2026年7月17日金曜日

春日武彦(精神科医)            ・「自分と折り合いをつけて生きる」

 春日武彦(精神科医)        ・「自分と折り合いをつけて生きる」

春日さんは現在74歳、東京都立松沢病院、精神科部長を経て、東京足立区にある精神科の専門病院、成仁病院の名誉院長として、およそ40年にわたって人間の精神におき合ってます。 その一方で、精神医学や恐怖に関する心理など、人の心の根源的な謎に迫る著書を数多く執筆してます。 春日さんに伺いました。

今の時代の空気は、白黒、せっかちをつきすぎる時代、そのような気がします。 精神が健全である条件は3つあって、自分を客観的に眺めることができるかどうか 適切にSOSを発することができるかどうか。 一体どうなのか、不明瞭な事案と言うものに対して、じっくりと待つことができるかどうか。(白黒がつかない曖昧な状態。こういう風なものに耐えられるかどうか。)

自己肯定感があるかどうかですごく違ってきます。 あるいは成功体験の問題、まじないみたいなことで自分の子持ちを珠洲目る、宗教なども耐える装置として意味は結構大きいのではないかと思います。

「きれいごと抜きの対人援助術」と言う本を出版。 世の中どうにも解決のつけようのない困難なケースっていうのがあります。 そういうのをどういう風にすればいいかと言う風なテーマについて述べています。 白黒つけずに、じっくり立ち向かう、そういう風な方法論というのを書いたつもりです。 みんなで共有する、みんなで話し合って、責任を分散させると言うこともあるわけです。 周りの人間がある程度気持ちに余裕ができると、うまい具合にも物事は流れていきます。 

何かあると怒鳴ってしまうとか、やたらと無理な理屈を重ねていってねちねち進めるとか、SNSで悪口を広めるとかそういうやり方と言うのは繰り返すとどんどん自分で馴染んでいっちゃいますね。 慣れ親しんだパターンにはまりやすいです。  人間て、妙なところに自分らしさを見出しちゃうところがあります。  損ばっかりをする私とか、超不器用とか、誤解されがちとか、そのようなことも自分らしさとしてどうしても認識してしまう。

人間って変わりたいと思いつつも、実はあんまり変わりたくない、変わると言うのは相当に気合が入ります。  「見知らぬ仏よりも見知った鬼」と言う言葉があります。 鬼と言うのは悪いものだけれども、慣れ親しんだ鬼だとそっちの方が気が楽でいいやと言うことです。 精神科医と言うのは、病気を治すと言うよりは、むしろその人にとっての幸せは何かと言うことを考えることですね。 その人なりの幸せとはどういうものか、その辺のことに合わせて考えてった方が現実的ですと思います。

うつ病なども病院でいる間は周りも気を使いますが、うつ病が治ったらまた会社で頑張らないといけない。 良くなった後にすぐ第一線に戻れるかと言うと、微妙だったりすることがあります。  こっちとしてはまだ本気でちょっと戻りたくないんだなと言うふうに思ったりもします。 そういった微妙なところのやりとりが重要です。

最初産婦人科に行きましたが、外科系の方が派手だったので行きました。 私は患者さんの愚痴を聞く方でした。 ほとんど聞いてるような形でしたけれども、本当に感謝されまた。 6年間勤めた後、精神科のほうに移りました。 私の母親は美人で華のある人でした。 私は一人息子ですが、私もルックスとか雰囲気において母親にふさわしい存在感というのを持ちたいと思いましたが、それは努力では無理です。母親には認めて貰えていないのではないかと言う思い。(コンプレックス) 

 占い師のところに行ってぐちぐち言いましたが、意外とそれがすっきりすると言うふうになりました。 ある中年の女性の占い師のところで、ぐじゅぐじゅ言って、私は慢性の不安感っていうのが強くて、自分は物心ついてから、現在まで 1日たりとも不安でなかった日はないんですと言うふうに言ったら、その途端涙が出てきて嗚咽したと言うことがありました。 自分でもびっくりしました。 私は30年間泣いた事はありませんでした。 無防備で泣くと言うのは、結構気持ち良いものだと思いました。 

母親とのわだかまりについては、本2冊書いてみたけれども、わだかまりは溶けてはいませんが、自分で半分持て遊べると言う形にはなりました。(客観視できる。)精神科医が自分のことすら直せないのに、なんて、患者さんに手助けできるかと言うと、あえて言えば、他人事だからです。 患者さんの話で、俺の事はあんたなんかにわかってたまるかと言うことがありますが、その通りですと、でも2人一緒に揃って水に溺れたってだめでしょう、私は余裕のある立場にいられるからこそあなたに手助けできると言うことなんだと思いますといいます。 相手を理解すると言う事と一緒に遭難すると言うことを別です。 

折り合いをつけると言う事はどういうかことかと言うと、自分がある程度冷静に自分自身をモニターして、ただすべき事は正して、ときには苦笑を浮かべたり、泣き事を言いつ思考や感情の暴走は、不幸招き勝ちだとそういう風に心がける。  苦笑いとは苦々しくしく思いつつも、客観的に広い視野で今の状況を眺め渡して、さしあたっては笑を浮かべてやり過ごすということじゃないと思います。 苦笑いを浮かべると言う事は結構重要なことだと思います。

人の心と言うのは、アキレス腱というか弱点と言うのが3つに集約される。プライドこだわり、被害者意識

プライドでは、恥をかかされた、舐められた、軽く見られた。過敏になった劣等感がプライドの問題として吐出してくる。 こだわりは周り見えないとか切り替えができないとか、柔軟性に欠けてしまう。 被害者意識、 自分が悪いとは思いたくないが、人のせいにして、自分を守ると経験を人生に生かせないまま憎しみだけが蓄積していくと言うことになります。 自分の気持ちが穏やかでないと言うときにはこの3つのいずれかに引っかかっています。 それがわかれば客観性を担保することになります。秘訣は苦笑い。黒白つけずグラデーションあたりをさまよう。

今残酷さについて執筆しています。 自分は残酷ではないという風に振舞おうとしても、結果的には残酷さと言うものを呼び起こしてしまう。 そんなことはいくらでもあります。 残酷さと言うものもある程度いろいろ理解できなければ、世の中と折り合いがつかないわけです。