一日中快適に座っていられる事、作業が出来ることが必要 機能リハビリ、個別リハリビ
欧米では障害者支援機器がとっても発達した
日本では機能リハビリが中心だった 車椅子が最低機能
アメリカで高校留学先で窓に座っていて後ろに落ちてしまい背骨を打って脊髄を損傷して、頭をその後に打って頭蓋骨を骨折する 10日間意識はなかった
脳挫傷も2か所あった 脊髄損傷だけが残る
もう歩けませんという告知 日本では躊躇してしまうがアメリカでは告知をなるべく早く言うべきだと それも正しい知識と情報を持った人がいうべきだと云う考えがある
意識が戻って3時間後ぐらいに告知された いろんな情報をくれた
車椅子になると言ってもこんなことが出来ますよと スポーツもできるし 職業の選択もあるし なのでこれから貴方の目的を達成できるように頑張ってゆきましょう
私の場合は心配の前に心配の種を取り除いてもらったような状態だった
落ち込む前にこんなことが出来ますよ 子供を作るにも人工授精がありますよ
車椅子でもこんな職業に就いた人がいますよ スポーツもこんなことができますよ
いろんな事を教えてもらったので後に残ったのは車椅子でもいいかと思いました
それは素晴らしかった
リハビリで最初に言われた言葉が「貴方は怪我をする前と少しも変わっていませんよ」
自分としてみれば変わっている しかし根本的には変わっていない
「今までもっていた目的も夢もあきらめなくていいですよ
但し障害を負う事で同じ方法では出来ないのでどういう方法を使えば出来るのか 方法だけで駄目ならば、どういう道具を使えば出来るのか どういう設備を使えば出来るのか どういうテクノロジーを使えば出来るのか それを考えて貴方の目的や夢を達成するのが、リハビリの役目です」と言われた 千人力の言葉でした
別の高校(もとの高校は車椅子では建物構造が無理なので)へ複学、ボストン大学に行く
車椅子でも不自由にならないように対応してくれる
その後これで貴方は他の学生と同じスタートラインに着きましたかと言われ着きましたと言ったとたんに後は何の容赦もない
遅刻しようが、単位を落とそうが全部障害のせいではないでしょ
それは貴方のせいでしょと言われた 本当の平等
スキューバダイビングを新たにやるようになった
日本に戻ってきて驚いたのは優れた道具が一切なかった
最低限の機能だけの車椅子 床ずれ予防などしないクッション だったりした
バリアーフリーが悪かった (今から27年前) スロープ、車いす専用 トイレ、駐車場 レストラン、デパート等も行けるところが限られていた
8年間アメリカにいて6年半が車椅子生活であったが、自分が障害者だとは思わなかった
理由
①障害者の人に理解が深い、
②自由な活動をしてくれる道具がある
③バリアーフリーの環境がある
考え方は講演をする 道具は輸入する会社を作る バリアーフリーに関してはいろいろな自治体とか官庁の委員をやってそこでいろいろ発言したりして替えてゆきたい
バリアーフリーは障壁除去という事なので障害がある人が使いにくい物を変えてあげましょうと云う事 ユニバーサルデザイン→もっと全ての人達でも同じニーズの人達が居る
全てに役立つように作りましょうという事→住みやすい街作り
(ユニバーサルデザインと言ってもバリアーフリーの場合が多い)
小さいエレベーターだったら専用になってしまう事がある
障害者だけでなく 足の悪い方、ベビーカー使用者、お年寄り 皆が利用できるような設備 →回転率が良くなる チャリティーでやるのではなく高齢者社会なのだから
そこの御客さんのニーズに合うような使い方にしてゆく
ビジネスとしても成功するはずなのでお話をしてやっていただく
障害者用駐車場の利用許可証の発行を進めている
ルールがないのでシステムを作ろうと思い、佐賀県で始める とってもうまく行く
19県目になる もうすぐ半分の県で実施することになる 総合利用制度を展開し始める
最終的には全国の制度にしたい
外国ではカナダのをアメリカで使えたりしている
そんなところまでつなげたいと思っている
アクセス・インターナショナル㈱を立ち上げた
バロセロナ身体障害者オリンピックに平泳ぎ100mで6位入賞している
1985年に日本に帰ってきている 1992年にバロセロナにゆく
競泳の大会には今でも出ている(シニアには出ないようにしている)