2020年3月28日土曜日

木野花(女優・演出家)          ・「自分を変えたい 芝居の世界で半世紀」

木野花(女優・演出家)        ・「自分を変えたい 芝居の世界で半世紀」
木野花さんは青森県出身、幼少期は青森市や陸奥の横浜町で過ごされました。
弘前大学教育学美術学科を卒業して中学校の美術の教諭になりますが、一年で退職、上京して演劇の世界に入りました。
1974年に女性だけの劇団「青い鳥」を結成、翌年旗揚げ公演をして80年代の小劇場ブームの中で活躍されました。
1986年には劇団を退団されて、以降は女優、演出家として舞台、映画、TVドラマ、コマーシャルなど幅広い分野で活躍されているほか、若い俳優さんたちの育成などにも取り組んでいます。

毎日1時間ぐらいストレットとか筋トレをやっています。
舞台は体力が必要で訓練しています。
NHKの連続TV小説「あまちゃん」の長内かつ枝役(メガネ会計ばばあ)」に出てからのまわりの反応はちょっと半端ではなかったです。
映画「愛しのアイリーン」(2018年9月)キネマ旬報ベスト・テン 助演女優賞受賞。
ハードな映画で、夏は熱中症、冬はインフルエンザにかかりながらふらふらで撮っていました。
息子を溺愛する保守的な母親役でした。
子どもの頃転校が多くて、虐められましたが気が強くて倍返ししていました。
東京に出てきて凄く不器用な人間だという事が判りました。
物心ついてからひねくれて、中学、高校の頃生きているのがむなしいような時期がありました。
引っ込みがちになって行きました。
家で本を読んだりしていて、絵をかくことは一人で好きな時に絵をかくことができ楽で、美術をやり始めました。

大学時代は家から離れたとたんに解放されて気が楽になりました。
教職に就いたのは全く異次元の世界でした。
職員室が一つの社会で、男尊女卑でお茶を出すことも器用に出来ず、失言が多かったです。
このままやって行けるのか考えてしまい、ストレスが重なっていきました。
2か月を過ぎていろいろと体調が悪くなっていって、病院に行ったらストレスだと言われました。
環境を変えるのが一番だと言われて、辞めようと思ったら何かスーッとしました。
自分を変えようと思いました。
たまたま演劇の特集をしていた雑誌があって、アングラの世界でもまれたら相当に強くなるのではないかと思って、自分を鍛えようと思い養成所に履歴書を出していました。
津軽弁なので東京に来ても1か月は何も言えなかったです。
目標は早く自分を変えて青森に帰る事でした。
朝から晩まで働いて、演劇のレッスンもして3年で帰ろうと思っていました。
ふっと周りを見るとみんな演劇を楽しんでいるんです。
やっているうちに健康になって行って、みんなとも話を積極的にやって、人にまみれていきました。

1974年劇団「青い鳥」を5人の女性だけで立ち上げました。
自分を難しい方へと苦労させようとしていました。
役者だけなので台本を書くとか演出とか、すべて自分たちでやる事になりテーマ、ストーリー、役など話し合っていきました。
台本、演出もなんとなくやるようになりました。(1980年代)
55歳まではまだいつかやめてなんかの職に就こうかと思って役者をやっていました。
55歳過ぎてそんな都合のいい仕事はないと言われて、芝居しかないんだよと言われて、変わってきているのに、自分には満足していませんでした。
どこへ向かうのかなと考えたときに、自分を変えるのに期限はないなと思ったんです。
これが私の仕事だと思って自分に言い聞かせて、役者の仕事に向き合う様になったのは55歳からです。
青森の人は割としつこくてとことん行こうと言う事と頑固さはあると思います。
今、目標は置かないことにしています。
今という時間、一瞬一瞬だと思って、目一杯その時間を悔いのない様に生きていったら、どこにたどり着けるのか、どういう人間に自分はなって終わるのかなあという感じで、一日一日を大事にして一年一年を積み重ねていくという感じで、楽しみに生きていこうと思っています。