2024年2月4日日曜日

田中亮一(声優)            ・時代を創った声

田中亮一(声優)            ・時代を創った声 

アニメ「デビルマン」の主役不動明と変身したデビルマンの声、「キン肉マン」のウォーズマン、「ドラえもん」の先生などを演じてきました。 数多くのナレーションや吹き替えなどでも活躍しています。 アニメで最初に出演ししたのが1970年の「赤き血のイレブン」の主役でした。 高校サッカーを題材にしたもの。 アニメの作品を担当するようになって今年で55年目。 

劇団芸協に入って、高校生とか子供の声を出せる声でした。 そこで「夕やけ番町」などでもいい役を使ってもらったりしました。  「赤き血のイレブン」で主役に受かってしまいやることになりました。 当時は声優で主役を貰ってもそんな程度かと言うような感じでした。(プレッシャーがない。) 

東京都出身。 小さいころは消極的でした。 小学校3年の時に学芸会をやることになりました。 その時には自ら手を上げました。 3年生の3学期に杉並から府中に引っ越しました。  周りは田んぼとか畠ばっかりでした。 小学校で演劇部に入りました。 中学は府中で、高校は八王子に行きましたが、勉強をしなくなりました。  多摩芸術学院の演劇科しか受からなかった。(3年間の俳優養成学校) 不安はありました。 劇団を受けたが落ちてしまいました。  先輩から劇団芸協に来ないかと言われて入りました。 

1962年に「ドラゴンシリーズ」の長老などを演じてきたあずさ欣平さんが設立した劇団です。 青野武さん、雨森雅司さん、宮内幸平さん等がいました。 アテレコでお金を稼いで芝居につぎ込むという事をやっていました。 外国映画の吹き替えが沢山あった時代でした。(30本/月 やりました。)  僕が今ここにあるのはあずさ欣平さんのお陰です。  全てあずさ欣平さんから教わりました。  周りには理不尽なことを言う人達がいて、それで成長しました。 アテレコで一番面白いのは、外国映画の吹き替えですね。 「デビルマン」のキャラクターは面白いですね。 役にピタッとはまらない場合があり、「タイガーマスク」の二枚目はなかなかできないですね。  

そのうち仕事の量が減って来て、劇団が子供の芝居で旅に行く事になりました。(レギュラーも何にもない時期で5、6年続く。)  旅のなかでは苦労しました。(役者として成長したと思います。) 毎日同じことをやっているが同じではない。 芝居自体がだんだん良くなってきます。  大人の声が上手くは出せなくて、大人の声を出せるようになったのは36,7歳ぐらいからです。  BSでドキュメンタリーをやるようになりました。 淡々としゃべることも旅の公演で身についてました。 ボイスオーバー(画面に現れない話者の声、ナレーター(語り手による叙述など)を用いる表現手法)の仕事がどんどん入って来ました。 「ドラえもん」「デスマスク」(今でもやっている。)などをやるようになりました。 

若いうちは起きているうちに練習をして覚えて、寝て朝起きるとセリフは入っていますが、歳を食ってくると覚えて寝たら、朝は入っていないんです。 とにかくやるよりしょうがない。 或る程度実力がついて来ると、本番でセリフをわすれて、違う事をしゃべっても、お客さんはついて来るんですね。  声優になりたいという人は一杯いるが、基本的には舞台だと思うんですが。  身体全体で表現すると出てくるセリフ(重み)が違うんです。 古典の本(森鴎外、夏目漱石とか)読んで欲しい。 自分が夢中なれるものを見つけてやるという事は精神衛生上いいんだと思います。













2024年2月3日土曜日

大塚善章(関西ジャズ協会会長)     ・僕は大阪・天王寺育ちのジャズメン

 大塚善章(関西ジャズ協会会長)     ・僕は大阪・天王寺育ちのジャズメン(初回:2021/11/05)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2022/11/blog-post_5.htmlをご覧ください。

2024年2月2日金曜日

星野玲子(主婦)            ・『幻肢痛』と向き合って

 星野玲子(主婦)            ・『幻肢痛』と向き合って

NHK障害福祉賞は障害のある人やその家族が綴った優れた体験記に送られるもので、星野さんは長年に渡る体験実績記録に対して贈られる矢野賞に輝きました。 星野さんは東京都在住の71歳、中学1年の夏、骨肉腫により左足の切断を余儀なくされました。  以来現在までの60年近く失ったはずの左足が激しく痛む『幻肢痛』に悩まされてきました。  しかし多くの出会いや家族を得て、痛みの捉え方が徐々に変化してきたと言います。 

体験記を読んだ友人から反響が届きました。 「初めてあなたの苦労を知った。」、「貴方のしなやかな強さの原点を見た。」と言うような内容です。 タイトルが「『幻肢痛』と付き合って57年」です。 左足の大腿骨の10cmぐらいを残して切断しています。   無いはずの膝とか爪先が痛みます。 ビリビリ痛んだりジクジクするような感じです。  一番ひどい時には雷に打たれたような感じがするときもあります。 切断してから57年になりますが、今もあります。  義足を付けているときよりも付けていない方が痛みの出る頻度が高いんです。  

昭和27年東京都町田市に生まれ、育ちも同じです。 当時は一面田んぼで裏山がありました。 兄、姉がいて妹が二人の5人兄弟です。 父は建設業をしていて、母は専業主婦です。  小学校6年生の秋の運動会に向けて練習をしていた時に左足に違和感を感じました。 その後痛みになり徐々に痛みが強くなってきました。 保健の先生に訴えたらすぐに大きな病院に行くように言われました。 国立相模原病院で「骨肉腫」と言う診断を受けました。 即刻入院となり、患部を切除する手術を受けました。 (放射線治療も受けて髪の毛が抜けてしまいましたが自分で処理していました。) 母は切断にはすごく反対したらしいです。 切断したのは中学1年の夏でした。  悲しみは大きかったです。 

体験記は切断の日から始まっています。 「・・・骨肉腫と言う病魔に侵された私は左足の大腿部より切断手術を受けなければ、がんが全身に転移し命の危険があると診断された為である。・・・それから何時間経ったのだろうか。 ・・・ ぼんやりした意識の中で聞こえてきたのは蝉しぐれだった。・・・意識がしっかりしてくると左足があることに気付いた。何という事だろう。 私はっ切断されたはずの左足の感覚をはっきりと感じたのだ。」

「幻肢感覚」自分の足が存在していると思うような感覚。 

「医師に何とか痛みを取り除けないかと訴えたが、明確な答えを貰う事が出来なかった。」

我慢するしかなかった。 義足を付けることになるが付けるだけで大変な思いをしました。身長も伸びる時期なので1年で作り替えなければならなかった。 人目が気になりました。職業訓練所(身体障害者の)に入って仲間が出来た時には解消しました。  母からは手に職(洋裁)を付けた方がいいと言われました。 

「職業訓練所に入ったのは15歳だった。その寮生活で私は様々な人と出会った。なによりも驚いたのはその明るさである。・・・洋子ちゃんとの付き合いはもう55年になる。」洋子ちゃんはアクティブ、行動的な人でした。 私にとって洋子ちゃんの存在は大きかったです。 洋子ちゃんは小児まひで左足がちょっと短くなっていました。 夜自由な時間になると塀を乗り越えてラーメン屋、スナックなどに洋子ちゃんと行きました。(私はに飲めないが、洋子ちゃんは20歳で飲めました。) 自分に対して自信がついて行きました。   

職業訓練所を出た後1年半洋裁店の住み込みで勉強させてもらいました。 厳しい先生で特訓を受けました。 家に戻ってからは近所の人を含めていろんな洋服を縫って行きました。  独り立ちになるのは18歳になる少し前です。  紅白歌合戦に出た方の洋服を縫ったこともあります。 運転免許証も取りました。(遠方にも対処)   結婚して借家住いとなりました。 夫は私が義足だと知ったうえで、付き合おうと言ってくれました。      姑はがんの再発だけは気にしましたが、再発しないという事で了解してもらいました。  妊娠出産に対しては不安が大きかったです。 お腹が大きくなると『幻肢痛』が強くなってきました。 

「オギャーという元気な声が聞こえた。 こんな私でも母親になれたのだ、と思うとお湯のような涙がボロボロと流れた。 10年前も手術台にいたのだと、あの暑い夏の日を思い出した。 私の耳に聞こえてくる赤ちゃんの泣き声は、あの時聞いた東大病院の蝉しぐれと同じくらい私の胸を切なくさせた。  でも10年前の手術台の前で感じた死にたくなるような切なさではなく、私はお母さんになったんだよと、大声で叫びたいような胸が苦しくなるほど嬉しい切なさなのだ。 私は手術台の上で片足を失ったけれど、同じ手術台の上で赤ちゃんを授かった。 失ったものよりも得たものがどれほど大きく大切なものか、自分自身の身体で実感できた。」

二人の子供を授かりました。 長女が1年生になった時に体育の授業参観がありました。 母親が子供を背負って走るという事がありましたが、私にはできませんでした。 長女が悲し気な顔で私を見ました。 でも校長先生におぶされていました。(替わりにやってくれました。)  子供の成長してゆく姿は嬉しかったし、長女の結婚式ではここまで育ってくれたという気持ちが大きかったです。 主人と生活してゆく中で、自分の障害と言うものを段々意識せずに生活できるようになった、それは凄く大きかったです。 主人は穏やかな人です。 

私が38歳の時に、12歳で左足を切断した人の手記を読みました。 「終(つい)の夏かは」という本です。 著者は古越富美恵さん。 切断したあと、乳がんにもなっているんです。 「与えられた病を私はある選民意識を持って甘受してきた。」と言っています。  「乗り越えられる人にしか与えられない運命なのだ。」といった一文を読んだ時に、凄く心が動きました。 「なんで私が・・・」と言う気持ちがありましたが、それからは自分は選ばれた人間なんだと思えるようになりました。 5人兄弟のなかで私が選ばれたのは何かあるんだろうなと思いました。 腑に落ちたと思いました。 

「切断手術から57年経った今でも、『幻肢痛』との付き合いは終わらない。 でも幻の左足があるのが当たり前の生活になった。 今日もないはずの左足のふくらはぎがピクピク動いて、生きていることを私に実感させるのだった。」

『幻肢痛』があることで、自分は生きているんだという風に感じるんです。 

選評で「これほどの付き合いをしている『幻肢』が友と呼ばずに何だろうか。」と書いてくださって、、とっても嬉しかったです。 (東京大学准教授 熊谷晋一郎)         それまで、そんなふうに考えたことがなかったです、「友」なんだと気付かせてもらい心に響きました。 19歳を頭に孫が7人いますが、これから長い人生いろいろ辛いことがあるかもしれませんが、「バアバは今こんなに幸せなっている、何があっても何とかなる。」、という事を孫たちに伝えたくて体験記を書きました。














2024年2月1日木曜日

中垣内祐一(元バレーボール男子全日本監督)・全日本の監督から家業を継ぎ米作りを

中垣内祐一(元バレーボール男子全日本監督)・全日本の監督から家業を継ぎ米作りを 

1967年福井県生まれ、中学生からバレーボールを始め、筑波大学体育専門学部に入学、在学中の1989年に前日本代表に初選出され、その年に開催されたワールドカップに出場します。 大学卒業後は新日鉄に入社、1992年のバルセロナオリンピックに出場、1990年代を代表するスーパーエースとして活躍ししました。 2004年に現役を引退し堺プレイザーズ(現在の新日本製鉄堺プレイザーズ)の監督に就任します。 2016年全日本男子の監督に就任、2021年の東京オリンピックでバルセロナオリンピック以来のベスト8という結果を出しました。  2022年に会社を退社し、故郷の福井県に戻り、家業で米作りを始めます。 地元福井工業大学スポーツ健康科学科の教授として教壇にも立っています。

農業は法人化してやっていますが、江戸時代からずっとやってきた家業です。 日本製鉄に33年勤務しました。 最初は27,8歳で現役を引退して社業に専念してゆくのかなあと思いましたが、50歳半ばまでバレーボールに携わってこれて、幸せでした。 東京オリンピックを指導者として参加するという事は、最終系と言うか、トップレベルからは引退しようと思っていました。 パリまでやって欲しいという声もあり、会社からの要望もありましたが、自分のプランを優先させてもらいました。 

バレーボールを始めたのは中学で、高校時代はほとんどやっていませんでした。 大学で背が高いからバレーボールでもやってみようかと思って始めました。  当時日本がやっていたバレーボールは古い時代を引きずっていて、世界はどんどん変わって行きました。   外国から10年、20年遅れていると言われても、選手としては知る由もなかった。    バレーボールはルールもドラスチックに変わるスポーツだとも言われています。 手だけではなく足でもOKと言う風になってしまった。 サーブ権がなくても点数が入る。(今までで一番大きなルール変更)  選手でやっている方が指導者よりも面白いです。 今となっては勝たなければいけない試合で負けた試合の方がよく覚えています。 

全日本の監督の前にアメリカに指導の勉強に行きました。 私は日本人だという事を学びました。 アメリカはアメリカ人の気質に合った練習をしていて、他の国も同様です。  日本も日本式を求めて行かなくてはいけないと思いました。 技術的な部分は海外から人を呼べば出来るが、その他については日本人がコントロールしてあげないとなかなかうまく行かない。 私が監督となる時には外国人コーチは必須だと思っていました。 アメリカに行った時にはほとんど生活面など全部自分でやりました。(住居探し、その交渉、電気ガス水道使用するための手続き、その他全て) そういったところから学べるものが凄く多かった。 人間として幅の広いものに繋がると思います。 だから選手はどんどん海外に出るべきだと思います。 

私たちの時代は選手が委縮していました。(戦う前からあのチームは強いから勝てない。)今では勝てると本気で思っていてその差は大きいです。  今までも練習中はサーブが入るんですが、試合になると委縮してしまってミスをしてしまう。  兎に角どこどこに打てと指導しました。 パリではメダルを取るというようなレベルに来ています。 全日本の監督時代はある程度ブランコーチに任せていました。  総監督と言うような立場でやっていまました。  このやり方についてはいろんなところからお小言を頂戴しました。(否しかなかった。) 最初は凄く悩みましたが、進めて行きました。 コーチとの関係に慣れるまでには2年ぐらいかかりました。 ブランコーチは選手の育成能力は大したものを持っていると思います。  高橋、西田などはそうですね。 

小さいころは家業の手伝いはしてきました。  40歳を過ぎて余暇にに田植えの手伝いに帰るとかしました。  いずれ戻らなければという気持ちはありました。 本格的に始めて2シーズン目となります。 日本の稲作は大転換期に入っていると思います。 収益が上がらない構造は国も放っておいていると思います。 日本人が食べる量と作れるコメの量との乖離が大きくて厳しい利益構造になっています。  でも解決法を捜してゆく事は楽しい作業ではあると思います。  今ある条件のなかでいかに利益を出してゆくのか、バレーボールに通じるところもあります。  新しい事にもトライしようと思って、うちの米で新しいお酒を作ってもらえるように動きだしました。 大学の教授、バレーボールの仕事もまだあり、町内会長、連合会長とかも今年やります。  色々ありさばききれない状況です。

学生に質問されてわからないこともあり、勉強しないといけないと思いました。     学生に寝られるとショックですね。  忙しいんですが、充実している感じはします。    56歳です。 人生二毛作だと言っています。  今までよりも人に感謝するようになりました。 光の当たるところばっかりにいたような気もしますが、実はそれを支えてくれていた人が多数いてくれたことに、気付いてはいてもあまり感謝してこなかったのかなあと言う反省もあって、感謝をしてゆくことは大事だと思っています。

























2024年1月31日水曜日

吉田義人(ラグビー元日本代表)     ・100年の計は“前へ”~明治大学ラグビー部~

吉田義人(ラグビー元日本代表)     ・100年の計は“前へ”~明治大学ラグビー部~ 

大学ラグビー界の強豪明治大学は今年度創部100年を迎えます。 先日行われた大学選手権の決勝では帝京大に敗れ、100年を優勝で飾ることはできませんでしたが、初代監督を務めた北島忠治さんが掲げた「真っすぐ前へ」と言う明治ラグビーの精神は、今も受け継がれています。 その精神を体現した代表的な選手が元日本代表の吉田義人さん(54歳)、秋田県出身で9歳の時にラグビーを始め、秋田工業時代は花園で全国制覇、明治大学に進んでからも1年生の時からレギュラーに選ばれ、在学中に日本代表入りを果たします。   4年生の時はキャプテンとしてチームを大学日本一に導きました。  その後も日本代表や世界選抜のメンバーとして活躍して、母校明治大学の監督も務め、日本のラグビーの発展に大きく貢献してきました。 現在は7人制ラグビーのクラブチーム「サムライセブン」の監督をしています。 95歳で亡くなるまでの67年間に渡って明治のラグビー部を指導した北島元監督の教えである「真っすぐ前へ」という精神、吉田さんにどんな影響を与えたのか、原点は「真っすぐ前へ」と題して、吉田さんのラグビー人生と共にお話を伺いました。

創部100周年を迎えますが、チームを継続して運営してゆくと言いうのは本当に大変な事です。 歴代の先輩たち、監督、スタッフなどの思いが繋がっているというのは誇らしいことだと思っています。 北島忠治監督に出会えたことは、何にも代えがたいものになりました。 会った時には俺のおじいちゃんだと思いました。  80歳半ばでしたが、70歳ぐらいにしか見えませんでした。 1987年10月6日、雪の早明戦で1年生から試合に臨みました。 朝起きたら雪で真っ白でした。 試合をやることが決まったという事で、嬉しかった。(雪の上で以前は練習をしていたので) 僕のトライが認めてもらえれば10-11で逆転でしたが、認めてもらえず10-7で負けました。 初めて日本代表に入ったのが1年生の終わりの春でした。 

1989年5月に日本はスコットランドと対戦しました。 初トライをして28-24で勝ちました。(歴史的な勝利でした。) 北島監督は選手の長所短所をしっかり見抜いていました。 4年生の時にはキャプテンに選ばれ吃驚しました。 キャプテンになって自分の姿勢を崩す必要はないと思いました。 メンバーを集めた中で、「学生日本一になりたい。」と話しました。(前年は1回戦で負けたチームだった。)  「決めたことの練習をしっかりやろう。」と言いました。 必要なルールをしっかり自分らでやるべきだと決めて実行しました。 朝の起床のベルを1年生がやっていましたが、撤廃しました。(時間の自己管理)

北島監督の「真っすぐ前へ」と言う言葉は、ラグビーのグラウンドでのプレーもありますが、僕は生き方の核となる大事な言葉だと思っています。 社会に出て大きな壁があると思いますが、その壁をどうやって乗り越えてゆくのか、まさしく前に行かないと打ち破れない。  「ゴールまで100%で走れ。」と言われて、大事な言葉だと思っています。(自分との戦いです。)  「自分に甘くなると絶対勝てない。」という事は僕は言っています。 弱い自分に勝った人間だけが、相手に対する挑戦権を貰えると思っています。   大事にしている言葉「矜持」は品位、品格を持ち合わせている人なので、自分をしっかりと抑制して弱い自分に勝った人間だけが、使える言葉だと言われています。 

1991年1月6日早稲田との決勝。 以前の試合でリードしていて78分で勝てるという思いがありました。 結局24-24になってしまった。 足が肉離れで痛めてしまったが、交代する勇気がなかった。 引き分けとなってしまって、その後みんなが自覚して練習をして、決勝では13-11と早稲田が一時逆点しましたが、後半トライを決めて16-13と再逆転して優勝となりました。 勝負には修羅場があり、そこでどれだけの、自分がやってきた誇り,自信とか、力を発揮できるか、自分の魂を表に出してゆく。  戦いにはそれが一番大事だと思っています。 真摯に実直に取り組んで行けるような人を育てたいと思います。


























2024年1月30日火曜日

河合俊雄(心理学者)           ・〔わが心の人〕

河合俊雄(心理学者)             ・〔わが心の人〕

河合隼雄さんは1928年(昭和3年)兵庫県篠山市で生まれました。 河合隼雄さんは日本の心理療法の第一人者でした。 2007年79歳で亡くなるまで心理療法家としての体験を大切にしながら日本人の心や日本の文化を独自の視点で分析し続けました。 2002年からは文化庁長官も務めています。 お話は臨床心理学者で長男の河合俊雄さんです。

父親の研究室の出身なので、父親であると同時に師でもあり、離すのは難しいところです。   2007年79歳で亡くなり17回忌 という事で記念行事とか、河合隼雄を知ってもらう本も出たりしています。  文化庁長官をしていて、当時高松塚古墳の件で過労状態でしたが、セラピーも大事にしていていろんな人と会っていてまして、8月16日の夜に就寝して、その後目を覚まさず脳梗塞で朝緊急入院しました。 家族から見ると健康管理はいい加減なところがあったように見受けました。 

34歳の時にユング研究所に留学、私は4歳でした。(2回目の留学)  数学の先生をしていたが、もっと子供の心を知らなければいけないと勉強しているうちに、心理学を専門にするようになりました。 1959年にフルブライト奨学生としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) へ留学し、クロッパーやJ・M・シュピーゲルマンの指導を受けました。  私が2歳の時にアメリカから戻って来ました。  スイスでは幼稚園が義務教育でした。  大きな環境の変化でした。 母に言わせると子供とよく遊び、ダジャレの名人で5分に一度は笑わせてくれる面白い人だった。 負けず嫌いで、僕と将棋をやっても負けそうになると逃げて行ってしまいました。 大きくなると梅原猛先生の面白い出来事なども、脚色を交えて聞かせてくれました。

スイスから戻って天理大学教授、京都大学教授、注目されてNHKの番組にも沢山出演しました。 ユング心理学、心の悩みの相談とか非常に実践的な心理学です。 心には無意識があるというのを前提にした心理学です。 セラピーの場合でも夢であるとか、絵を描いてもらうとか、箱庭療法と言って、砂箱の中に自由に部屋にあるおもちゃを入れていく手法です。引っ込み思案でおとなしいと思っている人も、実は心の中には積極的なものを持っている。 引っ込み思案の人がパーティーで挨拶しなければいけない時は凄く不安になる。     実は積極的なものがあるんだという事を生かしてゆくことも大事です。 

箱庭療法では、砂の上にいろんな木を受けてみたり、建物を置いてみたりして一つの風景を作ってゆく。 内面にあるものがふっと無意識のうちに出てくる。 学校に行くと喋れない子が箱庭を作ると隅の方だけしか使わない。  セラピーに来ていると段々領域が広がってゆく。 箱庭療法は元々はスイスで出来たもので、河合俊雄はこれは日本人に合うと直感して、スイスから帰ってきた1965年に、箱庭療法を導入して、華道、茶道、日本庭園とか伝統的なものが日本人に合うのではないかという事で、進めて行きました。 日本人のセラピストの作る箱庭療法は木が多いんです。 

どんな夢を見たのかという事を分析することによって、無意識なものが出てくる。 夢はコントロールが出来ない。 思春期に典型的に出てくるのが追いかけられる夢、思春期には自分が出来てくるので、自分は脅かされているとか、他に他人に見られているとか、という意識が出てくるから、追いかけられる夢が出てくる。 心理療法は自分で体験してみないといけない。 自分では全く思ってもいなかった自分に出会うという事にもなる。(怖い部分もある。) クライエント(カウンセリングなど心理療法を受ける人)さんはすでに苦しんでいる。 訓練のために夢を話してゆくとしんどくなって落ち込むことが多い。 

私も受けましたが、吃驚するような出会いもありました。 河合隼雄の夢のことでは、ハンガリーでコインを拾った夢(30代の初期の夢)で、フン族とハンガリーは関係していて、東洋がちょっと入っている。 東洋と西洋が出会うというか、それを自分はやらないといけない、と言う意味を知らせているのではないかなと、分析家との話し合いのなかでなったようです。 そしてそういう事をしてゆくことになります。 

ユングは東洋に関心があった。 自我と自己と言うものがあり、日常は自我を中心として動いているが、心の中心は自己というもので無意識の中にある。  仏教の真我と自己は凄く近いんです。 しかし日本でユング心理学をやる時には、いろいろと変えていかなければいけない。 「昔話と日本人の心」。 河合隼雄は小さいころは西洋物語が好きで、西洋物語は最後は結婚で終わるんですね。 日本の昔話はハッピーエンドで終わらないものが非常に多い。 日本の昔話が大事なモデルを提供してくれると思って、日本の昔話の研究をして書いたのが、「昔話と日本人の心」です。 河合隼雄が言ったのは美的解決、物語のなかで女性が去ってゆくが、結婚が失敗したのではなくて、去ってゆくもののあわれが美しい。 

河合隼雄は話し上手でした。 逆に言うと本当のことをなかなか話さなかった。 日本神話については彼のライフワークで、ユング研究書の資格論文で40歳前で書いています。 手を加えてゆき最後に「神話と日本人の心」の本が出たのは倒れる4年前ぐらいでした。 亡くなってから校正、編集、解説書いたりする仕事が沢山来ました。 読んでみて吃驚しました。 これまで適当に読んでいた気がしました。 彼の知る由もない新しい世の動きとか、新しい心の問題とか、見事に当てはまるというみたいなことがいろいろあって、私には3回目の父との出会いでした。  

河合隼雄財団を作ったり、河合隼雄物語賞、河合隼雄学芸賞、と言った活動もしています。 33回忌までは続けたいと思っています。