2011年10月2日日曜日

伊東四朗(俳優74歳)         ・私の喜劇役者人生を語ろう

 伊東四朗(俳優74歳)            私の喜劇役者人生を語ろう  
父親は酒は飲めないが、どこかへふらっと行って返って来ては小歌を歌ったり、三味線をつまびいたりしていた粋な人だった
母親は一日中歌を歌っている様な人だった
サラリーマンになりたかったが、なれなかった 
いろいろな会社の試験を受けるが、試験に落ちてしまう
次男が早稲田大学の学生だったので生協を紹介してもらい、そこではたらくようになる
寄席、ストリップ劇場 、歌舞伎につての元に行くようになる

石井均の、ストリップの合間の軽演劇に、魅せられるようになる
(浅草3軒 フランス座、浅草座、カジノ座、 新宿2軒 セントラル座、新宿フランス座、 池袋にも有った) 石井さんからたまにはよっていけと、声をかけてくれた その後親しくなる  
石井均が今度一座を立ち上げるので、たまにはそちらの方にも遊びに来いと誘われる  
生協の正社員にならないかと誘いがあり、同時期に劇に出てみないかと言われた 
気持ちが揺れていたが、結局お願いして劇団に入ることになる 昭和32年の頃
自分の中に試してみたい気持ちが有ったのかと思う
(生協で働いていれば収入は安定だが、劇団員としては給料が貰えるかその後の状況がどうなるか判らない)

戸塚氏は石井均一座におり、ギャラが少ないので別に2人でキャバレーに行ってお金を稼いでいたが、石井氏が収入が安定してきたのでコンビを解消
替わりに伊東氏にコンビを組まないかと誘われる 
南氏が違う劇場にいて彼を誘い、南とやると云う事になる 南と戸塚がアルバイトでコンビを組んでやるようになる
南は放浪癖がありいなくなってしまった 又やってくれと私にお鉢が回ってきた 
南伸助の名前でやっていた(いつか帰ってくるだろうと)
ある時TVを見ていたら、大阪のTV中継に「おとぼけトリオ」(玉川良一東けんじ南伸助)で出演していた 
そのうち解散になり、戻ってくる 

私を首にするのもかわいそうだと云う事になり3人で始める
当時日劇に呼ばれたときに 名前を問われて「ぐうたらトリオ」ですと言ったら、そんな名前は丸の内には出せないと 東宝の重役が考える事になり「てんぷくトリオ」と名づける
南氏は生まれつきのリーダー、俺についてこい、俺について来れば間違いない お山の大将  
安易の方向を余り選ばない人だった
戸塚氏はひょうひょうとした人 人の敷いたレールを歩いていれば絶対間違いの無いと云う人 
昭和40年くらいからTVにぼちぼちでられるようになった
戸塚氏が42歳で亡くなってしまった「 お笑いオンステージ」NHKの番組が始まってすぐに亡くなってしまった ショックだった
2人でコンビを組んでやろという事は全然出なかった→各々が活躍するようになる
私が「天と地と」に出演する時には5日取られてしまったが、何とかやってくれた
NHKからいろいろな役を紹介してもらえるようになる 他からも要請がある 
当人としては断るような役(重要な役 電線音頭司会者とは凡そかけ離れた役)も有ったがこなした
伊原高忠 民放の名プロデューサー 「てんぷくトリオ」を採用してくれた 歌を一つ歌うのでも完璧にこなすまで家に返してもらえなかった 
踊りもありそれをきちっとできるまで帰らしてもらえない 
歌は歌い手より巧く歌え、踊りは踊り手よりも巧く踊れ それがコメディアンだと言われる(そこまで気持ちを高めろと云う事)
沢田幸二 プロデューサー てなもんや三度笠を担当  見に来てくれた 
それから出演してもらえるようになる 厳しい言葉「そこ どこがおもろいんですか」

若いうちは厳しさは必須だと私は思う 鉄は熱いうちに打てと言いますが、私は熱いうちに打たれて本当に良かった(若いうちは甘やかされては駄目)
良き仲間に恵まれ、良きプロデューサー、良き監督に恵まれた 何時間単位、何日単位で外れたら、そういった出会いはない・・・出会いの不思議さ
出会いを一番感じるようになるのはこんな年になってからですね