げる手術をすることになっています。 57歳で胃がんで手術、68歳で重い病気をしました。 何となく生き延びてきました。 芸能界を引退したいという最大に理由は体力ですね。 自分が歌いたいように歌えなくなって来ました。 70歳の時にNHKホールで「生前葬コンサート」という名前で生前葬をしました。 今年「もういいかい」というアルバムを出しました。 およそ2000曲を作りました。 それぞれの作った時代のこと、作った時の自分の周辺の状況のことなどを思い出します。
小学校の時はプロ野球の選手になりたかったのですが、中学校の頃は政治家に
、高校の頃は僕が生きてゆく意味は現代のお釈迦様になるしかないとか思っていたり、法曹界へのことも考えましたが、法律の勉強は好きではなかった。 幼いころから歌う事は大好きでした。 歌を作り始めたのは高校ぐらいからです。 歌を提供する曲が何となく白々しく感じるようになって余り歌わなくなりました。 中学生ぐらいから日記をつけ始めていて、そこからピックアップしてメロディーをつけるように口ずさんでいました。 それが僕の歌作りの始まりでした。 大学でも続けていました。
デビューが1971年の「青春 砂漠の少年」です。 デビューという感じはなくて、銀行に入って4年目でアメリカのシカゴの大学院に留学中で、その時に僕の処女作が発売されました。 きっかけになったのは「初恋 地獄編」でした。 「初恋 地獄編」は寺山修司さんが作った作品で、僕の処女作の数年前に作ったものです。 或るレコード会社のディレクターが僕の声を聴きつけて、この若者を売り出してみようと思ったらしいです。
銀行員以外に別の業務を持ってはいけないので、4年先輩の人が心配しました。 先輩たちが人事部にお伺いを立てたが、「どうせ売れっこない」という事でたいして問題にならないと思ったらしいです。 LPが出来上がった時に発売会議がありそこでは没になっていたが、若いディレクターさんが小椋佳の曲を理解できない重役連中は辞めるべきだと運動するが、ディレクターの役を降ろされてしまう。 その人は映画監督の森谷司郎さんとの出会いがあり、曲を聞いた森谷さんがこれはいいという事になり、正月映画のバックに歌をどんどん流すよ、という事になりました。 そのことがレコード会社に伝わり、一応出してみようかという話になりました。 映画は1月に、処女作は2月にだされました。 出してみたらじわじわ売れてきてレコード会社がビックリしてしまった。
留学から帰ってきて、銀行員をやりながらディスクジョッキーをやるようになりました。或る週刊誌の人が「70年代のホープ」という特集をやるという事になり、石原慎太郎さんなどもいて銀行側もいいか、という受け答えをしたようです。 いざ週刊誌が出る事になると、「70年代のホープ」というタイトルではなくて、「一銀行員の副業に驚愕した第一勧業銀行」というタイトルででてしまい、銀行は慌ててしまって、発売差し止め要求したが、すでに30万部が刷り上がってしまっていた。 結果は大した事はなかったが、常務などが発言した内容を歪曲して書かれていて迷惑をしたようで、僕は謝りに行ったりしました。
人事部に呼ばれたが、「テレビ、ラジオなどには一切出演をしないという事、ただし歌作りそのものは日記つくりのようなもので、これを止めろというならば、銀行を辞めます」、と言いました。 それからOKとなり温かく無視してくれました。
かなりヒット曲が出るようになり、マスコミさんからは僕が出て行かないことが生意気だという事が随分立つようになり、或る日上層部の人から「一度だけ人前に出た方がいいんじゃないか」という事で、NHKホールさんに出ないかという話が降りてきました。 話がまとまって一日だけださせていただきました。 1975年、46年ほど前の話です。(31歳)
1993年、49歳で銀行を退職することになりました。(26年半勤める。) 40代になって観察者である自分と周囲の人間を見渡してみて、わかってきちゃったなという感じでした。平家物語の末尾に「見るべきほどのことは見つ」(自分の人生で、味わわなければならないものはすべて味わい尽くしたという、突き詰めた心境を表す言葉。)、その実感があって、ここにいるのは僕の役割ではないと思って、それが辞めた理由です。
東大に行って学士入学して、哲学を勉強しました。 若いころは苦しい時代で一種の精神病にかかっていましたから。 そこから抜け出せなかった。 哲学はかじりはしたが穴掘りが終わっていない状態で社会人になっていました。 哲学の世界をもう一回かじりしたいと思いました。 学士入学するには筆記試験があり、外国語二か国が必須だという事で困りました。 友人の東大の主任教授から「元のところに学士入学するんだったら面接だけでいいんだよ」と言われました。 東大の法学部に学士入学することが出来ました。大学に行って判ったのは、教授の教え方はちっとも進歩していないという事でした。 学生たちが勉強したくなるようなことをしていなくて、これではいけないという事で教授連中(ほとんどが後輩)に説教して回りました。 勉強をやり直していたら面白いんです。 レポートもちゃんと提出し、期末試験もちゃんと受けます。 全科目優を取れました。
単位オーバーで1年で卒業になり、文学部に入ろうと思って1年間勉強して文学部に入り直しました。 外国語はフランス語を勉強しました。 並行して音楽活動はしていました。 4年間大学で、そのあと大学院に2年間行きました。 小学生から、留学を含めると25年間学生をやっていたことになります。 再度学生をやらせてもらって楽しかったです。
作詞のほうが評価が高く言われますが、僕は相当言葉にこだわっている男なんです。 こだわりから出てきた歌の言葉が、ほかの方とはちょっと違うものが出てきたというんでしょうか。 それがある種新鮮だったり、斬新だったりしたんでしょうか。 若い人には買ってでも苦労をした方がいいよと言いたいですね。 僕の若い時の苦しみが、結局僕にいろんな恵みを与えてくれた事になりました。 苦しみを避けて通っている人が今の若い人には多いような気がします。 11月から来年の9月にかけてファイナルコンサートツアーをやらせて貰うつもりです。 遺書も書いてありますし、7割がた身の回りのものは全部処分しました。 新しい歌、言葉でないと意味がない、創造という事を考えると書いている途中で嫌になって捨てるとか、最近は一曲作るのにも苦労します。