2011年10月16日日曜日

高橋誠之助 (元執事)         ・松下幸之助夫妻の執事として

 高橋誠之助 (元執事)       松下幸之助夫妻の執事として
20年以上に渡って松下幸之助の執事として仕えてきた 
間口の広い仕事の交通整理する 松下の組織全部を知っていなければならない 電話連絡
1963年に入社 第一志望 松下幸之助は憧れの人だった 販売の第一線で活躍した 
白物家電は昭和38年ごろには陰りが出てきた
営業強化を松下氏は指示、大卒の社員を全国の営業所に配置せよ 
私は広島営業所に配属になった 
人事部長に連れられて、松下幸之助に初めて会う事が出来た 
仕事が忙しく家の事が思うように家長として出来ないので君にやってもらいたいと言われる これだけ

昭和14年に邸宅を建てていた 一室に執事室を設けてそこに住むようになる 
勤務時間は朝8時~午後6時まで が基本
家にいるときは一般の家庭人だった 
冗談をいうし、世間話をするし 普通の感覚で接してもらえた
見送りお出迎えは厳格だった 奥さんが先頭に立って従業員一同が見送る 
奥さんといる時間が松下幸之助より多かった  奥さんは和服着用していた
 
肝っ玉母さんのような人だった 性格は明るい(花に例えたらひまわり) 
幸之助はどちらかというと内向的 奥さんはあらゆるところから情報を集めてきてよく知っていた 新聞を7紙読んで整理しており、何時何日こんなことがあったようだと言うとすぐ出せるようにしていた   
むめのさんは明治29年生まれ (御主人が明治27年生まれ) 淡路島の出身 19歳の時に大阪に花嫁修行の為にくる 
お見合いは介添え人が顔を合わせてお互いは判るが、当人たちは顔はお互い判らない状況  借家住まいで結婚は借金で賄う
夫人に言わせれば縁談の内の一番条件の悪い人を選びましたと断言している 
なんでかというと 私は家とか財産とか身よりとかに頼って生きて行こうとは思わない
自分の力で生活を切り開いてゆく、自分の力で人生を立てて行きたい 
自分の才覚でいろいろ工夫して家庭を切り盛って行くと いう信念を持っていた

この結婚に対しては父親は反対したようだ 突然会社を辞める事になるが夫人が促したようだ
1899年頃、幸之助の父が米相場で失敗し破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し下駄屋を始めた  
しかし父には商才もなく店を畳んだため、尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出される
幸之助は16歳で大阪電燈(現:関西電力)に入社し、7年間勤務 当時の電球は自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案する
 
ソケットの提案を上司にしたら、ぼろくそに反対され、図面も放り投げられた 頭に来て即辞めた  独立した
(おしるこが好きでお汁粉屋でもやろうかとも考えたがソケットをやることになる) 
ソケットの工事をしやすいように工夫した いざ自分で作ろうとしたが材料とかその中身が判らない 作っているところの廃材を貰ってきたり、作り方を友人から教えてもらったりした
一応ものが出来たが流通がなく扱ってもらえない 
原価計算もしていない 助けてくれた友人に給料も払えない 手元の資金がわずかしかなかった 
夫人の弟、井植歳男(後の三洋電気社長)と夫婦3人で何とか会社をつないでいる  
川北電気会社から部品を作ってほしいとの要望がある 
扇風機のライバンというスイッチの部分に絶縁体があるが、従来は瀬戸物で割れてしまう 
割れないライバンを作りたいという要望があった
ようやく本格的な注文を受けて町工場が動き出した これが神風となった 
その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る
4畳半と2畳を改造して作った作業場  資金繰りは嫁入り道具、着物、指輪等を質屋に持ってゆき資金源にした

私は質屋通いはしました だけど生活を支えるため 食べ物、着るものの為に質屋には行っていません 
仕事の為に必要な資金の為に質屋に行きましたとは常に言っていた
あらゆることに自分が助成した 
人が足りなくなり募集するがなかなか人が来ない 来てもすぐやめて仕舞う   
従業員に対して来た時には出迎えてよう来てくれたと言い、帰る時は御苦労さま また明日も来てほしいと声をかけた
この精神がその後の松下の従業員に対する姿勢となって現れる  「企業は人なり」

最初は4~5名の住み込み(現在で云う社員寮)の衣食住の面倒を見る(夫人) 
GHQが財閥解体対象として考えたがそれを阻止しようと嘆願したのが労働組合だった 
本社を大阪の門真に移転する頃から今まで、夫人は副社長、経理部長、人事部長もろもろの役職を全部やっていたような状況だったが、それなりの人が育ったので 第一線を退いて側面から主人の会社をバックアップしようという新たな立場になってゆく  
掛け替えのないパートナーだとおもっていたと思う 
創立50周年の時幹部だけでも7000人が集まった 
その時に幸之助が挨拶した後に私だけでなく家内も参加させてもらった

今日までいろいろ尽くしてくれたので感謝の気持ちを表したいので「長い間ありがとう」と夫人に対して頭を下げた 万雷の拍手
重役の夫人に対して言動に注意するように指示していた  (後年) 
1989年(平成元年)97歳で幸之助は亡くなる 夫人は平成5年に亡くなる 京帷子
「失敗したところで止めてしまうから失敗になる 成功するところまでやれば成功する」・・・2人の人生そのもの
「道は無限にある」  一般的にはA,B,C 三案ぐらいを考えるが幸之助は5案場合によっては代案は10案ぐらい考えよと言う