2021年5月5日水曜日

串田和美(演出家)           ・僕が芝居を続ける理由

 串田和美(演出家)           ・僕が芝居を続ける理由

1942年東京生まれ、日本大学芸術学部演劇学科中退、1965年俳優座養成所を卒業し劇団文学座入団、1966年佐藤信さん斎藤憐さん吉田日出子さんらと共に自由劇場を結成、小劇団活動を始めました。   代表作に1977年上海バンスキング』、『もっと泣いてよフラッパー』などがあります。  その後1985年にBunkamura中劇場「シアターコクーン芸術監督に就任、シェークスピア劇や歌舞伎の上演など数々の新機軸を打ち出します。   1996年シアターコクーン芸術監督を辞任すると同時に、オンシアター自由劇場も解散、現在は長野県のまつもと市民芸術館の総監督として劇場の芸術面だけでなく、運営面にも采配を振るっています。   これまでに2007年、第14回読売演劇大賞最優秀演出家賞(「東海道四谷怪談 北番 2008年紫綬褒章2013年旭日小綬章受章を受賞されています。  

5月6日が夏祭浪花鑑」の初日でしたが、緊急事態宣言で延びてしまって、心配です。   いろんな対策もしていて、花道はつくれないので花道の有効性がすごくあったんだなあと思います。  客席が盛り上がることが大事ですが、席を空けたり、マスクをしたりして寂しい面があります。  渋谷で歌舞伎をやろうということになったのは中村勘九郎さんとの出会いがありました。   劇場はやっぱり観客があって、観客の居住まいがとっても大切だと思っていて、観客同士の交流が大事なんじゃないかと思って、こういった賑わいの中でお芝居ができたらいいなあと思って、それで「渋谷・コクーン歌舞伎」に携わったわけです。

中村勘九郎さんは小劇場のころにも見に来てくれていました。  「三文オペラ」を見て感激して自分もここでやりたいと言っていました。  第一回の夏祭浪花鑑」の演出をやるようになりました。  歌舞伎の演出をやるようになるとは思ってもみなかったです。  歌舞伎は僕らの概念と違って戸惑いばっかりでした。     一座という何となく懐かしい感覚がありました。  

2歳で疎開して3歳の時の8月6日に広島に原爆が落ちて終戦を迎え、その一年後に帰ってきました。  終戦直後に村芝居みたいなものがあって、むしろで囲まれていて、おにぎりを食べて、みんながげらげら笑っている記憶があって、それが僕のお芝居の原点かなあと思っています。   

初演が1996年で、本当の土を入れて、むしろで囲ってやりました。   土が着物について、乾いて楽屋が土埃で大変なことになってしまいました。 お芝居はすじとか中身だけを見るものではないので、年を経た再演でいろいろ気づくことがあると思います。  だから古典があり、繰り返しやっている中でいろいろ発見があると思います。  再演は大事だなあと気づきました。

子供時代、スタートが敗戦なのでどんどん良くなるという風にしか思っていなかったです。 平等に何もなかった社会の、のどかというか、一緒に手を取り合って生きているというのがぼんやり思っていました。  そういった光景がお芝居の中に盛り込まれています。

父は哲学者・詩人の串田孫一です。  私は長男です。  学校に行くようになると、ほかの家庭とはなんか違うなということが見えてきました。  父親のところにはいろんな詩人だとか集まってきて、いろんな会を開いておしゃべりをしていました。   中学の時に新入生歓迎の会があり、「うりこひめとあまのじゃく」というお芝居をやっていて、後ろから上級生がやじをとばしていて、いい役をもらえずヤジを飛ばしていたようでした。  実はこれもお芝居で二重構造のお芝居だったようでした。  面白いなあと思っていましたが、後でわかったんですが、うりこひめをやっていたのが長山 藍子さんでした。  後ろからヤジを飛ばしていったのが山本圭さんでした。  演劇の顧問の先生から声をかけられて、演劇の道に入ってそれから60年ぐらいになります。   父の影響でいろんな山にも登りました。  美術部にも入って勉強以外は何でもやりました。  

日本大学芸術学部演劇学科に入学しました。  入ったがあまり面白くもなく、高校の先輩の斎藤憐さんとお芝居を作ったりしていて、俳優座養成所を受けたら受かって、中退して3年間通いました。  その後佐藤信さん斎藤憐さん吉田日出子さんらと共に自由劇場を結成しました。  もう少し力をつけようということで吉田日出子さんらと文学座のほうに入りました。    1年後に劇団を作るということになって、劇場も作ろうということになり、探して六本木地下にある部屋を大変な借金をして劇場にしました。  地下にあったのでアンダーグラウンド自由劇場」という名前にしました。  その後「アングラ」という言葉が生まれました。 中には過激なものもありました。  そういったことで1975年、正式に「オンシアター自由劇場」に劇団名を改めました。  

物質的にも金銭的にも恵まれるようになったのに、一番大事なものってなんだろうと思った時に、地方ということがポッと頭に浮かんで、松本で芸術館を作るという話が来て、引き受けることになりました。  反対運動などもあり話し合いながら進めていきました。   なぜ反対するのかといことをよく聞いて、反対する人たちも大切だなあとその時思いました。   もう20年になりますが、今年の春から総監督ということで、市の文化行政にも関わるようになりましたが、後2年で区切りをつけ次の人にバトンタッチしたいと思っています。

権威というものに違和感を感じる、権威的にはなるまいと思っています。  巨匠にはなりたくなくて一緒にぐちゃぐちゃになってやっていきたいと思っていて、歌舞伎も江戸時代の河原乞食からやっと脱出して国宝みたいな人になってゆくんですが、河原でやっていた時の何かを失っているような気がして、演劇も立派になってきたけど、なんか大事なものを忘れているなあというように、それが一番自分に言い聞かしていることというか。  

来年80歳になりますが、びっくりしてます。   だんだんやることがなくなるかなと思ったら、逆なんですね。  松本のフェスティバルをやろうと考えていて、ほかにもあれもやろう、これもっやろうと、それが元気の元だと思います。