2011年6月25日土曜日

畑裕子(作家)          ・激動の時代をしたたかに生きた女たち

畑裕子(作家)     激動の時代をしたたかに生きた女たち  
茶々 鶴丸を出産 3歳で病死する  二年後秀頼を出産 自分の母乳で育てる
浅井長政21回忌の時に菩提寺 養源院を建立する(秀吉に懇願)
文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政の供養のために秀吉に願って成伯法印(長政の従弟で比叡山の僧)を開山として創建
元和7年(1621年)、徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願により再興
秀吉が無くなった後、家康から難儀なことを再三しかけられるが、秀頼を助ける
初  しっかりした女性だった
関ヶ原の戦いで京極高次は 西軍 大津城に籠城する 
慶長14年高次がなくなり、初は出家して浄高院初と名乗る
豊臣と徳川の関係が険悪になると、淀殿が心配になり、大阪城にたびたび出かけるようになる
大阪冬の陣の時にも城内におり、和議の使者となる
佐治 一成は、戦国時代の武将。佐治信方の嫡男。母は織田信長の妹・犬。
織田信秀の外孫で、信長の甥
不利な和議を飲まざるを得なかった
翌年3月 豊臣が京都を放火するという噂が流れ家康に噂について否定するために奔走する
家康が初を呼び出し、二条城にて会見 最後通牒ともいわれる書状を渡される
大阪城に書状を持って帰ると、秀頼から激怒される 戦の事は女に指図されるものではない 
めげずに淀殿を補助
大阪城が落城する直前まで淀殿の元に一緒にいる  淀殿を解きふくす事が出来ず大阪城脱出
その後江戸、京極屋敷に住むようになる 秀忠に和睦する
亡くなる一カ月前に遺言書をしたため、 浅井喜八郎(関ヶ原、大阪の陣で豊臣方に味方)藩主京極忠高に知行を与えてやってほしい 500石を与え、京極家家臣とする
 最初の結婚は佐治一成、直ぐ離婚