2022年5月7日土曜日

谷岡哲次(レット症候群支援機構代表理事)・科学の力を、社会の力を、この難病に

 谷岡哲次(認定NPO法人レット症候群支援機構代表理事)・科学の力を、社会の力を、この難病に

1966年にオーストリアの小児神経科医アンドレアス・レットによって初めて報告された難病レット症候群、主に女の子に現れ1歳半から3歳ぐらいになって、それまでできていた手の運動が上手くできなくなり、揉み手や一方の手で胸を叩くなどの行動が繰り返されたり、歩行などの運動機能もできにくくなったりするとされています。  まだ根本的な治療は開発されていないという事です。   自分の娘にレット症候群があることを知り、2011年に認定NPO法人レット症候群支援機構を立ち上げた谷岡哲次さんにその活動内容や娘紗帆(さほ)さんへの思いを伺いました。

上が男の子で娘が生まれて嬉しかったです。  3,4か月ぐらいから首のすわりが遅いなあと感じました。  はいはいも、寝返りもしないので半年ぐらいからちょっとおかしいなあと思いました。   手で何か遊ぶという事が徐々にしなくなりました。   歯ぎしりの症状も出始めました。  10か月ぐらいにお座りが出来ていたのにこけるようになりました。  お菓子を食べるのにもうまく手が使えないようになってきて、異常があるのではないかと思いました。   症状を書いてネットで調べたらレット症候群を書いたお母さんのブログにヒットして、レット症候群を疑い始めました。  進行性の難病、不治の難病という事が出てきていました。   どう妻に伝えたらいいか悩みました。    出来ることは藁をもすがる思いで、西洋医学で駄目なら、鍼、漢方とか治療を続けていました。    九州にレット症候群の研究をされている先生がおられるという事で九州に行ってきました。 

1966年にオーストリアの小児神経科医アンドレアス・レットによって初めて報告された難病レット症候群でした。  1万から1万5000人に1一人(女児)の確率で起こると言われています。  症状は両手を擦り合わせたり、手を口の持って行ったり、指を擦り合わせるとか手の異常な情動行動が見られます。  歩けない子もいます。  言葉を発する子はほとんどいないです。  統計的には日本には5000人ぐらいいると言われていますが、10年前のデータでは20歳以下で1000人ぐらいと言われています。  1999年にレット症候群が発生する原因となる遺伝子が特定された。  MECT2と言う遺伝子でここに異常があるということが発表されました。   九州の先生にお会いした帰りに、自分に何ができるかと考えた時に、研究を支援することはできるのではないかと思ってNPOの立ち上げを考えました。  

レット症候群の研究班が厚生労働省に立ち上げっている時で、代表の方が国立精神神経センターにいましたので、その先生に電話で趣旨を説明したら、会議があるので来れるのであれば来てほしいという事で、会議に参加させて貰いました。    遺伝子治療がここ10年ぐらいピックアップされてきて、注目はされています。  女の子の場合はx染色体が2つあるので異常なほうを眠らせて、正常なほうを活性化させてあげるとレット症候群は治るのではないかと言う、そういう理屈ではあります。   簡単な話ではありませんが。    昨日カナダの方で、遺伝子治療のトライアルがスタートするというニュースが飛び込んできましたので、注目していきたいと思います。   

研究者、患者、家族がともに学ぶような場作り、シンポジウムをやったり、患者も医学の基礎を学ぶというようなことも年一回やっていて、研究者の人に来ていただいて講演していただきます。  多くの人に知っていただき寄付を集める事が大きな柱になります。  設立3年目以降は寄付も集まってきて、研究者さんに年約100万円、累計で1400万円の研究支援をさせていただいています。  80名の会員がいて活動を支えています。  患者同士のつながりも必要だと思うので、無料で繋がれる患者同士の交流という事でアプリを立ち上げました。  アプリには230家族ぐらいが登録しています。  患者会の数を上回っています。  オンラインコミュニケーションをやったり、アプリに登録すると全国のマップにどんな症状の家族が何人いるかと言う事が判るようなシステムになっていて、簡単に繋がるようなシステムを作りました。    研究者が治験しようとするときにも役に立つと思います。   このアプリは2021年10月にスタートしました。  パソコン関係は詳しくないですが、何とかしたいという思いでやっています。 

娘の声を聴いたことがないので「パパ」と呼んでもらえたら本当にうれしいですね。   娘は支援学校の中学部の3年生になります。  ニコニコしているのとは裏腹に進行していて、背骨が湾曲してしまうのが発症していて、内臓に影響が出るぐらいのところまできています。 手術を予定しています。  親は今の紗帆で十分幸せ頂いて満足ですが、逆を考えたらそうではないんじゃないかなあと思って、山頂目指して頑張りたいと思います。   もし紗帆に間に合わなかったとしても、紗帆の次の世代に繋がるのであれば、紗帆がこの世に生まれてきた意味もあるのではないかと思いで活動を続けています。  

2022年5月6日金曜日

山﨑浩子(新体操 前・強化本部長)   ・新体操にささげた日々とこれから

山﨑浩子日本体操協会新体操 前・強化本部長)  ・新体操にささげた日々とこれから 

1960年鹿児島県出身、高校入学と同時に新体操をはじめ、進学を機に上京、全日本選手権5連覇、1984年ロサンゼルスオリンピック個人総合8位入賞、など輝かしい成績を残してその年に引退、スポーツライター、タレントとして活動を始めました。  2004年アテネオリンピック出場を逃した団体総合の再建を託され日本体操協会の強化本部長に就任、2021年の12月末まで17年の長きに渡って新体操日本代表フェアリージャパンを率いて2019年の選手権では金メダルを獲得するなど世界に戦えるレベルにまでチームを導きました。  

合宿生活をしていても終わると一人の部屋なので、一人でいる時間も多く取ってあったので、辞めた後も違和感はないです。   色鉛筆画を以前テレビ番組で出て、17時間かけて描いて結構褒められました。  2004年に強化本部長になった時に、短期強化になっていると思って、中長期強化をしないといけないと思ったのと、練習の絶対数が足りないと思いました。  合宿生活が必要ではないかと思いました。   天井が14,5mある体育館もなかなかないし、年間を通して使いたいし、何か月間か探して歩き周りました。   やっと見つけて2005年から練習を開始して、2008年から東京に施設が整って、北京オリンピックの少し前でした。豊富な練習量と豊富な休養時間が取れるので、コンディションつくりも着手できました。   

ユースチャンピオンシップと言う高校生を主体とした大会がありますが、上位選手で関東近辺の人を集めて世界選手権に臨むという方法を取りました。(2005年)   或る程度の結果が得られたのであなたの望むとおりにやっていいよという事で、2006年からオーディションで選ばれた人たちを使って世界選手権に行ける事になりました。  技術は未熟でもプロポーション、柔軟性など潜在能力を重視して選びました。  選手自身が主体性を持ってやるという事は最初から植え付けていきました。   門限だけは決めて寝る時間、起きる時間など生活は全て自分たちで決めるという風にさせました。  年に4回ぐらいは言い聞かせることはしました。(マナー、人としてどうなのかというようなこと)   自分たちでやれているという自信は付いていきました。  

2009年に三重県で世界選手権がありました。  種目別で日本がとってもいい演技をしましたが、メダルは取れなくて、何が足りないのだろうと思って、日本に居ては判らないと思ってトップのロシアに行って学びたいと思いました。  ロシアに行って信頼関係を作るのにはちょっと時間がかかりました。(お金の問題とか)    まずは成功体験をさせるために例えばボールキャッチするのにも、両手キャッチ(点数は低くなるが)させるように指導していました。  イレギュラーなことに対する訓練もよくさせていました。  

2019年世界選手権で40年振りに団体総合で銀メダルを獲得、ボールでは金メダルを獲得しましたが、今考えるとちょっと出来過ぎてしまって、流れを壊してしまったのかなあと思っています。  ロシアも脅威を感じてコロナ禍もあり、ロシアに行くとかコーチを呼ぶことが難しくなった。  必勝パターンが崩されてしまったと思います。  練習するほど疲弊感が増していって、肉体も精神も疲労しているのにもっと頑張らなければいけない、と言うような状況になってしまいました。   オリンピックの後2か月後に世界選手権があり、反省もありまた、メダルを取る事が出来ました。   その間は練習量も抑えたし、気持ちも余裕が持てるように持っていきました。  東京オリンピックと違って、世界選手権はみんなが笑って終えたので、凄く嬉しかったです。  

小さい時から試合を経験することによって、試合勘を養えることはできるが、勝ちにこだわり過ぎて成長を阻害するような練習量だったり、怪我だらけだったりすると、そこからの伸びは少ないと思います。  どこで花を開かせたいのかという事はコーチによく言っています。   

新体操を始めたのは高校1年生の時でした。  踊ることは好きなので新体操は合うかもしれないと思いました。  全国1位のチームだったのですごく大変でした。   怖い先生でしたが、先生のためにも頑張りたいと思えるような温かい奥の深い先生でした。  私自身が結構不器用でどうやったらそれが出来るか、考えて時間をかけて習得するタイプなので、選手が出来なくても観察する眼は持っていると思います。   4つのタイプがありその人に合った言葉を投げかけるようにしました。   トップに立つ人は俯瞰して見て、足りないものを持ってくるとか、という眼が大事だと思います。  

「人生の1割は自分で作り、9割はどう捉えるかだ。」と言う言葉がありますが、思い通りに行かないことはたくさんあり、9割はうまくいかないと思ったら、むしゃくしゃすることもないし、落ち込むことも少ない。  失敗したとしても、その失敗を生かしていけば、それはすでに失敗ではない。  いろんなことを活かしながらポジティブに生きて行きたいです。  小さなことに感謝しながら生きて行ければと思っています。  4スタンス理論を今も勉強していて、本を執筆していて、いろいろ悩んでいる方にも読んでいただけたらと思います。


2022年5月5日木曜日

藤井敏男(農学博士)          ・アジサイの花を母に捧ぐ

 藤井敏男(農学博士)          ・アジサイの花を母に捧ぐ

長年農業試験場で品種改良に取り組んできた藤井さんは、紫陽花の花に魅せられて58歳で紫陽花研究者として国内初の農学博士になりました。  その後栃木県小山市を拠点に酸性の土で栽培しても紅色に咲く紫陽花の品種を開発したり、甘茶の原料となる甘茶紫陽花の収量?登録に成功したり紫陽花の第一人者として研究と普及に努めています。  品種改良への尽きぬ情熱や紫陽花に込めた亡き母への想いについて伺います。

私が作り出したのはどんな土でも最終的に赤になるという品種です。  ブルーに見えるものも赤に変わってゆくんです。  人気なのは白寿紅(はくじゅっこう)と言う品種で最初は純白から土に関わらず鮮赤色という紅ショウガのような色になります。  白寿紅は10年前に出来上がっていましたが、名前をどうするかと思っていまして白と紅は決まっていたがしっくりくるものがなくて、7年前に大病を患ってその先生から「寿」がいいのではないかと言われて決めました。   母はとっても私を可愛がってくれまして、女手一つで3人の子供を育てました。    三途の川の向こうから迎えに来た時に、この花を見せたいと思っていて、母が「いい花を作ったね」といってくださるのではないかと思っています。  母にはいつも敬語を使いたいと思っています。  いつまでも元気でいて欲しいという思いで白寿紅としました。

大学を卒業してから栃木県の農業試験場でビール麦の品種改良研究をしていました。   中学校の時に鳩と出会ってのめり込んでしまって、成績が悪くなったが、先生から一つ事にのめり込むことは良いことだと言われて、それからは絶好調でした。   10年間鳩にのめり込み、育種に生きるという事になりました。   栃木県はビール麦では日本一でしたが、土の中のウイルス病で甚大な被害を受けていました。   薬はなく対策は品種改良しかなく16年かかって完成して一気に被害がなくなりました。   その後水稲を3年費やし19年携わりました。   42歳の時に試験場から出した稲の種が間違っていたという事故があり、担当になり県庁に呼び出されて疲れて、県立美術館にいったら田中一村展をやっていて、世の中にはこんな人もいるんだという事で、辞表を出しました。  

その後花の販売をやっていて、花弁が白い紫陽花がヒットして、あれを扱えと先輩から言われて、それが紫陽花との縁の始まりでした。   45歳の時に栃木花センターが出来て、紫陽花展をやらないかと言われて受けました。   世界の珍しい紫陽花展と言う触れ込みでやろうといいことで、日本でただ一人しかない練馬の山本さんのところにあるかしわ葉紫陽花を借りようとしたら、叱られました。  でも貸してもらって展示したら大盛況でした。  山本先生とは4回お会いして私の人生が決まりました。   紫陽花は日本では忌み嫌われた花で、花弁が4枚で死につながり、場所が変わると色が変わるので、忠義忠節の心がない、咲き終わっても散らずに固まっていて、生に執着する花という事でした。   研究者がいないのはそのせいだと言われました。  日本が紫陽花の原産国でもあるが、研究者もいない。  品種改良は全てヨーロッパに先行された。  私は紫陽花の研究に携わりたいと思いました。

甘茶は紫陽花から作ります。  30年前に京都薬科大学の、甘茶エキスには歯周病菌に特異的な抗菌成分が入っているという資料を見て、これを増やそうと思いました。  ビール麦研究の延長線上の私の仕事だと思いました。  これが藤井甘茶1号という私が作った甘茶です。  フィロズルチンという成分でノンカロリーです。  砂糖の400倍甘いと言われていますが、それが数%入っています。 

紫陽花には3つの種類があり、①浜紫陽花(伊豆半島、三宅島あたり) ②山紫陽花(関東から九州の山中)③蝦夷紫陽花(新潟から北海道)  日本の庭で真っ赤に咲くものを作りたいと思いました。   大きな道路脇でその種を見つけました。  それを品種改良していきましたが、苦労しました。   枝垂れてしまうのが欠点で16年目に或る時に支えを辞めてしまったら出来ました。  歌は大好きで「白寿紅」の歌を作詞作曲しました。   

母は84歳で亡くなりましたが、70歳から川柳、短歌、俳句を老人大学で学びました。    「あと五分だけ寝せてねと若き日の働きずくめの母のぬくもり」  藤井敏男 

新たな紫陽花の見せ方をやってみたいです。   ヨーロッパに行ってみたいと思っています、オランダで10年に一回開かれる博覧会がり8月25日なので参加すべく冷蔵庫を使って咲く時期を合わせようとしています。   私は一見山あり谷ありの人生だったように思うかもしれないが、私自身は何一つ変わっていないです。   母の教え通り真っすぐに正直に生きる、赤貧のなかで育ちましたが、周りはなんかの原因で変わっていきましたが、それに合わせることができない、様々な苦労がありましたが、様々な幸運に恵まれました。

2022年5月4日水曜日

小野和子(民話採訪者)         ・民話に魅かれて半世紀

小野和子(民話採訪者)         ・民話に魅かれて半世紀 

宮城県を中心に50年以上民話を探し求め尋ね歩いてきました。   取りためた録音テープは1000本以上になると言います。   何代にもわたり語り継がれてきた民話は人の息き使いと共に生きた言葉で伝えられてきました。   民話の持つ魅力、生活や暮らしに関わる民話の大切さについて伺います。  

民話採集者と言うのは抵抗感があり、民話採訪者としています。   民話を聞くために歩き始めたのは35歳の時でした。  5人ぐらいの人が集まってきて、それで民話の会と言う名前を名乗りました。    1975年、「宮城民話の会」を立ち上げました。  民話と言う言葉は比較的新しいです。   昭和20年代から30年代にかけて木下順二さんが新潟の昔話をもとにして「夕鶴」を書いて、山本安英さんと言う女優が全国を公演して歩きました。  その時に木下さんは民話劇と言う言葉を使いました。  それが民話と言う言葉が市民権を持った始まりではないかと思います。 そういった話は古くて江戸時代には絵草紙に成ったりしました。  いつ頃からかはわかりません。  

宮城県内を100か所以上回って、同一か所に2,3回多いところでは10回以上も行っています。   最初の頃は電車、バスと歩きで、段々バスの運行がなくなってきて、52歳で運転免許証を取りました。  私は岐阜県生まれですが、結婚して宮城県に移りました。   「文字」などと言う面白い地名があり歩き回りました。 「もじ」ではなく「もんじ」だと言われました。   話はよく覚えていないけど歌ならわかると言ってよく歌われていたという「数え歌」など歌ってもらいました。   話を聞けない時も沢山ありましたが、人々に触れることの嬉しさを肌で感じてきて、それが支えになって今日までやってきたんだと思います。   

昭和9年生まれで、小学校1年生の時に第二次世界大戦がはじまり、小学校5年生の時に戦争が終わりました。  当時、アメリカとか、フランスとかの童話を読むと非国民と言われました。  先生がそう言った本を集めて燃やしたこともありました。  戦争が終わっていろんなものを読みました。  中学でも児童文学を読みました。   大学では卒業論文では小川未明という日本の誇るべき童話作家で美しい童話をたくさん書きましたので、小川未明について書きました。   仙台に民話を語る人がいて紹介されて、聞きに行きました。地元の言葉で良く判らないこともあり、「犬の恩返し」と言う話を原稿に書いて送ってくれました。  犬の話はよく出て来ます。  桃太郎の話では桃が流れてきますが、白い小箱が流れてきたという話です。  箱に対する思想は実は非常に古いんです。  民話は単なる子供だましのおとぎ話という側面もとっても大切ですが、遠い先祖の伝えてきた話であるとも言えます。  

「みやぎ民話の学校」と言うところでは、東日本大震災の時の震災、大津波を語り継ぐために「声なきものの声を聴き、形なきものの形を刻む」と言うテーマで、お話の会をやっています。  私たちは昔話を聞いてきて出来るだけ文字にして広く世のなかの人に知って貰おうと努力してきましたが、文字で読むのではなくて耳で聞いて欲しいわけなんです。   民話を語ってくれるおじいさんやおばあさんが私の周りにはたくさんいるので、多くの人に聞いて欲しいと思って「みやぎ民話の学校」を開きました。  震災の年の2011年の夏にも民話の学校を開く予定でいましたが、語りの方がみんな津波に会って被害に遭って、体験を語っていただくことにしようという事になり、全国に呼び掛けました。   200人ぐらいが集まり、6人に語っていただきました。   貴重な歴史を残しているんだと思います。  本当は口から口に伝わって行くところに意味があるんですね。  文字にすると死んでしまうところもあるものですから、文字を言葉に置き換えて言ってくださるからが増えるといいなと思っています。  語り継がれた話には本当に深い意味などが得々と流れていると思いますので、そういうところに光をあてていきたいなあと思いますし、伝承してゆく何かを作っていけたらいいなと思っています。 


2022年5月3日火曜日

信友直子(映画監督)          ・認知症の母と支えた父の物語

 信友直子(映画監督)          ・認知症の母と支えた父の物語

4年前に、認知症の母と介護にあたる父の日常を描いた映画「ぼけますから、宜しくお願いします」を制作、自主上映が全国に広がりおよそ20万人が鑑賞し、自ら執筆した本も多くの人に読まれました。   その後母は脳梗塞も発症、2020年夏に亡くなりました。  信友さんは老夫婦の介護の日常や90歳を越えて様々な家事を始めた父の奮闘ぶりなど、新たな発見を映像にまとめて、続編の「ぼけますから、宜しくお願いします、お帰りお母さん」を制作、3月末から順時公開され,合わせて書籍の続編も出版されました。  認知症の介護体験から感じたこと、映画や書籍から伝えたいことなど伺いました。

15年前に乳がんを発症、宣告されたのは45歳の時でした。  仕事が面白くて夜あまり寝る暇もなくやってましたが、身体が悲鳴を上げたという感じです。    癌は死を連想するのでショックで一気に落ち込みました。    カメラでいろんなものを撮るのが趣味でもあり仕事でもありました。   両親も撮っていましたが、撮っているのが普通の状態だったので癌になった時に凄く怖いが、いつもやっていることをやっていれば、その怖さから逃げられるんじゃないかとも思いました。   好奇心が強いので自分が癌になってしまって精神的にも肉体的にもどうなってしまうのか、そういう興味もありました。   その闘病記がテレビで放映されました。

両親は広島県呉市に住んでいますが、毎日のように母とは電話をしていましたが、こんな事があったという事が前に話をしたのと一緒でした。   ちょっとおかしいと思いました。(10年ぐらい前)   病院に検査に行きましたが、事前に認知症に関する知識を本から得ていて、テストでは30点満点中29点を取って、その時にはアルツハイマーだとは言われませんでした。   1年半経って、2回目は知識を得ようとする気力もなく、今日は何月何日だろうと私に聞いてきました。  そこまで進行しているんだと思いました。    相性が合えば進行を遅らせられる薬をいただきました。   父は93歳になっていて耳が遠くて、私が東京を引き払って面倒を見る様かなと思って話したら、父が面倒を見るから東京で仕事をやりなさいと言っていました。   介護サービスについては父が頑として反対しました。   2000年ぐらいから両親の映像を趣味の一環で撮っていました。  母が認知症になったのは2012,3年ぐらいからでした。    呉の地域包括支援センターの方に映像を見てもらったら、心配だから両親に合わせて欲しいと言われて、ちょっとづつ介護の窓口が広がってって行きました。  

フジテレビの番組で放送したら凄く反響があって、映画化しようという話もありどんどん進んでいきました。    母はいろんな自分の葛藤を私に話してくれたので、家族はそれに対してどうやって寄り沿ってあげればいいのか、考えて欲しいと思って、皆さんに映像をお見せしたいと思いました。   タイトルは「ぼけますから、宜しくお願いします」   2017年正月に母が「今年はぼけますから、宜しくお願いします」といったんです。    暴言を吐いたり、暴力をふるう時もありましたが、普段通りの時もあって、振り回されると振り回され損だと思って、学習して行きました。  カメラを持っていたという事は凄く役に立ちました。   引いた眼で見られる。  父はこれも運命だと達観しているような感じでした。   母が何か出来なくなったり、物忘れをするようになると「これは病気じゃけんしょうがない、わしがするけんそれでええじゃろう」といってやっていました。   母の気分が楽になるような声掛けが出来ていたのは凄いなと思いました。  

一作目は20万人以上が観ました。  両親がごく普通の親だったので、自身の両親とか、自身に重ね合わせてみることが出来たのがよかったんじゃないかと思います。   4年経って続編の「ぼけますから、宜しくお願いします、お帰りお母さん」が出来ました。   母が脳梗塞で倒れてからは、母を撮っていると自分でも辛かった。   察してか父がどんどん明るくなって、父を撮っていることで私も気持ちが楽になり、父のことを大切に編集していこうと思いました。  母が脳梗塞で倒れて一度だけ家に帰るシーンがありますが、私も泣きながら撮りましたし、一番印象に残っているシーンです。  父は何とか家に母を連れて帰ったやりたいという思いで凄く頑張りました。  それまでは淡々としていたようですが、母が弱ってからは愛の深さに感動してしまいました。   母が認知症にならなければ、父は家事、介護を身を粉にしてやったりするいい夫なんだという事に私は気が付かなかったと思います。   ラブラブでスキンシップをするのも母の認知症のなせる業ではないかと思ったりします。   

コロナ禍で実家に戻って父と一緒に過ごしていました。  病院で母に会ったら、娘が帰ってきたのなら父も安心だろうと思って、あの時期に母は旅立ったのかなあと思いました。 6月1日に危篤だと言われて父と一緒に行って、「おっかあ わしが来たで」と言ったら元気になって、毎日面会が出来て、私は楽しい想い出話をしたら眼に涙が溜まったりしました。  父は「また あのハンバーグ食べに行こうや」と言ったんです。  ファミレスで高校生のようなデートをしていたんです。  宝物のような2週間を過ごして、それまで30分間の面会でしたが、6月13日にはずーっといてもいいですと言われて、「わしは挨拶はせんよ」と言っていた父が、夜に「おっかあ 今までありがとね わしゃあ あんたが女房でほんとによかったわ いい人生じゃった  ほんまに幸せな人生をありがとね」と言ったんです。  「向こうで又仲良く暮らそうや」と言ったら又母の目に涙が溜まって、凄い瞬間に立ち会ったと思いました。  

介護の先輩から頂いた言葉があって「介護は親が命懸けでしてくれる最後の子育てなんですよ」と言われました。   母は命がけで生きて老いて弱って旅立ってゆくという事を全部見せてくれて、又あの世で会おうという別れ方をして、感謝と言う言葉が一番合うなと思います。  

2022年5月2日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】小島ゆかり

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】小島ゆかり 

小島さんは1956年愛知県生まれ、早稲田大学在学中にコスモス短歌会に入会します。  2006年、『憂春』で第40回迢空賞受賞 2015年、『泥と青葉』で第26回斎藤茂吉短歌文学賞受賞 2017年、『馬上』で第67回芸術選奨文部科学大臣賞受賞 紫綬褒章受章。  去年刊行された最新歌集「雪麻呂」は高い評価を受け、詩人の大岡信さんをたたえる大岡信賞の第3回の受賞者にも選ばれています。

春から初夏の好きな歌を選んでもらいました。  春も初春、中春、晩春があり夏に行く途中のニュアンス、初夏、薄暑とか繊細な季節感は日本の文芸とは切り離せないものです。   

春さればしだり柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも」 柿本人麻呂歌集 万葉集巻10の作品

柿本人麻呂歌集は必ずしも人麻呂の歌ではない、人麻呂の歌ではあるかもしれないが、基本的には作者が判らない。  この歌も作者は判らない。

「春がやって来るとしだれ柳に新芽がついてしなって重くなって、それほどに妹は私の心に乗ってしまった。  重い存在になってしまった。」  

「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」    大伴家持       空に上がってゆくひばりの光を浴びている明るいものを見て、自分は地上にいて物思いをして、心が沈んでいるという、これはコントラストですかね。  天のひばりの明と地上の暗ではっきり分かれている。 

*「早くって言おうとひらく口に花とびこんできて言葉は泡」  くどうれいん     花は桜かなと思います。  早くと彼女は言おうとしたが、開いた口に花びらが飛び込んできて言葉は泡、という情景です。  恋の歌だと思います。  早く何なのか想像するところがいいと思います。   リズムが素晴らしいと思います。  

 まりもちて遊婦こともを毬も多ぬことも見ほるゝ山さくらはな」     北原白秋   まりをもって無心に遊んでいる子供を、子供を見惚れているまりもたない子供がいて、おそらくジェラシ-とかコンプレックスが育つ直前ぐらいで、ただ見惚れている、ここを歌っているのがいいなあと思います。   これからどういう風に二人の人生ドラマがあるのか、と思ったりします。

ほととぎす 空声して 卯の花の 垣根も白く月ぞ出でぬる」  玉葉和歌集 永福門院  初夏と言っていいと思いますが、ほととぎすが中空に声が聞こえてきて、白い卯の花が垣根に咲いていて、夕方の早い時間に月が出てきた。  ほととぎすが来ると夏がやって来るなあと言うような感じです。   ほととぎすを耳で聞き、花が目に見えて、遠くに月が見えて感覚が何重にも重なって来るような歌ですね。

*「春疾風て高速道路入口の門番に美しき娘あれ」       塚本邦雄         春疾風と高速道路の速さが結びついていると思いますが、そこには居ない娘を出してくるというところに塚本さんの新しさを感じます。    自然物でないもので自然を歌うという世界ですね。  

「旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に」    若山牧水       青春の5年ぐらい、年上の人と苦しい恋をして非常に傷ついて絶望に打ちひしがれて、その後出会った人が奥さんになった太田喜志子さんと言う方で、結婚して信州の海のないところなので、海に行こうと約束していたらしい。   いざ行こうとしたらお金がなくて、じゃあ一人で行ってくるよと。  

あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ」  永井陽子          不思議な歌です。  哀れ花びら流れ、で始まる三好達治の詩がありますが、その本歌取りじゃないかと思いますが、東洋の春と言うのも不思議じゃないですか。 西洋からガリレオが望遠鏡で花びらを眺めている、どうしたらこんな歌が出来るんだろうと思います。

*「東山動物園のかばが好き青葉の頃の若い福子が」      坪内 稔典           福子はかばの名前。  重吉の奥さんが福子で、二代目重吉が凄く有名で福子は三代目で凄くたくさんの子供が生まれて、子供たちはいろんな動物園に貰われて行って、次に又生まれてゆく。  

リスナーの作品 

*「笑顔しか思い出せないもういない貰ったシール使えずにいる」   ゆうかりん 

*「雷が落ちぬようにと電気を消してコラだけで見るトムとジェリー」 伊藤弘道 

*「春風にグーでパンチをするように窓から手を出し蜘蛛を放った」 大西瞳

*印は漢字、かな、氏名など間違ってる可能性があります。


2022年5月1日日曜日

宮川彬良(作曲家・舞台音楽家)     ・今こそ音楽を楽しもう!

 宮川彬良(作曲家・舞台音楽家)     ・今こそ音楽を楽しもう!

還暦記念という事で初のエッセーを出しました。  「アキラさんは音楽を楽しむ天才」、これまでの音楽活動を振り返っています。   作曲家を目指したきっかけは、作曲家の父の家に生まれてしまったという事以外に理由は無いですね。   父は宮川泰宇宙戦艦ヤマト』『恋のバカンス』などで知られている。  小学校1、2年生で作曲家になりたいと作文に書いています。    当時はまだ父の凄さを理解していませんでした。   小学校3,4年生の時に「ゲバゲバ90分」と言う番組が始まって、放送の翌日に学校に行く時の行列で、みんなが放送の最初と最後にかかる音楽を、1,2回で覚えて歌っているんです。  それにはびっくりしました。  あの曲で父の凄さを知りました。    

作曲家になるのは無理だとか、諦めるだとか、広い意味ではなかったです。   メロディーに対するコンプレックスは凄くありました。   20歳代に宝塚歌劇の仕事をして、LPレコードが出来て家で父と一緒に聞いた時に、「本当にお前が書いたのか」と言うんです。 「サウンド、編曲は素晴らしいが、なんだこのメロディーは。」と言われてしまいました。    答えが出るまで何年、何十年とかかりました。   蜷川幸雄さんと出会って、蜷川演劇の芝居の音楽を作った時に、初めて開眼したものがありました。   その時からメロディーが書けるようになりました。(35歳ごろ)   その戯曲は寺山修司の原作で「身毒丸」でした。  母親が歌ってくれた子守歌のメロディーを思い出して、メロディーを思い出せばいいんだと、自分の中にもあるんだと思えたら、メロディーが書けるようになっちゃいました。   書いたものを蜷川さんのところに持っていったら「いいよ」と褒められました。  

それから5年後に神野美伽さんの歌を作るチャンスに恵まれました。   「手紙」と言う曲を作りましたが、同じアプローチで作りました。   父親から「お前もようやくこの境地に入ったね。」と言われ嬉しかったです。    43歳ごろにヒットして世間に知られるようになって、NHKの芸能部の人が父に聞かせたそうで、そうしたら「なんだこのふざけた曲は」って言ったそうです。   それが「マツケンサンバ2」で鉱脈を当てる前の曲でした。   NHKの芸能部の人が作曲者名を言ったら、父は二の句が継げないで苦笑していたそうです。  「マツケンサンバ2」の歌詞がFAXで送られてきた時に、歌詞を見てすぐに頭のなかで出来上がって歌えてしまいました。  ピアノで確認しながら楽譜を書いてしまいました。   

父を越えたいという思いがありましたが、悔しがるのもいいかなと思います。      僕は流行するというような前提条件は、若い時から捨ててしまっているので、スランプと感じることはなかったです。   命のことを掘り下げて考えてゆくと間違いはないですね。  この台本に音楽をつけてくださいと言われると、これは命の物語だと読めるかどうか、そういう風に咀嚼して、取り組めることが出来るかどうか、そうすると常にフレッシュでいられる。   そうするとスランプにはなりようがない。  命の物差しに関わってゆくと、自分の言いたいことがはっきりしてきて、そうなると人の評価は関係ない。  そういう取り組み方をしています。  

*「明日の朝 神様がいらっしゃるよ」  作曲:宮川彬良