2023年1月12日木曜日

林家正蔵(落語家)           ・円熟の落語をみてもらいたい

 林家正蔵(落語家)           ・円熟の落語をみてもらいたい

1987年真打に昇進、54歳で亡くなった昭和の爆笑王父三平さんの年齢を越えて、去年12月で60歳になりました。  2005年43歳の時に正蔵をを襲名、祖父7代目正蔵、初代三平、弟二代三平と3代に渡って真打、そして長男たま平、次男ぽん平と4代にわたっての落語家は落語界の快挙と言われています。

父親が亡くなった54歳を超えた時には胸がざわつきました。   その後も生きていたら父親の漫談調の話はどうなっていただろうなあと先輩たちと話をするんですが、結局自分が生きていてフィードバックできればいいのかなあと考えています。  2005年43歳の時に正蔵をを襲名。  今年で18年になります。  父のもとに入門してこぶ平という名前で、これが厭で、父に言わせると物に当たるとこぶができ大きくなる縁起がいい、昆布はいい味が出る、喜ぶのこぶで、言われたのがこの名前を大きくしなさい、と言われました。  2002年の終わりぐらいに鈴本の席亭さんがお見えになって、襲名を考えているとのことでした。  三平かなと思ってこれは厭だなと、思いました。  父は高座返しをするだけで客席がざわついたり笑ったりするわけです。   亡くなった枝雀師匠の理想は高座に座って何もしゃべらず無でもって笑いが取れたら、それが理想だとおっしゃっていましたが、高座に姿を現していない、めくりが返っただけでワーッと受けるんです。  2年間父のもとで修業していましたが、その凄さたるや。  襲名と言われた時に、正蔵を継いでもらいたいという事でした。  しかし、落語家として悩んでいた時期でした。   「父の様にやるか父から離れるか」、と言ったら、「だから駄目なんだ。 基準が全部父じゃないか。・・・お前は何がやりたいんだ。」と言われました。 当時志ん朝師匠に憧れていました。(14,5歳)    自分がやりたいのは古典落語だと思いました。  或る時志ん朝師匠との対談があり、「お前は三平にはなれないよ。  俺は志ん生にはなれなかったから。 文楽、正蔵のような硬い語り両方を持ちたい。 ・・・お前はね、すじの方に向いてるよ。 一生懸命稽古すればいいと思う。」と言われて、どんなことを言われてもゆるがなかったです。  見ていてくれて、席亭さんから正蔵を襲名することの話があり受けることにしました。   坂東三津五郎さんに相談した時に、「「とにかく真摯に受けなさい。 その名にふさわしい芸が出来るなんて思っちゃいけない。  兎に角自分だけを磨きなさい。」と言われました。  名前がその人物を作るという考えはなく、自分を高めるしかないんです。

二ツ目が1981年19歳、1987年25歳で真打昇進。  2003年 「六人の会」で活躍。 東西の壁が 崩れて行き来が出来るようになりました。  「六人の会」のメンバーは春風亭小朝、笑福亭鶴瓶、9代目林家正蔵、春風亭昇太、立川志の輔、柳家花緑。  落ち込むことが多かったです。 無我夢中でした。 当時のことが糧になっています。  長男「たま平」、次男「ぽん平」です。  落語家にはならなければならなかったでいいと思っていました。   二人ともラグビー、野球とスポーツマンだったので。  

弟子が11人いるので、「たま平」、「ぽん平」もこの子たちと同じようにしていないと、緩い修業になるような気がします。  もし真打になったとしても楽屋でとかで、多分話はしないでしょうね。  家族だけの場合だったら、本名で呼ぶかもしれないです。    60歳になって何をやりたいのか、自問したことがありますが、60歳に成ったら何がやりたいのかなかったです。  ただコツコツと次の課題をこなしてゆくだけかなあと思います。  柳家 さん喬師匠から「60代をちゃんとやらないと70代の扉に行けませんよ。」と、メールをいただきました。  有難かったです。   家に戻って来て、「寝る前にいいことを思い出しなさい。」と書いてあって、楽しかったことを思い出すようにしています。   


















2023年1月11日水曜日

大友啓史(映画監督)          ・映画だから伝わること

 大友啓史(映画監督)          ・映画だから伝わること

1996年生まれ、岩手県出身。  慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後1990年にNHK入局、秋田放送局を経てドラマ番組に配属、連続テレビ小説「ちゅらさん」シリーズ、「ハゲタカ」、「白洲次郎」、大河ドラマ「龍馬伝」などを演出しました。  2011年NHKを退局、その後映画監督として活動しています。  2012年から始まった「るろうに剣心」が大ヒットして、そのほかにも「3月のライオン」、「億男」など話題の映画を監督しています。

新作映画『THE LEGEND & BUTTERFLY』今月27日から公開。  戦国時代、信長を主人公にした映画で、濃姫の目線から見た信長で、一風変わったラブストーリーとみてもいいのでは。  信長に木村拓哉さん、濃姫に綾瀬はるかさんを軸に展開する。  「レジェンド」は織田信長のことであり、「バタフライ」は「帰蝶」という呼び名があったと言われる信長の正室・濃姫を意味する。  2時間48分ですが、あっという間でしたと言われます。  ネットムービーとはちょっと違たものを作らなければいけないという意識がありました。  若い人、時代劇を見ない人にも届くものを作ってほしいという熱意を凄く感じました。   「龍馬伝」もそうでしたが、今回の信長も身近な存在として表現したかった。  同じ人間であり、同じ風土で生きた人間なので、信長の生っぽい感情を大切にしてゆきたいと、木村拓哉さんも言っていました。 

戦国時代は男尊女卑、夫唱婦随の時代ですから、そちらの観点から見がちですが、今回の話は濃姫の夢を叶えるために信長が動くという、この切り口は面白いと思っていて、冒頭の輿入れではお嫁さんが完全な人質なわけです。  戦国時代の男と女の命がけの儀式であったと、戦国時代は家の生き残りであったと、そう捉えると見え方が変わってくるわけです。  濃姫が男だったら天下を取ったのではないかというような設定で作っています。   男って地位を与えられるとどんどん昇って行ったり、地位で物を言ったりしますよね。    その過程で愛を知り、愛が生まれ、熟成をしてゆくというような話になればいいと思いました。   お城を二人が出ると街中では、一般庶民と接することはないので二人の顔を知っているわけではなく、一瞬の心地よさ、自由さを感じ、未知の世界に憧れてゆく、二人で同じ自由を感じて、そこで愛を確認し合うという事です。  

撮っている時の自分は熱くなっているわけではなく、とっても冷めています。   作るうえで大事なのは、作品は自分の魂を込めてゆく作品を作るという事なんですが、一方で誰かに見てもらわないとしょうがない事なので、観てもらうという事はどこか僕のなかのベースにある、そのベースはサービスなんじゃないかと思うんです。   サービスなんかどうでもいいという風に傾けて撮ったのが、唯一「影裏」という作品ですが、それ以外の作品は観ている人が第一だと思って作ってますが、その時には緩急とかバランス、シリアスと笑いのバランスとか、自分の整理のリズムとして撮っているのがあって、微調整は常にやっています。  寝る前に編集などしてしまうので不眠症に成ったりします。

映画が2時間か、1時間半なのか、連続ドラマなのか、時間によって整理のルールがあるんです。  20,30年やっているとそういった体内リズムが出来てきます。  音楽も大事でチェロをメインにしたいと思って話したら、音楽担当の佐藤直紀さんが日本にいる一流チェロリストを全員集めて、32本のチェリストの編成を今回やりました。  合戦のアクションの激しさに当てるのではなくて、人物の感情はどうなのかそちら側に当てています。  時代劇ですが洋風な感じになっています。  テレビだと音をコントロールするのが難しいが映画だと自由に出来るので楽しいです。  

フリーになる時も何となくもうやめなきゃな見たいな感じで辞めたので、自分で選択しているので、自分で決めたことを割り切れたりするので、そういった部分でのストレスは余り無いです。   秋田放送局に入った時には、なんでもできましたが、ドラマだけは地方局では作れませんでした。  やったことがないことをやりたくて、ドラマの人ともつながりが出来て、ドラマの道に進みました。   放送局時代にノンフィクションで得られた手触りをフィクションに持ち込みたいと思ったんです。   今回も衣装、肌の感じとか生活感とか徹底してやっています。  そういったことはドキュメンタリーがベースになって来ました。  ドキュメンタリーは構成通りにはいきません。  若いころからそういった形でやってきたので、監督のプランニング通りに出来て当たり前というようなことが普通の発想ですが、僕の頭のなかの想定以外のことが起きてくれないとOK出さないような整理になってしまっているのがややっこしいところです。   















2023年1月10日火曜日

西本功(NHK障害福祉賞 入選者)   ・宿命を使命としてとらえる

西本功(NHK障害福祉賞 入選者)   ・宿命を使命としてとらえる 

NHK障害福祉賞は昭和41年に創設されました。   障害福祉への関心、理解を深めるため、広げるため、障害のある人自身の体験や障害のある人の教育や福祉に関わる方からの記録を募集するものです。  今回518品の応募があった中から8品が入選作品として選ばれました。  お話を伺うのは愛知県春日井市にお住いの西本功さん(73歳です)  知的障害を伴う自閉障害のある長男護(まもる)さんが中学を卒業後に就職し、オートバイや車の免許を取得するなど成長してゆく47年の過程を「自閉症の長男との伴奏、成長と希望の軌跡」という題名で文章にまとめました。  どんな思いで障害のある息子さんと向き合い続けてきたのか、伺いました。

募集の話を聞いた時に無性に書きたくなりました。  自閉症の子供を抱えてこれまで必死になって一緒に歩んできた、そういう思いがよみがえってきたという事と、確実に成長してきた子供のことをもう一度振り返ってみたいという事、多くの人に関わってもらったという事に対する感謝の意味で、纏めて書いてもいたいと思いました。   

一寸変だなと気が付いたのは2歳半ぐらいだったと思います。  当時は自閉症という言葉が出始めて間もないころで、言葉が遅れているなと気が付いたのが2歳半ぐらいの時でした。   今思うと自閉症特有の症状がいくつか見られました。   音に敏感、何かあるとパニック状になる、とかありました。   妻から事の重大さを聞いて、いろいろな病院を回るようになりました。  子供が正確に診てもらえるような専門医ではなかった。  心身障碍者の専門の先端的な医療をやるところの職員と私が仲が良かったので、大学病院の医師を紹介してもらう事になり、そこでしっかり診ていただきました。   自閉症で知的障害を伴うという診断を受けました。   何とかなるのではないかという淡い期待を持っていましたが、「普通の人の100倍、200倍やってもちゃんと出来るようになるかどうかわかりません、親としての相当な覚悟が必要です。」、と言われました。  大変なショックでした。  

この子のために親として出来るだけのことをやって行こうと思いました。  近くの幼稚園に通う事になりました。  単語もせいぜい二つをつなげたオウム返しで、正直何にもできないというのが現実でした。  運動会に行く機会があり、見にいったら前の子らのスタートでピストルを撃った途端に耳をふさいで大声で泣いてうずくまって動かないわけです。  そのまま運動会が終わってしまいました。 ショックでした。    夫婦で子供と共に歩まなければいけないと、父親としての決意の日でした。  

小学校へは先生と相談して普通学級にいれていただきました。  全然答えられない、コミュニケーションが取れないという事で先生もお手上げで、夏休み後に支援学級に移されました。   行動範囲を広くしてあげなければいけないと思って、自転車に乗れるようにしてあげたいと思いました。  3か月ぐらいかかったと思いますが、うれしかったです。  遠くまではいけませんが走り回っていました。  コミュニケーションが取れませんでしたが、いじめにも合わず周りの子供達も大事にしてくれました。   

近くの中学では支援学級がなくていけませんでした。  3,4km離れた中学に自転車で通う事になりました。  自分なりに挑戦して成長していったと思います。  7,8人のクラスでした。  担任の先生が護(まもる)君は中学卒業して社会に出ても充分やっていけるから、と勧めてくれたので、普通の人と一緒になって働けるのならとおもって、就職をすることになりました。  選んだのが段ボールの会社でした。   会社に通う中途に自転車屋さんがあり、バイクを購入してもらうために勉強会をやっていて、そのチラシを持ってきてバイクの免許を取りたいという事でした。  事故があったりすると大変だと思って大反対しました。   しかし初めて引き下がりませんでした。  渋々了解しました。  春に言い出しましたが、取れたのは12月27日でした。(9回目の挑戦で合格しました。)   バイクを購入して徐々にいろいろなところに行きました。 

20歳の時に自動車の免許を取りたいと言いました。  自動車教習所にいって、相談したら過去に1、2回あったようなのでやってみましょうと言う事になりました。   学科は一発で通りました。  実地試験は2回落ちました。  少しづつ成長してゆく姿を見て親として嬉しかったです。   今は颯爽と車に乗って段ボールの会社に出勤しています。  少量多品種なので機械の段取り替えのプログラミングの打ち込みも誰よりも早くできるので、社長さんからは無くてはならない人材ですと言われているようです。  よくここまで成長してくれたなと思います。  

私の勤務した会社はオフィス家具、学校の家具など全般の家具を生産販売する会社でした。 下請けが経営難になり、再建のために出向しなさいと言う事が突然あり、3年の約束で死ぬ思いで働いて赤字を解消しました。  本社に帰れると思いましたが、代わりになる人がいないので継続してそこの社長をやれと言われて、やることになりました。  自分としては障害者雇用をしていこうと思って障害者の雇用をしていきました。  作業している人たちは、健常者よりもスピードが遅いと足手まといとなり、ついいじめのような言葉になってしまう。   0.5人として考え、健常者も障害者も一緒になって仲良く働く職場を作りたいんだという、社長としての思い、人生観なので受け入れて欲しいと、社員に何回も頭を下げて、受け入れてもらう迄には、そんなに簡単ではなかったです。  障害者だけのグループで別の仕事をしては何の意味もないと思います。  障碍者雇用はこうでなければとうようなことを、手探りでやってきました。   障害者を持ったことを宿命、運命で終わってはいけない、人間として障害者であろうとなかろうと大きな力があるので、苦難、宿命と捉えないでそれを跳ね返して、普通の人以上にそれを乗り越えて、人の2倍も、3倍も価値ある人生を歩んでこそ、人間の生き方として大事なんだと思います。  自分もなんらかの、一隅を照らす役割を人生のなかで果たしていかなければいけないのではないかなあと思います。  そういう思いにさせてくれたのは護(まもる)だったと思います。

2023年1月9日月曜日

かたせ梨乃(俳優)           ・〔師匠を語る〕五社英雄

 かたせ梨乃(俳優)           ・〔師匠を語る〕  五社英雄

 かたせ梨乃さんは1986年公開の「極道の妻たち」で日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。  その翌年の映画「吉原炎上」で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞に輝きました。  どちらも五社英雄監督の作品です。  

現場では「五社英雄監督さん」、撮影を離れたところでは「お父さん」、「監督」と言ったりして呼んでいました。   

五社英雄さんは1929年東京都生まれ。  五社さんが注目されるようになったのはフジテレビ在職中に制作したテレビドラマの「三匹の侍」でした。   刀と刀がぶつかり合う音や人を切る時の音など、このドラマで五社さんが生みだした効果音はいまなお語り継がれています。  さらに『御用金』、『人斬り』など五社さんが演出した映画も大ヒット、テレビ局の現役社員が映画のメガホンを取ったのは日本で初めての事でした。  フジテレビを退社してフリーとなった後も、五社さんは映画『鬼龍院花子の生涯』『陽暉楼』『櫂』『薄化粧』『極道の妻たち』『吉原炎上』など話題作を次々に手掛けます。  食道がんを患って63歳で亡くなったのが1992年『女殺油地獄』が遺作となりました。  

私が20後半の時には代表作はなくて、女優と言うような立場ではなかった。  東映の方から『極道の妻たち』の脚本が送られてきて、大抜擢で自分で出来るだろうかとか、凄く迷って、京都まで行って五社監督と2日間お話をして、やろうかという事になり、何があってもこれは自分と戦うしかないと思いました。  五社監督はスタッフからの絶対的な信頼がありました。  森田カメラマンは夫婦の様に息のあった関係でした。  銀幕のスターだった岩下志麻さんがいて私は妹の役をやらせていただいて、自分では何もできなくて監督さんから一杯教えてもらいました。  監督が気に入らなくて撮り直したシーンもありました。  手取り足取り教えてもらっているうちに「お父さん」というようになっていったのかなと思います。  日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。  とっても嬉しかったです。   

『吉原炎上』では遊郭の女郎役、花魁5人の悲喜を描く。  菊川という久乃の先輩女郎、冬の章ヒロイン。  物語終盤、夫を寝取られ吉原遊廓では最下層の店が並ぶ羅生門河岸の長屋女郎にまで身を落としていた。  「女優が5人も出ているが君だけは女優ではないので自分で考えなさい」と突き放されてしまいました。   炎上する火のなかを飛び出すシーンがあるんですが、中々その合図がなくて、頭に鬢付け(びんづけ)しているので頭に火が点いたら私が炎上してしまうんです。  最悪は前の川に飛び込めばいいと思っていて、合図がようやく来たので飛び出していきました。  「消化班」と言ったが、水が出なかった。  数秒でしたが。 でも監督は平然としていました。  川に飛び込むシーンをみぞれの中、何回もやって暑いのか寒いのか判らなくなりました。    夜ホテルにいたら、監督から電話がかかってきて褒めてくれました。  

映画って主演がいてその人のための映画ではなくて、すべての人が素敵でないと作品は成り立たない。  監督さんにはすべてのシナリオの絵が見えているという事を感じました。  日本アカデミー賞最優秀助演女優賞受賞。  「取っちゃった。」と言ったら、「名取(裕子)が最優秀取ってないのだから喜ぶな、と怒られました。 

「肉体の門」では単独主演。  食べるものもなく肉体を売って稼ぐという時代の話で、「痩せなさい。」命令が出ました。  ジムなどに行って美しく痩せるのではなく飢餓で痩せなさいと言われてしまいました。   45kg以下まで体重を」落としました。   主役を始めてやることになり、舞い上がっていたら怒られてしまいました。  自分の事しか考えて居なかったなあと思いました。  「最初5本やろうと言っていましたが、3本やって一旦卒業で、他の監督の下でやって学んで、僕の戦力となって次の作品をやろうね。」と言われました。  放り出されることに不安は感じました。  

1991年「陽炎」で再び五社監督で出演(「肉体の門」から3年)、ちょっと痩せて心配な思いはありました。  「陽炎」公開の翌年五社監督は63歳で亡くなる。  監督との手紙のやり取りはぎりぎりまでしていましたが、筆圧が弱くなってきて心配でした。 信じられない思いでした。   五社監督からは、「頭で考えて芝居をするのではなく、本人に成れ。」と言われていました。  亡くなられて31年になります。  監督と話をしていると台本が立体的になって来ます。   当時は定時に終わるとスタッフルームに集まって、鍋を突っつきながら翌日のプランニングとか、いろんなことをお酒を飲みながら話したりして、良い時代だったと思います。




2023年1月8日日曜日

渡辺菜生子(声優)           ・〔時代を創った声〕

 渡辺菜生子(声優)           ・〔時代を創った声〕

「ちびまる子ちゃん」のたまちゃん役、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)のキャラクターの一つ、キッコロの声を担当。 1990年から始まった「ちびまる子ちゃん」は30年以上になります。  まる子ちゃん役をやっているTARAKOちゃんとも相方と呼んで仲良くしています。  藤木君役の中友子さん、おばあちゃん役の佐々木優子さんとかまる子のメンバーのなかで、演劇ユニットを立ち上げて5人でプロデュースしてやったんですが、その後TARAKOちゃんと二人で演劇ユニットを立ち上げて今に至っています。  性格が全く違います。  

小さいころから跳び箱が飛べない子でした。  運動が苦手です。  本は大好きで、テレビドラマも大好きでした。  中学、高校は私立で続いていて女子校でした。  学年で300人居ました。   演劇クラブで中学、高校6年間やりました。  日本大学芸術学部演劇科に入学しました。  緊張感を取っ払うためのいろいろなやり方は最初ショックでしたが、1年間やっていたら馴れてきました。  感情の開放がうまくできるようになりました。 そこが私の原点になりました。   役の心理状態に私が近づけてゆく、反映させてゆくというやり方が私には合っていました。  

148cmなので舞台向きではないし、声も高いので新劇には合わないと思って、大学時代の恩師と現在所属の青二プロの当時の社長が知り合いだったという関係から、声優界入りのきっかけとなりました。  何の試験の準備をせずいったら、緊張して一次募集では落ちてしまいましたが、二次募集では試験を受けるための準備をしっかりして受けたら、合格しました。  

声優も昔は役者さんたちが集まっているような現場だったので、お芝居と全然変わらないので違和感はなかったです。   俳優になりたいという思いがあったので、舞台に立つチャンスがあれば出ていました。  私を知ってもらうために1年間は費やされました。   その後オーディションがあり、50近く受けましたが全部落ちました。    1984年『リトル・エル・シドの冒険』(ルイ役)で初主演でレギュラーデビューしました。  電話で連絡があり、受かったという事で号泣しました。   毎日5分もので、ディレクターさんがマンツーマンでリハーサルをその期間中ずーっとしてくれて、アニメーションのアテレコが怖くなくなりました。  同年「夢戦士ウイングマン」で小川美紅役を演じました。  内気な少女役でした。  「とんがり帽子のメモル」のメモル役にも出演。  

1990年から始まった「ちびまる子ちゃん」のたまちゃん役は30年以上になります。   これがなかったら今の私はいません。  声優渡辺菜生子を作ってくれたのは「ちびまる子ちゃん」なので、感謝しきれないものが沢山あります。  声が高めなので、声に対する劣等感がずーっとあって、大人の声がリアリティーに欠けるところがあり、音域を広げることが課題で、私の御芝居の仕方とこの声の音域で生かせられるキャラクターに出会えたら、それに賭けようと思い出しました。  

毎年3万人の希望者がいるそうですが、実際に仕事として成り立っているのが300人ぐらいで、自分が何をやりたいのか、はっきりした対象を考えた方がいいかなと思います。   昔の声優さんたちは劇団からの、役者さんからの出発で、御芝居が出来る上での声なのでそういうところは見習うべきかなと思います。  やりたいと思っていたおばあちゃん役を頂き2回目の号泣をした。  これからもがんばれるかもしれないと元気をいただいました。 いろんなおばあちゃん役を研究していろんなおばあちゃん役を演じていきたいと思います。

2023年1月7日土曜日

キダ・タロー(作曲家)         ・浪速のモーツァルト 前編  幼い頃は内気な子

 キダ・タロー(作曲家)         ・浪速のモーツァルト 前編  幼い頃は内気な子

キダさんは独特のヘアースタイルで、学校時代音楽室に飾っていたバッハやモーツアルトの髪形に似ています。  白髪混じりのオルバック、襟足は高めです。  浪波のモーツアルトというニックネームがしっくりくるのもこの風貌からくるのかも知れません。  キダさんは昭和5年12月生まれ、92歳。  兵庫県宝塚市に生まれ、ずーっと関西で活動してきました。  一回目は生まれてから戦時中にかけての生い立ち、戦後まもなく兄のアコーディオンに触れて音楽の世界に入って行ったその経緯を伺います。

父親が警察官でしたので官舎に住んでいました。  外にあまり出なかったので庭で女の子と遊んだ程度の記憶しかないです。  父親の転勤の関係でいろんな街に行きました。  父親は勇敢で退職後に近所に泥棒が入って床下に逃げ込んだんですが、「神妙にせい。」と言って怒鳴って、出刃包丁を持った男が出てきました。  その勇敢さは私は引き継ぎませんでした。  5男1女で私は末っ子です。  昭和16年12月に真珠湾攻撃がありましたが、ヤッターという感じでした。(当時小学校5年)  日本国民のほとんどがそうでした。   娯楽はラジオ一つだけで歌謡曲、軍歌、歌曲(枢軸国のもののみ)、でした。  狭い視野の音楽を聴いていました。  軍歌の影響は強烈なものがありました。  今でもしっかり覚えています。  脳の中で勝手に鳴るんです、それが恐ろしい。  

私の1年下から疎開があり、私は疎開はしませんでした。   西宮市の大空襲が終戦直前にあり、流れ弾が防空壕にブスブス刺さって、命拾いをしました。   昭和20年8月15日、中学3年生でした。  勉強はしないでベアリング工場に行って働いていました。 ラジオを聞いて、戦争が終わったという事でその時の解放感は感激と言うか、世の中が変わってしまったので凄かったです。   兵隊に行かなくていいという事がまず頭にありました。  入ってきた欧米文明が、これは大革命でした。   アメリカの音楽、スイングジャズが入って来て、「スターダスト」(ビリー・バターフィールドのトランペット)という名曲がありますが、廃墟の中に流れてきました。  

一番上の兄が結核になり、寝たきりとなりアコーディオンが欲しいという事で、父親が無理をして買ってきました。  鍵盤の数は決まっていますが、イボの数で値段が決まります。イボが120あったらいっちょ前で、当時で40万円、安いおもちゃを購入、弾いてまもなく亡くなりました。  そのアコーディオンを弾き出しました。  キャバレーのステージに立ってやっていましたが、そのアコーディオンでは駄目だという事になり、ピアノに転向しました。(自分で持っていなくてもよかった。 18歳の時)  藤岡琢也(担当はバイオリン)等とバンドを組んでやりました。  3曲しかレパートリーがなくても、当時はダンスパーティーが流行っていて呼ばれて行きました。  学業はおろそかになりました。   ハンドボールでもキーパーを2年ぐらいやりました。   

1年浪人して関西学院大学の社会学部に入学しました。   親から入学金を貰って払ってたんですが、籍がなかったんです。  多分大学に一日も行かなかったから除籍になったのかもしれません。   千日デパート(火事で焼けてしまったが)の前にダンスホールがあり、自分の演奏する音楽で外国の兵隊さんが踊って喜んでいるという、その喜びがありました。   「義則忠夫とキャスバオーケストラ」にいれてもらってピアニストとしてキャバレーなどで活動しました。    しょっちゅうゲストが来ました。 コメディアン、歌手、俳優。 石原裕次郎さんがデビューしたての19歳ごろで、男前で上品でした。  淡谷のり子さん、ディック・ミネさん、田畑義男さんとか温かいものを持っていて違っていました。   10年ぐらいそのバンドでやっていました。  その後作曲、編曲をやるようになって、ピアノは弾かなくなりました。   初めて作曲したのは、18、9歳で当時難波にあったキャバレー「パラマウント」の曲で、その唄を歌ったのは、当時のNo.1ホステスだった「双葉」さん(後のかしまし娘の正司歌江さんでした。  

私は仮死状態で産まれて、産婆さんが両足持ってぶら下げて、おしりをパーンと叩いたらおぎゃーといって、蘇生しました。   どこかひ弱な点があり、体力には自信がなく無理なことはしないという風にしてきました。   


  

2023年1月6日金曜日

田中幸子(全国自死遺族連絡会代表理事)・優しい人が優しいまま生きられる世の中に

 田中幸子(全国自死遺族連絡会代表理事 )・優しい人が優しいまま生きられる世の中に

自ら死ぬと書いて「自死」、田中さんは自殺の殺という字の強い印象を和らげるために、この言葉を使っています。   仙台市に住む田中さんは2005年11月警察官だった長男を自死で亡くしました。   深い悲しみを抱える中、胸の内を明かせるのは同じような悲しみを抱える遺族だけでした。  今田中さんは自死や災害で家族を亡くした人どうしが支え合う相互支援の活動を続けています。   当事者だからこそできる支援とは何か、伺いました。

全国自死遺族連絡会は自死遺族による自死遺族のためのネットワーク、相互支援してゆくためにネットワーク、法律の専門家、精神の専門家などのネットワークもその周りに作りました。 普段は電話を24時間365日、携帯2台と自宅の電話を公開して受けています。  そのほかにホームページからお問い合わせをまずきいて、会を薦めたり、実際に会ったりしています。  労災申請、事故物件としての賠償金請求など出てくるのでそういった話を聞きながら、それぞれの専門家に繋いでゆくこともしています。  悲しい気持ちは家族同士でないと判り得ないと思います。 子供を亡くした親はやはり子供を亡くした親でないと判らない。 同じ思いをした遺族同志が分かち合う、という事が基本となります。  会は全国にあって、地元に住んでいるところにない場合もあるので、今ではオンラインでも分かち合いの会もあります。   自分でも相談しましたが、繋がらないほど苦しいことはないです。  複数人の遺族を紹介して支えてもらう。  それぞれ違うので、まずは聞くということから始まります。  7,8時間ずーっと聞いているという時もあります。 

2005年5月22日、宮城県の国道で酒気帯び運転をしていた4輪駆動車が、横断歩道を渡ってた高校生の列に信号を無視して列に突っ込み、3人が死亡、22人がけがをしました。 これが引き金になった出来事でした。  息子がその事故担当処理係長でした、毎年思い起こします。   結婚して官舎に住んでいましたが、息子は休みでしたが、早朝に起こされて事故の現場に行き、休日もなく一日も休まず事故の処理をしなければいけないために対応、10月に自宅療養を取りました。  当時4月から交通課初めての勤務で、5月の事故でした。  対策本部を立てなかった。 立てれば本部からの応援があったが。  塩釜警察署だけの対応で、当時息子は係長だった。    夜中に救急車の音が聞こえると飛び起きるようになってしまって、玄関から足が踏み出せないような状況になってしまいました。 部下に割り振りするようなアドバイスもしました。  まじめな性格で俺がやるしかないと言っていました。   謝らずに弁解している加害者に対して、「俺は耐えられないよ」と話していたのを今でも思い起こします。  

結婚して子供もいたので、連絡はしていましたが、余り深く立ち入らない様にはしていました。  或る日突然警察から連絡があり、「亡くなりました。」という話でした。  11月16日の夜でした。  タクシーで家族で行きましたが、実感としてわきませんでした。  「検死しています。」と言われて死んだんだと思って、気絶というか、ひっくり返りました。    どこを触っても氷以上に冷たかったです。    上司のパワハラのようなものがあり、一日も休めなかった。  当時34歳でした。  幸せがずーっと続くものだと思っていましたが、長男の死を機にがらりと変わりました。  自分も狂ったようになり暴れまわり、亡くなった息子もののしり、お前が死んだからこんなに苦しいんだとか、一家でボロボロでした。  ストレスで血圧が上がり過ぎて、安定剤、睡眠薬を飲まされて、主人などは後追いをするのではないかと思って、主人と弟が交代で24時間見張っていました。 当時一気に13kg痩せました。   死んで息子が食べられないのに親の私がご飯を食べているなんて、という罪悪感がありました。  救いを求めて占い、カウンセリング、医療関係、教会、お寺、などありとあらゆることをしました。  朝から晩まで泣いている後ろから弟が「優秀なお兄ちゃんが死んで、駄目な僕が生き残ってごめんね。 僕が死んでもこんなに悲しんでくれるの。」とつぶやいたんです。  次男も悲しいんだという事にはっと気が付きました。  夫も悲しんだという事にも気が付きました。  

長男の為にも家族の為にもどうやって生きていったらいいんだろうと考えました。    2月に支援者の会に行きました。    悲しみにも波があり、その時にはあまり感じない時でした。  しゃべっても自分自身であまり悲しくもなく、聞いている人たちはわんわん泣いていましたが、凄く違和感を感じました。  息子が見世物になっているような感じがしました。(相手が当事者ではない)   2回目の時に後で遺族同士5人でお茶会をしましたが、その時には居心地が良かったです。   仙台に遺族同士「藍の会」を作りました。  警察官の制服は藍色なのでその名にしました。  自死遺族の会は判らないほうがいいと思います。  参加する人たちは自死の遺族であるという事は知られたくないと思います。  

2006年7月が第一回目でした。 狭いところに35,6人が集まりました。     一人ではないんだという事が大きいですね。   生き方を学んでゆくという感じです。 たくさんの人から学んだほうがいいですね。   悲しみは消えないと思っています。   愛する気持ちが消えれば悲しみも消えると思います。  17年になりますが今も深く悲しみはありますが、折り合いをつけて日常生活は送っています。   経験を語り合って。自分の生き方と合うものを見つけて生きていけばいいのかなと思います。    

私の活動の原点は息子のあの冷たい死に顔ですね、それで頑張ろうとか、やりたいことが沢山見えてきます。   国の自死対策協議会への参加、ほか様々な活動をしています。  国、行政、民間団体でも連携を取りながら相互支援を目指してくださいと言っているんですが、自死遺族支援に関してもほとんど相互支援をしていません。   そこが凄く残念なところです。  自死についての偏見、差別がまだまだあります。  自殺対策基本法が2006年にできて、大綱ができ、自殺の多くは社会的要因によって追い込まれた死であるので、要因を変えていかなければいけない、人を追い込まない社会にすべきだという事が書かれているが、世間にあるいろんな問題は自死は個人の問題、勝手に死んだ、という意識がまだまだあります。  自死遺族の方にも悪い事をしてしまったというような気持をぬぐい切れないところもあります。  活動も息子と共にあると思っているので、いろいろな経験、沢山の人との出会いがあり、深い人生を生かされてもらっていると思います。  自死の問題は教育にあると思っていて、自死の多くは言葉の暴力によって追い込まれた末の死だと思っています。  他人の気持ちを思いやる人たちが救われる社会であってほしいと思います。 そのためには教育を変えてゆくしかないのかなあと思います。  優しさの恩送りをして行ってもらいたいと思います。