2021年3月7日日曜日

田中星児(歌手)            ・【時代を創った声】

 田中星児(歌手)            ・【時代を創った声】

奈良県御所市生まれ、73歳、NHK「おかあさんといっしょ」の初代「うたのおにいさん」として知られています。

1976年大ヒットした「ビューティフルサンデー」  昭和45年にNHK「ステージ101」のヤング101のメンバーの一人としてデビュー、翌年からおかあさんといっしょ』の初代「うたのおにいさん」を6年近く務めました。   「ビューティフルサンデー」、「北風小僧の寒太郎」、「ヤンチャリカ」などといったヒット曲を歌いました。   現在も子供から大人まで楽しめるコンサートや作曲に励んでいます。  

2年前に心筋梗塞をやってしまって発見が遅れて心臓が1/3壊死してしまって、歩かなくては行けなくて一生懸命歩いています。   コロナ禍でイベントも無くなってしまいました。     

父親が高校の音楽の教師をしていて、ピアノを弾いていたりして、父親の足元で聞いたり、レコードを聴いていました。  童謡など子供のころ歌っていました。  ポール・アンカ、ニール・セダカ、中学でプレスリー、高校でビートルズが好きになりました。  ギターを買って歌っていました。   高校の頃に或る番組に出てプレスリーの歌を歌って或るプロダクションに推薦してもらいました。   冬休みの1週間だけやりましたが、声が枯れてしまって、プロダクションとは縁が切れてしまいました。   大学で東京に出てきて、歌番組があり「十人抜きのど自慢」とかで十人抜いたりとかして、NHKののど自慢に出て、ポピュラーの部で優勝しました。   大学4年の時に「ステージ101」が始まって、オーディションがあり(ヤング101)、受けました。   歌をやったり、踊ったり面接があり運よく受かることができました。   半年間後ろで一緒に歌って練習をして、その後出られるようになりました。   

「ステージ101」ではアメリカではやっていたものとか、オリジナル曲などをやっていました。  踊りはできなかったので最初は大変でした。  1971年に「おかあさんといっしょ」のチラシが回ってきて、受けて合格することができました。   「おもちゃのチャチャチャ」で腰を振るのがよかったと言われました。   「うたのおにいさん」として6年近くやることになりました。   「さっちゃん」とか歌っていきたいと思っていました。  いろんなジャンルの歌があって、楽しい歌があるんだなあとつくづく思いました。    子供だけではなくて、お母さんとかおじいちゃんおばあちゃんが一緒に歌うような感じでよかったです。  

*「北風小僧の寒太郎」  作詞:井出隆夫  作編曲:福田和禾子 歌:田中星児

この歌に出会って井出先生、福田先生には感謝しています。  子供用の演歌として作られたようです。   1976年に「ビューティフルサンデー」がヒット、紅白歌合戦にも出場することが出来ました。   

その後コンサートを中心にやっていきました。   いろんな時代の楽しい歌を歌っていきたいと思っています。   自作の曲をコンクールに出すとかやって来ました。  なかでも「エトはメリーゴーランド」は最初は1992年に放送され、何度も再放送され、去年の12月から今年1月にかけても再放送されています。

「エトはメリーゴーランド」   作詞:小黒恵子 作曲:田中星児  歌:田中星児



2021年3月5日金曜日

照井翠(俳人)             ・俳句で残す東日本大震災の10年

照井翠(俳人)             ・俳句で残す東日本大震災の10年 

照井さんは31年前俳句の会に入会し、平成14年に現代俳句新人賞を受賞します。  平成15年には第5句集『龍宮』により第12回俳句四季大賞および第68回現代俳句協会賞特別賞を受賞、このほど句集『泥天使』を上梓します。  句集には大震災の記憶をとどめたいという思いが込められています。   

東日本大震災から10年 になります。   当日、釜石高校に勤めていて、次の日が入試だという生徒たちを指導していました。   地響きと同時に床が盛り上がってきました。    学校に一晩過ごすことになりました。  3百数十名いました。  一般の人も来ました。  波に飲まれた家族の光景をみた父親が息子さんを抱いたりしていました。   

俳句はメモ用紙に浮かんだものを書いていました。   鎮魂の思い、亡くなられた方への御霊への私なりの祈りの思いを詠んで行けたらなあと思って、一句、一句詠んでいきました。

「春の星こんなに人が死んだのか」   その夜は満天の星で光り輝いていました。   なんでこんなに星があるの、浜で亡くなった人が昇天なさって、御霊が光っているんだと思えるほど美しい星空でした。

喪へばうしなふほどに降る雪よ」   三陸の沿岸って連日大雪が降ることはないのですが、毎日雪が降って、夢や希望も失いかけている時に、ひたすら雪が降ってきて、そういうところから生まれた句です。

「泥の底繭のごとくに嬰と母」   震災三日目にアパートがどうなっていつか見たくて出かけましたが、街は泥だらけでした。  泥の底に赤ちゃんを抱いたお母さんがまるで繭のように亡くなった様子をうかがって、こういう句ができました。   「戦争よりひどいよ」と年寄りの方がおっしゃっていました。   瓦礫から抜け出そうともがいて亡くなっている人、大変な状況で地獄だとおっしゃっていました。   釜石は鉄の街なので戦争で艦砲射撃を何百発もうけた街でもあります。

「朧夜の泥の封ぜし黒ピアノ」     消防車が横たわっていたり、パトカーが車の上に積みあがっていたり、介護の車が電信柱に寄りかかっていたりする中で、立派なグランドピアノが道路の真ん中に泥まみれでありました。  ピアノとしての命を失ったのかと思うと苦しい思いがしました。  見たことのない非日常的なものが眼の前にありました。   震災後2,3年後は復興に向けていくようなものだと思いますが、なかなか進んではいかなかった。   疑念がわいてきた時期でした。

「万緑の底で三年死んでゐる」  3年経ってもそこで死んでいるんだというつぶやきのような句です。

「草茂るずっと絶望してゐろと」  投げやりな感じ、はかない気持ちを持ったし、それではいけないという気持ちもあり、震災後3,4年は心が揺れ動いた時期でもあります。

『龍宮』に収めた句があり、その後8年間震災と向き合って来て、その間に詠み溜めた句を収めたのが 『泥天使』になります。   私にとって震災の本質、震災を象徴するものが泥です。

「黒波の来て青波を呑みにけり」  季語はないのですが、一方からどす黒い波が来て青い波を吞み込んでいってしまった。

「海からも海へも桜散りにけり」  海からもというのはこの世ではないところから桜が浜のほうに散り込んできているという句です。

「佇めば誰もが墓標春の海」  放心状態でみんなが無言で沖を見ていたが、棒立ちになっていて、墓標のように見えました。 

「逢へるなら魂にでもなりたしよ」    これも季語が無いですが、自分にとって大切な人に逢えるなら魂にでもなりたい。   魂になるという事は自分自身が霊魂になる事。 

「初螢やうやく逢ひに来てくれた」  ようやく会いに来てくれた。  螢の飛ぶ季節が来ましたが、螢が自分の袖口に止まってくれる、葉っぱの上に止まってくれる、それを見て震災で亡くなったあの方が、ようやく今会いに来てくれているんだと思った句です。

「卒業す泉下にはいと返事して」    務めていた学校の生徒は全員無事でしたが、他の学校では亡くなられた方がいて、亡くなった生徒の名も担任の先生は卒業で呼んであげたと思いますが、声はないんですが、おそらく泉下(あの世)ではいと返事をしてくれていたであろうなというところからこの句は生まれました。

寒昴たれも誰かのただひとり」   スバルという星、家族のようにこじんまりと集まっている、それを見ていて、誰かにとってはたった一人のかけがえのない存在だと思ってみたものですから、そういう思いで詠んだ句です。  

私自身が涙を流しながら、歯を食いしばりながら一句一句、鎮魂の思いで詠んでいった句なので他の人にも伝わればいいなあと思います。  句集を世の中に残すことで、紙でできた碑(いしぶみ)のようなもので、紙の碑という思いで作りました。

避難所の子供たちに薄い雑炊を「ラブ 注入」と言って注いで上げたら、子供たちは「ヤダ先生ったら」と言って笑ってくれて、一般の方々も「先生、私たちのも ラブ注入してくださいと」言われて、「ラブ 注入」、「ラブ 注入」と言いながら薄い雑炊を盛らしてもらいました。  腹の底から笑えない状態だったが、ようやく本当に笑ってもらう事ができました。










2021年3月4日木曜日

高橋雅子(ホスピタルアーティスト)   ・被災者の心に希望の色彩を

高橋雅子(ホスピタルアーティスト)   ・被災者の心に希望の色彩を 

病院内の壁などに絵を描いて入院患者や医療従事者を癒そうという取り組みをしています。  東日本大震災が起きた10年前からは活動拠点の東京と東北を何度も往復して、街の施設に絵をかいたり人形作りのワークショップを開いたりして、災害で傷ついた人たちに寄り添ってきました。   アートの力を信じて被災者の心に希望の色を添えたいという高橋さんに活動内容やアートへの思いを伺いました。

絵は花、山だったり自然の絵だとか気持ちいいものを描ています。  病院の受付、入院している部屋、集中治療室、子供たちが遊ぶプレイルーム、食事をする部屋などに描いています。   プレイルームでは虫が遊ぶところとか、太陽、子供たちが大好きそうなモチーフを描きます。   患者さん、先生に参加していただく物つくりの活動は何百と、これまでに日本全国の病院でやってきました。   アートで心の部分を前向きにしてゆくことだったり、心のケアを出来ると思います。   一緒にマスコットを作ったり病院の庭にガーデニングの様な 花いじりをしたりします。  コミュニケーションがとれるようなアートプログラムをしてほしいとか、暗い部屋を明るくしてほしいとか、具体的な相談が来る様になってきました。

ホスピタルアーティストとしては10年前ぐらいからです。  病院に入ったのは18年前ぐらいです。   母親が脳梗塞で一命はとりとめましたが、闘病生活の中で気持ちが前向きになるようなことが出来ないかなと思った時に、アートで出来るのではないかと思いました。   先ずは温かい色、雰囲気が欲しいなと思いました。   最初はけんもほろろでした。   入院生活経験者、患者さんとかにヒアリングをしたら、皆さんとても欲しいという人達がほとんどでした。    或る先生が共感してくれてそこから少しづつ軌道に乗っていきました。    心の色が変わってゆくのを感じました。(20年前ぐらい)

東日本大震災の時には、先ず視察をして、3月末に入って食べ物の支援などをしながら、絵の道具も持っていきました。    マスコットを作る針と糸、絵を描く材料などをもって向かいました。   5人ぐらいから30人ぐらい、場所によって違いますが一緒にやってきました。   自分を取り戻してゆく感じがうかがえました。   仮設住宅に変わっても集会所ができたので落ち着いた環境で作れるようになり、コミュニケーションも楽に出来るようになりました。   仮設住宅に絵を描いたりもしました。   

子供達は色彩のある所に育たないと、好奇心、喜怒哀楽とかが眠ってしまって元気がでるようには育たないと言うデータもあります。   地元の高校生が街がとても沈んでゆくので明るく元気にきれいにしたいという相談があって、街を再生してカラフルにしてゆこうという事が始まり、公園とか塗り替えてゆくことになりました。   感動しました。

車での移動の活動距離は地球を5周分になりました。   心の支援ではアート、音楽、暖かい言葉をかけるとかあると思いますが、アート活動での支援は自分と向かい合うという事を見ていたので、大変な状態ではありましたが、でも必要なんじゃないかなと思いました。自分が作ったという事で前向きになって行くと思います。   

アメリカに留学していた時にベトナム戦争の帰還兵がトラウマに落ちいって、悩んだりした人がいたり、自分の中の悩みとか、社会で違和感があるとか、価値観が違うとか、判る過程にアートが必要だったんだという事が感じられて、人の心を救ったり、人生に大きな効果があったりするんだという事を感じました。  救いを求めている人とかに対してサポートできるような活動をしたいと思いました。  家系が医者だったので、自分には出来なくてアートでもできるのではないかと思って役に立ちたいと思いました。

東京に拠点がありましたが、宮城県に拠点を移して、仕事の本拠地を仙台にうつしました。家族の反対は諦めなのか反対はないです、静かな応援ですかね。

ホスピタルアートが一つの芯になって、この被災地に年内に本拠地を構えてここからいろいろできることと、各地で必要な事を気付いたら飛んで行けるようにして、障害を持っている人たちの将来を含めて応援していきたいなと思っています。  



   

2021年3月3日水曜日

北島三郎(歌手)            ・「歌の道」を歩み続けて(2) 

 北島三郎(歌手)            ・「歌の道」を歩み続けて(2) 

座長公演、46年間で実に4578回に渡って、繰り広げられた公演はお芝居と歌のステージで構成され、華やかで大掛かりなセットも魅力の一つでした。   そこにはお客さんを何としても喜ばせようという北島さんの思いがありました。   そして作詞や作曲にも取り組み、「祭り」や「年輪」などの名曲なども生み出してきた北島さん、その音楽はどう作り上げてられてきたのか、北島さんの歌の哲学に迫ります。

劇場公演4578回、その一回は4時間あり、前半がお芝居、後半が歌謡ショー。   これで幕がさがると思った時にさらに幕が割れて、ペガサス、シャチホコ、虎、龍などに乗っかって最後に「祭り」を歌う。   お客様に満足してもらって帰ってもらうように、という思いがあり、自分で、作る方と相談しながら、歌いながら自分でやっています。   ラスベガスに何回か行って、これを日本風にして取り入れてやろうと思いました。   お客さんの中に飛び込んでいかないといけないと思っています。    壁を作ってしまっては駄目です。

いろんなものを見て、いろんなものを拾って、いろんなものをいただいて、それに味付けをして出すと又絶対喜んでもらえます。   舞台は私の戦場なんです。 

「祭り」は座長公演の締めくくりで歌われ、NHKの紅白歌合戦でも7回披露されました。 作詞:なかにし礼  作曲:北島三郎   

7回やっていますが、それぞれ違ってきています。  赤組も白組も全員集まって来てくれて歌う、感謝を感じて、今年一年有り難う、来年も頑張ろうね、という意味での「祭り」です。

作詞、作曲で「年輪」、「山」など数々作っていました。   波の音を聞いてもカモメの音を聞いても作曲はできます。  見たもの聞いたものを拾って一つのものに書き上げます。   アメリカはジャズ、フランスにはシャンソンがあり、日本には演歌、それは生活の歌です。   伝わらない歌を一所懸命やっていたのでは誰もいいと言ってくれない。   歌とは何だと言われても難しいですね。  歌は人生の肥やしかもしれない。   だから暗くなってゆく歌は歌いたくない。   慰めてくれたり、励ましてくれたり、元気づけてくれたり、心の支えになってくれるのが、歌かなあ。   84歳になりましたが、いろんな人との出合い、いろんな障害もあるが、道を歩いてきて、このごろは歌わせて貰ってありがたいという気持ちに変わってきた。   ライバルは誰かと聞かれるが、一緒に出た人、これから出てくる人たちはみんなライバルで、先輩は尊敬です。      思い出やら今迄の生き様を、戻れない人達のために、歩いてきた道にいろんな足跡があるだろうと、そんな思い出を思い出させてあげる歌必要だろうと、そういう歌を歌ってあげようと思います。   

今歌いたいという思いは、よぼよぼした身体で体調がよくないのにお客さんに迷惑を掛けちゃうなあという事は凄く感じることで、プロとしては恥ずかしい事ですが、でも座っても倒れても歌わなければならないのがプロかもしれない。   体調が悪いと思いながらも舞台に上がる事で生かされるわけです。   戦いがまだ出来るうちは何を歌いたいというよりも、この人達に喜んでもらえる歌を歌いたい。   こんにち思うには歌わせてもらえるんだという気持ちに変わってきています。   生かされているので、何かお役に立てることをしたいが、歌しかないので、歌を通じてみんなが元気になってもらえる、土の匂いのする歌、潮の匂いのする歌、ネオンが重なる歌とか、そういった歌を歌っていくのが自分の使命だと思っています。  お客様にかついでもらってこんにちまで来ているので、終わりまで頑張りぬかなければいけないのかと思っています。

2021年3月2日火曜日

北島三郎(歌手)            ・「歌の道」を歩み続けて(1) 

北島三郎(歌手)            ・「歌の道」を歩み続けて(1) 

昭和11年生まれ、84歳、昭和37年にデビューして以来、「まつり」、「風雪流れ旅」、「与作」、「函館の人」など数多くのヒット曲を世に出し、NHK紅白歌合戦のステージには特別出演を含めて51回立たれています。   故郷は北海道の南西部津軽海峡に面した人口4000人ほどの町、知内町です。  北島さんは小さいころから歌が好きで、函館の高校に通っていた時にはのど自慢にも出場、歌手を夢見て上京してからは下積みの生活も長く続きました。   そんな北島さんの歩みを振り返るインタビューです。

NHKホールは3000人程度あり、椅子、壁、ライトもみんな俺の歌を聞いたのかなと思っています。   紅白を出してもらった頃は大先輩がいっぱいいました。  始めて「トリ」を務めることになり、出ようとしたら「頑張って」、という声が聞こえました、美空ひばりさんの声でした。  「大トリ」が美空ひばりさんでした。  映像と歌声がすごかった、流石だと思いました。   オーラというか芸の凄さを感じ、感動させられる歌を歌わなくてはいけないと思いました。    紅白は来年への橋渡しの番組だと思いました。

知内町は生まれ故郷です。  漁師の息子として生まれイカ干しとか、畑いろんなことをしました。   生まれたときから芸事が好きでした。   流行歌が好きで聞いていました。   高校へ行った頃「のど自慢に出ろ」って友達が言って、出たときに司会が宮田輝さんで、「いい声をしてるね」と褒めてくれて、俺も歌手になれるのではないかという気持ちになりました。   東京に行こうと思ったが、長男なので親に反対されると思って、一週間ほど東京に遊びに行ってもいいかと言う事で、東京に出てきて東京声専音楽学校に入学、親に反対されたが本科を卒業すると小学校の音楽の先生になれるから、と嘘をついて説得しました。  おやじから言われた言葉が「俺も漁師は好きではなかった」といったことを今でも覚えています。    昭和30年3月青函連絡船で函館を出発しましたが、おやじが一人で涙を浮かべて送ってくれました。   知内町から函館まで約1時間半、函館から青森まで4時間、青森から東京まで20時間かかりました。(今は4時間でついてしまう。)  遠かったからよかった、近くだったらすぐ帰ってしまったと思う。

歌手募集の新聞広告を見て、行って歌ったら採用という事になりましたが、実は「流し」で、一日300円という事でした。  民謡から、軍歌から、校歌から、歌を覚えて勉強しました。     お客さんとのキャッチボールという事で6年やってきました。    「流し」で一番いやだったのが、或る時「大野」と呼ぶ声がありずーっとついてきました。  案の定、同級生で「歌手になると思っていたが、流しかよ」という一言でした。   修行中だという事で別れたが、両親が流しをやっていると聞いたらどうしようと思ったら、ばれてしまって、帰って来いという手紙を受け取りました。   焦りもありましたが、大晦日に明治神宮にお参りして、「どうぞ歌手にしてください」とお祈りしました。      ギターを弾く相方が体調を崩して、一人でやるようになり、或る時「さっきからあんたの来るのを待っていたんだ」と言っていきなり1000円をくれました。  翌日その人と合う事になり一緒についてきた人が作曲家、船村徹さんでした。  これを契機に船村門下となり、レッスンの日々となりましたが、レッスン料が5000円で大変でしたが頑張りました。  

スケート場に連れていかれて、10代から20代の人たちがいっぱいいて、「俺たちが何十年か前に置いてきた匂いがいっぱいある、この道を歩いてゆくにはそういうものをなくしちゃダメなんだ、たまに、置いてきたものを貰いに行くんだ」と言ってくださいました。    なるほどなと思いました。    音楽に関しては、得意なところはいいと、得意ではないところをしっかり歌えと、言われました。    「悲しい寂しい歌を辛さをこらえて笑って歌えと、悲しさが倍悲しく聞こえる」と言われました。   

船村さんから譜面を渡され、最初のヒット曲となったのが『なみだ船』だった。

この歌は誰が歌っても俺でなければ歌えないという信念を持つんです、そうして歌います。   普段は浪曲か、民謡か、あとはジャズを聴きます。  ジャズは自分にないもので、リズム、黒人の歌の中にはなんか生活もあります。  ジャズも歌います。   演歌も叫びですよね。  

素人の人でいい歌を歌う人がいて、アマチュアの方から教わることもあります。








2021年3月1日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】樋口一葉

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】樋口一葉 

「たけくらべ」、「にごりえ」の小説などで名高い樋口一葉は、24歳6か月で肺結核のために亡くなりました。  

「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ。」   樋口一葉

日記が随分残されていて、日記の中の言葉も紹介しようと思っています。

明治5年生まれ、夏目漱石が5歳の時に生まれたことになります。  樋口一葉の父親の上司が夏目漱石の父親だったことがある。   夏目漱石の兄と樋口一葉の縁談話が持ち上がったこともある。  そうなると樋口一葉の人生も随分違っていたと思われる。   樋口一葉は、24歳6か月で1896年に亡くなるが、同年に宮沢賢治が生まれています。

「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ。」 これは「にごりえ」の小説の一節。  自身の気持ちに近いと思います。

『どうぞお下りなすって、もう引くのが厭やに成ったので御座ります、もうどうでも厭に成ったのです。  何が楽しみに轅棒(かじぼう)をにぎって何が望みに牛馬の真似をする、銭を貰へたら嬉しいか、酒が呑まれたら愉快になるか、考えれば何も彼も悉皆(しっかい)厭で、お客様を乗せようが空車からの時だろうが嫌やとなると用捨なく嫌に成りまする』 「十三夜」の一節   

自分のやっていることが嫌で嫌で、という事はいろいろあると思います。  仕事もいくら厭になっても辞められない場合もある。 もう嫌だ、車を引きたくない、もう降りてくれと言いたくなることはあると思うんです。  自分のこれまでの人生を振りかえった時に、「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ。」という事になると思います。  私(頭木)も自分の人生を振り返って、一度しかない人生が難病で、これが自分の人生なのか、これしかないのかと思うと本当に嫌でした。

「女の踏むべき道、ふまばやと願へども成り難く、さはとておの子の行く道、まして伺いしるべきにしもあらずかし」        樋口一葉 日記の中の言葉     

女性の進むべき道を進むのも難しく、かと言って男性の進むべき道を進むのも難しい、女性はこう進むべきという道を進めなかった。 樋口一葉は自分で小説を書いて稼ごうとしたが、これもまた難しい。  生きづらい事になる。  社会は男性社会であると同時に健常者社会でもある。  病人にも生きにくい。  自分たちのために作られていない社会で生きる辛さはわかる気がします。

樋口一葉は小学校の途中で辞めている。   小学校の成績が良くて主席になる。 勉強ができたのでかえって母親が心配した。  女の子が学問をするのが将来のためによくないという思いだった。  父親は学校を辞めさせるのには反対する。   樋口一葉は問われるが何も言えなくて小学校を辞めることになる。   樋口一葉は死ぬほど悲しかったと書いている。  父親が知り合いを辿って、和歌を教えてくれる歌塾「萩の舎」(はぎのや)に樋口一葉は入門するが門人が1000人以上いて、上流階級が多くて肩身の狭い思いをするが、発会の歌会で一葉は最高点を取っている、才能を発揮して、のちに塾の後継者という話もあり、女学校の教員にも推薦してもらえることにもなる。   両方ともうまくいかなかった。   兄が結核で亡くなり、父親も事業に失敗して病気になってなくなってしまう。  17歳で母親と妹を養っていかなくてはいけなくなる。   学歴もない女性としては厳しく暮らしむきが厳しくなってゆく。   婚約者がいたが、言い訳をして逃げてしまう。  学歴もなく、女性だと働ける場所も凄く限られてしまう。  借金をしながらの生活が続いてしまう。

「ぜひの目印あらざらん世になお漂う身とかし、寄せかえる波は高し、わが身はか弱し」                          樋口一葉 日記より

小説を書いて収入を得ようとした。  

私(頭木弘樹)も収入を得ようとして考えたが、ベッドで原稿かくことしかなかった。

樋口一葉は小説では収入が得られなくて、借金であら物、雑貨店を吉原遊郭の近くに開く。   そこで見聞きする女性たちを描いたのが「たけくらべ」で、ここに住んで樋口一葉の作風は大きく変化する。   店もうまくいかずに引越しをする。  引っ越し先は隣がお酒を売る店だが、実際には売春している店で、女性たちは吉原よりもさらに虐げられて辛い暮らしをしている。   樋口一葉は女性たちが客寄せのために出す恋文の代筆をする。    そして「にごりえ」という名作が生まれる。  

歌塾「萩の舎」(はぎのや)での上流女性から辛い生活をする女性まで知ることになる。   苦しみを描くことこそ大事だと思います。

「菜根譚」のなかに 「清いものは常に穢れたものの中から生まれいで、光り輝くものは常に暗闇の中から生まれでる」   樋口一葉の小説もまさにそういうものだと思います。

『利欲にはしれる浮(うき)よの人、あさましく、厭(いと)はしく、これ故(ゆえ)にかく狂へるかと見れば、金銀はほとんど塵芥(ちりあくた)の様(よう)にぞ覚えし。』   樋口一葉の日記より     

このころ自叙伝を書こうとして、子供のころ思っていたこと。   5000円札に樋口一葉が描かれている。

「われは誠に窮鳥のとびいるべき懐なくして、宇宙の間にさまよう身にはべる。」

助けが欲しい時に、もう助けを求める先さえないという事はきついですね。

「秋の夕暮ならねど思ふことある身には、見る物聞ものはらわたを絶たぬはなく、ともすれば身をさへあらぬさまにもなさまほしけれど、親はらからなどの上を思い初れば、我が身一つにてはあらざりけりと思ひもかへしつべし。」」  樋口一葉の日記より 

自殺をしたいという気持ちがここに現れている。

『、、、たはやすきものはひとの世にしてあなどるまじきも此人のよ成り 其こゑの大ひなる時は千里にひひきひくきときは隣だも猶しらさるか如し』   樋口一葉の日記より    (聞き取りにくく正しく記載されていないかもしれません)

『たけくらべ』が一括掲載されると、森鷗外幸田露伴は同人誌『めさまし草』で一葉を高く評価、世間で認められた。  しかし、素直には喜べなかった。

世の中はこんなふうに簡単にこのように有名になって、たやすいところがあるけれども、一方で世の中は非常に恐ろしいものであって、自分の声が広く世の中に届くこともあれば、本当に困っている時には隣の家の人さえ助けを求める声が届かない、という意味です。

樋口一葉が代表作を次々に書いたが、それはたった14か月の間だった。           「患って知る病人の味、かくばかりいやなものとは知らざりき。」              樋口一葉の様な人でも病気がこれほど嫌なものとは、病気になって初めて判る。

樋口一葉は本当は小説ではなく歌の道に進みたかった。   

小学校の時の樋口一葉の和歌  樋口一葉の人生の全体を表している様である。       (筆の命毛→命毛は筆の穂先にもなるし、芯ともなる毛のこと。)

「細けれど人の杖とも柱とも思われにけり筆の命毛」    樋口一葉