内堀タケシ(写真家) ・故郷に帰れない子どもたちに
1955年東京生まれ、日常をテーマに世界を取材し、カメラに収めています。 2001年からはアフガニスタンの子供たちを撮影して、写真展を開いたりアフガニスタンの子供たちにランドセルを送る活動を取材したりしています。 この活動は「ランドセルは海を越えて」
という写真絵本になり、小学4年生の国語の教科書にも取り上げられました。 又東日本大震災の後、東北の子供たちとも交流を深めカメラに収め続けています。
東日本大震災以来、バイクに乗ってたびたび福島に訪れています。 最初のころは石巻とか津波のひどかったところへ食べ物とか、水とかを持って行っていましたが、原発の被害のひどかった福島に行くようになりました。 写真絵本福島2011年3月11日から変わった暮らし、写真と文章も書きました。 きっかけになったのが、2013年に福島の二本松の小学校で開いた写真コンテストで4,5,6年生を対象に出向いて行ってやっていました。 校庭に咲いた桜の木があり、その桜の木の放射線量が高いので全部その木を切って、校庭に埋めてしまうという事をしました。 小学5年生の達也君が撮った写真と文章が絵本の中にも載ってます。 彼は今19歳で大学生になっています。 彼に来てもらって校庭で切り株らしき所で写真を撮りました。 放射能の問題は複雑ですごく深いから真正面からこの問題に向かえないと彼は言いました。 当時放射能の線量計を首にかけて登下校していたことは、僕も知らないことだったのでおどろきました。 今は二本松小学校は普通の暮らしになっています。
同じ小学校5年生の根上さわやさんの写真と文章もこの絵本に載っています。 「外を見ている犬」という題名になっています。 半分開いた障子から放射能で外に出られない犬の後姿を撮っている写真。 散歩に行けない寂しそうな感じが伝わってきます。 10年たった今も心の中にいろんな複雑な思いがあり、友達ともばらばらになってしまった。
アフガニスタンに行って写真を撮っていて、大震災の前にも福島でも展示してよく行っていました。 大震災の4か月後ぐらいにある先生から呼ばれて、アフガニスタンの話をしてくれるように要請されました。 アフガニスタンの難民の話なども、自分のことのようにわかると先生に言われました。 写真を持って行って親身になって聞いてくれたのを覚えています。 ほかの町でも話の要請があり出かけました。 写真を選んでもらってなんでその写真を選んだのかを聞いて、それを話すとみんなが共有出来て、僕が難民キャンプのエピソードなどを話すわけです。 僕が吃驚するような反応もします。
僕が難民キャンプに行ったときに、目の前で亡くなってしまう赤ちゃんを見ました。 医師になんでこの子を助けられないのか聞いたら、僕は食糧支援のために来たわけではなくて医療に来ている、お腹を空かしている人は治せない、出来ることとできないことがあるといわれました。 写真を撮って人に伝えるべきだといわれました。 それで子供たちに伝えるようになりました。
福島でも僕はほとんど何もできなくて、写真を撮って伝える事しか出来なくてもどかしさは感じます。 着の身着のままで逃げて、ようやく帰ってきても周り家の人は帰ってこなくて、或る意味戦争の難民に似ているような気がします。
最初にアフガニスタンに行ったのが2001年です。 2001年9月11日にツインタワービルに旅客機が突っ込んで、アメリカが空爆を開始しました。 チャリティーでの資金で教育援助という事で、行けそうもないような状況の中アフガニスタンに行くことになりました。 吃驚したのは空爆で瓦礫になった街の中で子供たちが凧揚げをしているんです。 暮らしぶりや子供たちの写真を撮るようになりました。
日本から使えなくなったランドセルを送る運動も始めました。 20年になるので20回ぐらい行っています。 戦闘は毎日のようにやっているので、アメリカ軍が撤退したらどうなるのか、という思いはあります。 タリバンと現政府がうまくいく場合もあるので、期待もしています。 環境が悪くて体調を崩すことがよくあって、行くことは嫌なんですが、行くともの凄く強いハグをしてくれて、「元気だったか」といわれると涙がでてきます。 生きてるということが実感できます。 子供たちは目がキラキラしていて生き生きと写ります。 つらい環境にいると人間って生のほうに向かうすごい力が出るので、逆に生き生きしている。 日本は平和で豊かなのに、日本の子供を撮る時のほうが難しいという事があります。