秋枝簫子(しょうこ91歳) | 女性の潜在能力を生かせ | ||||||||||||||
<概要> | |||||||||||||||
1920年生まれ 女性史が専門 平成9年男女共同参画社会作り内閣官房長賞受賞 | |||||||||||||||
女性史を学ぶことによって女性の啓蒙、地位向上等に尽力する | |||||||||||||||
戦前・・・昔の女性の方が一生懸命生きてきた 社会的活動は難しかった 一日働きずめ | |||||||||||||||
戦後・・・両分極化している(一生懸命やる人はやっているが楽をして生きている人もいる) 家事から解放されている 楽指向が増えている |
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戦争で都市という都市は全て焼け野原となっていた 終戦になってほっとした | |||||||||||||||
父は新聞記者だったので戦争関係の情報は知っていた 秋に疎開先での米の刈り入れも手伝う 昭和20年11月に大學が再開する |
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東北帝大 2次募集の時だけ旧制高校以外でも可とする 女子が大学に入ることに対して一流新聞 は好意的であったが、 |
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文部省事務次官をはじめ 、対応は厳しかった 鳩山春子 (女子独立学校を建てた人)は大賛成だった | |||||||||||||||
東京女子大を卒業後東北帝大に進む | |||||||||||||||
家では戦前でも 父は女も平等に育ててくれた (男女の差が厳しい時代) 一歩外へ出れば差別 だらけであった |
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女性は能力があっても全部無能力者の枠に入れられていた | |||||||||||||||
不当だと思っていたので、将来女性解放とか、女性の位置を高める仕事をしていった | |||||||||||||||
そのためには 先進国の女性についての勉強をし、それからそういった運動をしようと思った |
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東京女子大の英文科に入る 外国に行く為に英語をものにしようと思った | |||||||||||||||
外国に行ける時代ではなかったので、東京女子大の講師から東北帝大は女子を受け入れるので そこに行きなさいと言われ受ける |
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西洋史にはいる 先進国の女性史やりたいといったら 教授からそんなものを勉強する人はいない 勝手にやりたまえといわれる |
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仕方がないので図書館に行ったら女性史に関する本は一冊もなかった | |||||||||||||||
何のためにこの大学に入ったのか判らなくなる 随分と悩んだ 大學というところは自分で開拓して 勉強するところだと気付いた |
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東京女子大のルートを使って手紙を出して外国の資料を送って貰う | |||||||||||||||
アメリカ文化センターが出来て(東京日比谷公園)図書部があり いろいろ本が来ていた 女性史、女性教育史等の本が一杯あった |
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卒論を書く時には東京に移って日参して調べた 全部手書きでやらなくては行けなった |
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女性教育に関する本が一杯あった 卒論は「アメリカ女子教育の成立の社会的基盤について」 |
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明治2年の時 アメリカ・ボストン大学は大学院まで女性が行けるように開放されてた | |||||||||||||||
進んではいたがアメリカでも18世紀~19世紀は男女の差別はあった | |||||||||||||||
戦後10年ごろは女子学生は社会に還元するんだという意欲は十分にあった 100%就職し、70%は教員になった |
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段々時が経つと 段々と職種が増えてきたが、楽して専業主婦の道を歩みたいと考える人が 多くなる |
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今、両極分化している お稽古ごとは本を読める様であればあとでも出来る 今 独学出来ないことを学んでおきなさい(母の言) |
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そういう意味ではとっても両親に感謝している | |||||||||||||||
人類の半分は女性 日本は半分の男性の能力しか還元されてない 女性の能力は全然使われてない これはもったい |
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女性の能力をいい意味で社会還元する 男性を教育するときはその男性一人の能力を開発する 女性を教育したらその家族全部を教育する事になる |
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(特に子供に対して影響大) ある意味で男性以上に重要だともいえる | |||||||||||||||
戦後日本は女性に対する教育が普及してきたのに、なぜ日本では高等教育を受けた女性は 家の中に入ってしまっていて、社会に還元しないのだろう |
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(国際学会で外国の人たちが可成りそういう) それは日本の家庭の主人が外へ出したがらない (ある日本人代表の答え) |
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男性も啓蒙しないと駄目 | |||||||||||||||
家庭のレベルは夫と妻のうち低い方で定まると言える | |||||||||||||||
子供と話す時には子供のレベルまで下げないと対話は成り立たない 夫と妻と対話をするには低い方に会わせないと対話は成り立たない |
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その話を聞いた男性が驚いて今度は父親学級で話して下さいという | |||||||||||||||
戦時中の日本人の平均寿命 男性は23.4歳 女性は37歳 吃驚した 外地で死んだ人300万人 内地では60~70万人 もったいないことをしている |
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戦争体験を風化させない 絶望の中の餓死者が7割 | |||||||||||||||
前身は老人問題研究会・・・メンバーは医者が多い 新しい医療 がん治療 認知症の話だったが 女性が段々入会するようになった |
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男性は忙しく結局解散する→もったいないので新たに学びを楽しむ会が発足 月/1回 (夜) 50~60歳 |
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福岡女子大教授 30年勤務 | |||||||||||||||
GHQが戦後5大改革を掲げる その一つが婦人参政権を入れる その前終戦10日後市川房枝さん、赤松末子さんらが戦後対策婦人委員会を立ち上げる |
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GHQ、政府に提案している 戦後男性は虚脱状態で元気がなかった 女性はいろいろな面で元気だった |
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選挙権行使は1946年4月 昭和25から新生大学 男女共学 | |||||||||||||||
女性学という学問はなかった アメリカで1970年代から出てくる(黒人だけでなく女性も差別される) |
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ハーバード大学に一年間学ぶ 交換教授の様な待遇で学ぶ 研究費は何に使ってもいい(ベビーシッターもOK) |
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1975年 国際婦人年 各国が実現に向けて努力する約束をする→最初署名をするなと政府の指示 、その後OKとなる |
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生まれたら父親の籍に入れることの問題・・・法務省 家庭科の問題・・・文部省 差別賃金等の問題・・・労働省 3省が反対だった |
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法務省が最初に変更 次に労働省 文部省が最後まで抵抗した (家庭は最後まで女性が守ってほしい 思惑) |
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婦人問題懇話会を福岡に設立 教育と女性の社会参加部門の部会長をする | |||||||||||||||
はじめは課長級が対応 憮然とした態度→1年後顔色が変わって男女のなれ?をしなくては駄目と 考え変わる |
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森有礼(ありのり)-フォレスマンの比較研究・・・卒論 | |||||||||||||||
マサチューセッツ工科大学の初代教育長 (弁護士だった 貧しい人に対して味方するような人 州議会の議員になる) |
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米国、女子師範学校を作る(19世紀中ごろ) 女工・・・教育のある人の方が能率高い事が実証される ・・・女子教育の重要性を説く |
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奴隷解放運動に参加 オベリン大學設立 初代大學の学長として招かれるがその時の条件→ ①寮生に男女平等に門戸を開く ②人種差別しない |
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③教師陣に女性教師を入れる |
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森有礼は幕末青年期に 海軍の技術を学ばせる為に、イギリスに密かに薩摩藩から行った人 むこうに行ったら教養の高い女性を知る |
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藩から学資が届かなくなり、米、宣教師から米国への渡航を望まれ米国にいき、働きながら勉強する やはり教養の高い女性を知る(大學を知る) |
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黒田清隆 北海道開拓長官が来たときに女性の教育の必要性を説く→最初の官立女学校を作った | |||||||||||||||
明治5年 学制が出る 教育の根本は女子教育にあり 母親を教育することはその子供たち全部を 教育することになる |
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明治18年 内閣制度が出来 伊藤博文に乞われて初代文部大臣になる 女子教育の重要性をいつも説いて回る |
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女性は日本の文明を推し進める重要な役割を持っている 等々絶えず言っていた | |||||||||||||||
フォレスマンは亡くなったが、奥さんがインテリで奥さんと親しくしていた | |||||||||||||||
森有礼の英語の論文がありフォレスマンの事が書いてあり、アメリカで最も優れて教育者であり、 最も優れた賢人だと言って最高級の賛辞で紹介している |
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出版祝いと生前葬を行う(84歳の時) どんなんに良い法律が出来ても権利があっても その上に眠りこけていたら何にもならない(市川房枝談) |
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時間短縮 ワークシェアリング 男性の家事分担・・・今後必要であろう |