伊東四朗(俳優74歳) 私の喜劇役者人生を語ろう 2
森繁久弥:影響を受ける そんなに知っているわけではないが憧れの人だった
映画を随分見た どたばたからシリアスなものまでやっている
喜劇役者は片方の隅からもう一方の隅まで全部出来るのが喜劇役者ではないかと思う
頂点にいたのが森繁さん
歌を歌わせれば抜群に巧い
東八郎:コント番組で良く一緒にやった 江戸っ子 息子さんが一緒に現在出ている
52歳で亡くなる 南伸助も52歳、石原裕次郎も52歳 美空ひばりも52歳
東京喜劇 三宅祐司さんと一緒に伊東四朗一座、年によっては熱海五朗一座
(私が出られない時に行う時の名称 伊東がない 駄洒落)
2004年から続いている 発端は三宅祐司の「いい加減にします」という番組にゲストに呼ばれた時があって、気に入られていつの間にかレギュラーになってしまった
この番組が終了して、数年して勿体ないと感じるようになり、これを舞台でやらないかと声をかけた
14年前に実現した 好評だったので又やろうかという事になる 小倉久寛も加わる
三宅祐司から一座を立ち上げませんかといわれる
座長を依頼されるが断る 一回きり(旗揚げ解散公演)はどうですかといわれ、同意するが結局 一回きりではなかった
連綿と続いていた東京の喜劇をどこかで続けて行く人間がいないといけないんじゃないかという背景があるわけですよ 彼なんかもそうなんです
急遽再結成とはどうですか と三宅祐司から言われる 第2回目を公演する
大震災から3か月過ぎてから公演する 大好評だった
笑う事はいい事 笑う事によって心が解放されてり、身体にいい
引き際のはやいのが東京喜劇かなと思う(関西喜劇に比べて)
三木のり平 せっかく受けるところを切る(そうでないと粋じゃない)
雲の上の団五朗一座 東京喜劇の真髄だと思う
喜劇はその時代を写し取っている
前のままやるのではなく現在に置き換えてやらないと受けない
アドリブを許すと前日考えてきて出してしまうものがある
アドリブはその時突然出すことによって出てくるのがアドリブで面白い事は面白い
考えてきたアドリブは邪心があるものだから、割と厭らしい (笑わそうとする意図がある)
その日の御客さんが創り出してくる笑いというものがある
アンケート用紙 を読みあげる 舞台と観客が一体化する
喜劇ほどお客さんがつくってくれるものはない
正解だと思ったものがことごとく覆される事がある
稽古のなかにハンドルの中に遊びみたいなものを作っておく必要がある
お客さんの傾向である時には稽古通りやった方が正解の場合があり、他の場合はそうでないような時もあり、柔軟性を持ってやらないと喜劇は成り立たない
練り上げた台本で手直しもして よしこれで行くぞと稽古も十分にして望んでもそれでも→ 練りに練ったからこそ後ろにちょっと余裕が出てくるんですよ
その余裕というか、それがお客さんの反応を見ていられる目 脳がそこについてくるんだと思う ・・・自分だけの論なんですが
身体で感じる 昨日、大爆笑がある 今日も大爆笑があるが昨日と今日の笑いは違う 何を笑っているのかが違う
お客さんがこうした方がいいよと云う笑いがある (同じ笑いの中に) こうじゃなくて明日こうやってみようとその時0.何秒かの間に考える
次の日にやってみるとその通りなんです 又教わったなと、凄いですよ
やってていい商売しているなと
場所によっても違う それを同じようにやってはいけない
気付いてやらないと、それが喜劇役者なんだと思う
お客さんに判るように、どんどん自分だけでやってはいけない
難しいが後輩にも教えなくてはいけない 息子に対して反対はしなかったのか→反対する権利はない 正直に言えばやってほしくなかった
自分の歩んできた道を振り返ってみると これは息子には同じ道は歩ませたくないと云う事は一杯あったので 止めろと云う権利もないですから
守ることはしっかり守ってやりなさいと云う 守ること→人より早く台詞を覚えてゆけ
時間は誰よりも早く行け スタッフと馴れ馴れしくするな
伊東さんはしゃしゃり出ない、後輩たちに昔はこうだったとは言わない
それは心がけている部分は→昔はこうだったと云うんじゃあ喜劇は成り立たないから
今を生きていなければ、今の空気を吸っていなければ駄目 昔はこうだったは絶対駄目
しゃしゃり出ないのはずっと脇役をやってきたので脇役はしゃしゃり出ちゃ駄目
主役芝居を立てる(主役を食うような演技→駄目)
年をとると若い人とずれてしまう人が居るが→若い人と良く話をすることだと思う
わざわざ話に割って入ってするのではなく、よく聞いている(若い人がどんな話をしているか)
年だと言って弱弱しくやるのには抵抗を感じる 例えば病人の役をやるのでもなにがしかの元気があった方がいいかなと思う
年だからといって年相応の芝居にはしないようにしている
容貌は年なのだがそこにちょっと見えを張った力強さ、声にも、動きにも そういったものは役者にとって必要なのではないか