登丸求己(とまるもとみ)(元玉川大学教授) 国際協力40年再び現場へ
大学を定年退職 学生に教えたかった事は三つ
①今国際社会で何が起こっているのかを的確につかめるようになる
②日本や日本人を客観的に見れる
③今日本は小子高齢化が進み外国人の労働者が必要になりその様な社会になった時に多文化 共生の社会をやっていけるのか、或はそうならなくてもいいのか
反応は国際社会の事に興味を持てるようになった 新聞やTVのニュースを見るようになった
レポートの課題が出た時にお父さんと国際時事問題を語り合うようになった
学生には2種類有って国際派は積極的に物事を吸収しようと思っていて目つきが違う
問題は国内安定派は国際的な問題に対しては消極的 海外に興味はない
年ごとに変わってきて10年前は海外志向が強かった
7から8割だったが 今は6割が国内安定派を占めるようになってきてしまった
自分が知らない事に対する恐怖がそうさせているのか 10年前の学生の本質と 現在の学生の本質がちがう事が原因なのでは→社会が変わった
大学4年の時に一人でインドに行った 所属は農学部だった
人口爆発、食糧不足 がはやりのテーマだった
1978年にインドに行く そういうテーマだったらインドだろうと決めた
1年間バイトをして貨物船に乗ってインドに行く
インドで貧困をまざまざと見せつけられた とにかく人が多い 子供の物乞いが来る
これはなにかがおかしい どうしたらいいのか判らず 凄くもどかしくて無力で情けなかった自分を良く思いだす
インドでの衝撃から →貧困をなくすための開発援助への道に行こうと思った
英語を学ぶ、専門知識が必要
大学に3年残りそれからアメリカの大学院に行って開発経済学を学ぶ
英語もマスターする 国連に応募するが経験が足りないので断られる
ODAのプロジェクト 管理等やらしてもらえる 筆記試験はない どんな事をやってきたかで審査 ターザン映画 森林を守る ターザンはアフリカの開発援助のシンボルだと説得する
私はそのようにやりたいと説明し 採用される
イエメン 南北イエメンに分かれていた頃 イエメン事務所企画官 貧困撲滅の開発機関
その国の担当とともに決めてゆく
計画することが好きでこの国をこうすればこうなるだろうと言う事が凄く大好き
ソマリア、タジキスタン(1999年に行く 前年に国連監視団の日本人政務官が銃撃を受けて殺された)紛争地で初めてゆく
1991年にソ連が崩壊すると同時に独立しなくてはいけなくなる
翌年内戦が始まり10年間紛争となる 国連が途中から停戦監視にはいって、その時に筑波大学で助教授していた秋野豊さんが政務官で行っていた
その人の監視活動中に4人の国連スタッフの人が銃撃に会った
秋野さんの遺志をついでタジキスタンを民主国家にしようと意気込みが有った
国連監視団の民政官という立場で行く事になる
反政府運動をしている人達の除隊促進(武器を放棄して民間人に戻る)するプロジェクト
仕事を作ることによってお金が入るので戦闘員である必要がない
いろいろな仕事を計画する (武装解除の手段となる) お金は国連が払う
JAKA 5年後に又行く 2001年には紛争国では無くなる
タジキスタンの事を知っている住んだ事のあるのは私しかいなかった
今度は私の専門分野である開発支援をすることになる
共産主義国家であったので中央計画経済政策で全部政府が生産物等の計画をする
それが無くなって仕舞ったのでタジキスタンは10年間紛争していたので、市場経済への移転が他のソ連崩壊時の国家より10年遅れてしまっていた
私に与えられた仕事はタジキスタンを市場経済国家への移行をすることでした
共産圏は統制経済→ 自由市場経済 誰が何をやってもいい
何を作ってもいい、何をいくらで売ってもいい 統制経済であったのが突然何をやってもいいと言われても戸惑ってしまう
政府がどういう体制にして民間の経済を誘導すればいいのかというシステムを作るためにいろんな事をやりました・・・国作りですね
大統領府で働いていた 大統領の経済補佐官(有力な人で閣僚も動かすことが出来る)と組んで進める 研修は高級公務員(大臣、局長)対象に行う
政府といっても我々が考えている政府と共産圏であった人たちの考えている政府は違う
概念の違い マネージメントといっても内容が違う
言葉を物凄く注意しながら使っていかないと折角日本から専門家を呼んで研修しても成果が上がらないと言うのでその辺は悩みました
経済関連庁省に対する調査をする どういう問題を担当してどういう風に動かして 旧体制の時にはどういう制度でいろんな命令や行動が行われてて新しい制度になる障害は何なのか
調査する 最後にレポートの報告会をするが だれにするかと云うと全閣僚です
1年間なので絵を書いてここはこうしましょう ここはこうしましょうと いうのが精一杯 まだまだやる事が沢山有った
民間人もタジキスタンに入ってきている 日本企業の人は一人もいない
当時21人の日本人がいた 10人は大使館の人 11人は民間の日本人
御夫婦 シルバーボランティアで来られた田畑さん(当時63歳) 給料は20ドル 外国語大学で日本語を教える
赤尾さん 保健婦 殆ど木の生えていないようなタジキスタンとアフガニスタン国境の山の近辺で活動 素晴らしい女性だと思います 年配の人が活躍している
私達の時代は海外志向が強かったと思う 若い人はいないわけではない
飛び込む人はいるが 傾向としては内向きになっている
10年間 学生に教えていたが20歳前後の人に教えるのはすごいエネルギーが必要
はまってはいたが10年間とってもいい仕事だと思っていた
いつも新しいエネルギーを入れていないと良い講義、指導が出来ない
一方国際協力の現場と云うものは私がずっと育ってきたグラウンドですから
自分の能力を最も効率的に活かせる分野なんだなと思って現場に戻りたいと思いました
特に私の専門分野は自慢話ではないですけれども、貧困を撲滅する為の開発、紛争地における平和構築という両方の経験をした専門家はそんなにいません
だから私のこの経験と云うのはまだまだ求められているし、使えると思っています
つい最近南スーダンが独立しましたよね
国際社会からの支援が緊急に必要とされているところです
生活も大変だし、ものもないし、環境としては大変かも知れません
矢張り開発援助、平和構築という点から私は求められれば行きます