2020年3月31日火曜日

〔「ラジオ深夜便」30周年特集〕

〔「ラジオ深夜便」30周年特集〕アンカー大集合
後藤繁榮アンカー:2014年4月から担当。
「ラジオ深夜便」を担当してくれと言われた時には本当に跳びあがって喜びました。
50歳ぐらいからいつか「ラジオ深夜便」を担当したいと思っていました。
或る人が会場に行くのを楽しみにしていたが、安心感からいつの間にか眠ってしまったという事でしたが、こういう仲間たちが一緒に時間を共有しているんだという、時空を越えた番組だと実感を持ったという話を聞きましたが、こういう番組なら是非やらしてもらいたいと思いました。

高橋淳之アンカー:2011年8月から担当。 アンカーの中に同期が5人います。
夜がめっぽう弱い、アウェイ感があります。
リスナーとアンカーがしっかり作り上げてきた世界がしっかりあるような気がします。

二宮 正博アンカーからのメッセージ:自分が企画立案し番組を制作できる「ラジオ深夜便」は大袈裟に言えば生き甲斐を与えてくれると思います。
取り上げてきた企画は「サイエンスは今」という30分ほどのインタビュー番組です。
様々な先端技術を判り易く伝えようとするものでした。
その道の専門家に話を聞いた方が手っ取り早いと思ったのも、その動機の一つでもありました。
この企画は自己満足だったのかなあとも思いました。
今年度で終わります。

徳田章アンカー:2010年4月からと2016年4月から2度にわたって出演しました。
インタビューで唯一亡くなったのがペギー葉山さんでした。
「夜明けメロディー」「思い出の岬」に2曲を歌っていただきました。
「ドレミの歌」はどうしてできたのかとか話を聞きました。

村上里和アンカー:2014年7月から担当しています。
40代の後半から担当していて命、生きることに深く考えるようになりました。
明日はかならず来ると思っていましたが、明日が来るとは限らない、どう生きてゆくか、どう死んで行くかといったことを考えるようになりました。
リスナーからいろいろ手紙を頂き、どう生きてゆくか、どう死んで行くかといったことを人間だれしも考えなくてはいけないんだなあという事をひしひしと感じるようになりました。
思いがけない言葉が急に聞こえたりして力が湧いてきたりします。

中村博アンカーからのメッセージ:アンカーになって丸10年、自分で製作したインタビューは199本、191人になりました。
子どものころからのあこがれの大村崑さんに会うことができました。
会う前に電話でどんな話が聞きたいのか、とか 再放送の際はお礼の電話がありました。
メールで済ましてしまう事が多くなってきた中で、人間は声と声で話すことで気持ちが通じるものですとおっしゃいました。

住田紘一アンカーからのメッセージ:元NHKアナウンサーの山口岩夫さん(当時96歳)の言葉が一番印象に残っています。太平洋戦争末期には大阪放送で連日空襲警報を伝える勤務についていました。
「戦争って詰まんないですよ。 何か色々戦争の意味とか大義名分を作るようですが、やっぱりやっては駄目です。戦争で解決するというのは愚かですねえ」とおっしゃいました。
二人の兄さんを亡くして悲しみを背負って生きてきたんだと感じました。

迎康子アンカー:2006年6月から担当。 14年になります。 日本列島全部が大家族「深夜便」ファミリーみたいな感覚でお便りが来るのを温かく思っています。
或る中学生からの便りがあり高校、大学、そして社会人になりましたという便りで月日の経つのは早いなあと思い、これからも見守ってゆく、そういったものが「深夜便」かなあと思っています。

石澤典夫アンカー:2009年10月からの担当。 11年目に入ろうとしています。
ラジオはパーソナルなメディアだと思っています。
いろんな人々がそれぞれの生活時間に合わせて聴いています。
毎回全国からたくさんのお葉書を頂きます。
番組の最後に「二度と来ない今日という一日をどうぞ大切にお過ごしください」という風に申しあげるんですが、元気が出たとか、もうちょっと頑張って見ようと思っているから今から計画を立てますとかいろんな言葉を頂きます。
一言一句おろそかにはできないんだなあと意識しながらやっています。

桜井洋子アンカー:1975年にNHKに入りました。
2016年4月から担当しました。
深夜便の集いはリスナーの方と直接会えるのが楽しみですが、陸前高田市にお邪魔した時、平成16年の秋でたんぼ、海などいろんなところへお邪魔してインタビューしました。
2011年の大震災の時にTVから流れてくる映像に冷静に見ることができませんでした。
電話して声が聞こえなかったらどうしようと思って、電話できなかったんです。
大震災から5年経って電話を掛けたら「もしもし」という電話の声が聞こえたんです。
その時に全身から力が抜けてしばらく声が出ませんでした。
集いの時には会場に来てくださって無事を喜び合いました。

須磨佳津江アンカー:2003年5月からです。 最初はピンチヒッターで入りました。
17年になります。 スタジオではリスナーだと思って凄く楽しんでいます。
自然に流れて行くんだんあと思って、それがそれぞれ違うから個性となって喜んでいらっしゃるんだなあと思ったのが最初でした。
色々なハガキを頂きリスナーの方ってつくづく良い方だなあと思います。
人は繋がりたいんだなあ、繋がって安心して夜を過ごせるんだなあとつくづく思います。
妻の手と流されないように木はつかんだが、自分の前でおばあちゃんが流されていくのを見て、しばらくは話すことができなかったが、時を経て話さなければいけないと思うようになったと言っていました。
深夜便は一方通行のようですが、繋がっていてそれで力を持ててる人がいて下さるのなら嬉しいと思っています。

遠藤ふき子アンカー:1993年10月から26年半担当。
あっという間でした。 当時私は最年少でした。
最初早口で聞き取れないと不評で落ち込みました。
企画、出演交渉、編集まで全部やって、やっているうちに母親の介護の事が出てきて、悩んでいるときに色々励ましてくださった方々がいてリスナーに救われました。
ラジオは生放送なので矢張りチームワークだなあと思います。
チームに支えられて、あっという間に26年間過ごしてきたなあと思います。
「母を語る」も24年間続いています。
自分自身の悩みの中から生まれてきました。
午前2時に寝て朝10時に起きて、睡眠はしっかりとります。

*入れ替わり立ち代わりでまとめが難しい、うまく伝えられなかったと思います。