2022年3月7日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

木下龍也さんは1988年生まれ、山口県出身。  コピーライターを目指さしていた時に穂村さんの歌集「ラインマーカーズ」に出会い、短歌の魅力に引き込まれ、23歳で短歌を作り始めます。  あっという間に雑誌や新聞の投稿欄の常連になります。  2013年第一歌集『つむじ風、ここにあります』 2016年に第二歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』を出版。  2018年には  岡野 大嗣さんとの共著歌集 『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』は小説家の舞城王太郎さんによる短編が冊子として挟み込まれ、新しい読者を開拓したと話題になりました。  2019年には詩人の谷川俊太郎さん、岡野 大嗣さんとの3人で『今日は誰にも愛されたかった』を発表します。  又木下さんはお題を受けて歌を作る短歌の個人販売のプロジェクト「あなたのための短歌一首」を続けていて、『あなたのための短歌』が去年発売されました。

雑誌の投稿欄で初めて見て、切れ味の鋭い歌でこの人は一体誰なんだろうと思いました。  

コピーライターを目指していましたが、先生から合わないと言われ、書く仕事をしたかった。 書店で歌集「ラインマーカーズ」を読んで穂村さんがきっかけで短歌を始めました。  「ラインマーカーズ」を読んだ当日に、穂村さんの「短歌ください」送って、初めて作った短歌が雑誌に載りました。   投稿するようになりました。  

「友達の遺品のメガネに付いていた指紋を癖で拭いてしまった 」  岡野 大嗣      はっとするような歌です。  友達の存在が宿っていた、指紋は一回拭いたら再現が出来ない。  

*「どこまでも船には波がついてきて遠くに来ても寂しくないね」   中村光       船には波がついてきて、当然すぎる言葉が置かれていて 遠くに来ても寂しくないねというのはきっとさみしいんだという事が想像できる。  切なく優しい歌だと思います。     

*「シロナガスクジラのお腹でわたしたち溶けるのを待つみたいに始発」  上坂あゆみ   始発電車を待っている時の気持ち。  「・・・・・みたいに」、までが比喩でうまいなあと思います。

*「住んでいた市の封筒の愛おしさ黄緑色でダサい市章の」    水谷あい        住んでいた当時の市の愛おしさを感じる歌、言葉の置き方が凄く丁寧です。  愛おしさが先にあることでダサい市章も温かみを感じる。 サ行が入っていて、黄緑色だけ違うがそれが浮き立つ。  

*「さささ鳥と母が呼んでる鳥がいて多分これだなさささと走る」   水野あおい     面白い歌です。  多分二人とも鳥の名前は判らない。  

*「一度だけ死なせてしまう幼子が横断歩道を駆けるのを見て」   戸井田けい       心配という優しさの裏で再生されている、ちょっと怖い映像に改めて気づかせてくれる歌。「一度だけ死なせてしまう」というのは心の中の想像。

*「バス停のアクリル板に挟まった羽虫が発車時刻を隠す」    トロン        羽虫は意識して死んでそうなったとは思えないが、人間もそのように何のために生きているのか、自分の死ぬ事の意味など一切わからない。  神様の次元からすると、その人の生と死にはなんか意味が見えているのかも。

*「トースター開けたら昨日のトーストが入ったままでゆっくり閉じる」  島風香     「ゆっくり閉じる」は微妙な心の位置で、なかなかない形の記憶に残る歌になっている。

*「青空を遮るものが瞼ではない時距離に手が差し込める」    森口ポルポ       意味が判っているものをわざわざ判らない目でみて、もう一度組み立て直すと違うものに見える。  

*「鮭の死を米で包んでまた更に海苔で包んだあれが食べたい」   木下龍也       おにぎりなんだけど分解している。   前句と同様なもの

*「ゴミ箱と食パンを買うゴミ箱に食パンを入れレジまで運ぶ」   木下龍也       本当にやったことですが、自分は駄目なことをしているのではないかと、実体験をもとに作りました。  

*「キスに目を閉じないなんてまさかお前天使に魂を売ったのか」  穂村弘        「悪魔に魂を売る」という慣用句があるが、それを反転しました。

リスナーの作品   

*「あらパンを忘れちゃったと笑う妻小走りコンビニ朝日眩しく」   関本章太郎

*「皆使う修学旅行でドライヤー宿に着くなりブレーカー落つ」    白井義彦

*印は漢字、かな等、および名前表記が違っている可能性があります。




2022年3月6日日曜日

緒方恵美(声優・アーティスト)     ・【時代を創った声】

 緒方恵美(声優・アーティスト)     ・【時代を創った声】

アニメ「幽遊白書」のきつねの妖怪「蔵馬」、「新世紀エヴァンゲリオン」の「碇シンジ」、「美少女戦士セーラームーン」の「セーラーウラヌス」、劇場版「呪術廻戦0」の主役「乙骨憂太」役など数多くのアニメ、ゲームに出演しながら音楽活動、ラジオパーソナリティーとしても活躍しています。  

声優としてデビューして30年になります。  劇場版「呪術廻戦0」、コロナ禍でキャッチボールが出来ないとか、しにくいとか、そういう状況下で臨むにはやはり大変な事でした。   生の空気を感じてやるのとはだいぶ違うし、若手がそういやって人と掛け合う仕事がちゃんとできない状態が続いていて、人によっては一度も誰かと掛け合ったことがないというような状態の若手もいます。  人と会わないという事は心が動かなくなって行くと思います。    若手育成の私塾をやっていますが、2か月休み、2か月リモートで授業して4か月後に再開してやりましたが、良い感じでいた人たちが驚くほど心が動かなくなって、身体も動かなくなったり、声の出る量も違って居たりして、人と会わないことはやっぱり衰えるものだと思いました。  

3歳からピアノを始めました。  父がトロンボーンを吹いていて、オーケストラなどでやっていましたが、心臓を悪くして音楽は辞めてしまいました。  母は声楽をやっていて、家中にクラシックが鳴っているような家に育ちました。   途中から洋楽が好きにありました。   芝居をやるとはちっとも思っていませんでした。   小学校の学芸会ではピアノを弾くか踊りをやるかというような感じでした。   小学校6年生の学芸会でおばあさんの「卑弥呼」役がありましたが、みんながやりたがらなくて、私がやる事になりました。  終わった後に拍手があり、握手も求められてきて、お芝居をすると友達もでき、仲良くできるというようなことが頭に刷り込まれました。   高校では或るプロダクションの養成施設に応募してみたらすぐ仕事をいただけてしまいました。   TV、舞台とか出られて、自分ではちょっと勘違いていて、後で思うと使い勝手がいいから仕事が来たんだと思いました。   学校が芸能活動禁止だと知らなくて、すぐに見つかって仕事を辞める事になりました。   

反対されたことで、芸能活動をやってみようかと思いました。  父は反対でした。   普通の大学に行くなら芝居をしてもいいと父から言われました。   静岡の大学だったことを知らずにいて、そこではお芝居の活動はできないので1年で辞めてきたら勘当されて、その後父が折れて、オペラの専門学校に行くならば許してやるという事になりました。  ミュージカル科が新設されることになり、黙ってそちらに申請を出してしまいました。   中学時代に痛めたヘルニアが再発するようになってしまって、稽古、本番で再発するようになってしまいました。  プロで踊るのは無理だと思いました。   劇団も解散することになり辞めようと思ったら、プロデューサーの方から少年役とかでステージに立つととても花があるので、声を活かして声優さんになったらいいんじゃないのと勧められました。   

「幽遊白書」のオーディションを受けて「蔵馬」役が決まりました。 (1992年)    声優になる前は正直言って声優の仕事をなめていました。  舞台の本読みみたいなものだろうと思っていました。   そうではなくて、舞台で1か月の稽古をかけて作る役を一瞬で、一日で作らなければならないのが声優だと気づいた時にこれはやばいところに来てしまったと思いました。  ボールがどこに当たったのか、想像すると、当たる場所によって声の状況も違うので、それなりの筋肉が動いていないとその声にはならない。  という事は芝居とおなじで体を動かさないといけない。  突き詰めてゆくと、いろいろな表現方法があって、すべて自分の想像力で補うという仕事なので、面白いなあと思います。  肉体トレーニングはしなくてはいけないし、想像力も鍛えないと追いつかないと思います。    

1993年に「美少女戦士セーラームーン」、1995年に「新世紀エヴァンゲリオン」。    一番苦しんだのは30代だと思います。  人は生きてゆくときに自分を守るために鎧を身に付けてゆくわけですね。  必要に応じて自分に着けてしまった鎧をはぎ取る事が大事で、それを見せるためにはぎ取ることが必要です。  自分が14歳のハートをずっと持ち続けているという事は14歳レベルで、世の中のニュースとかいろんなことを捉えるという事を常にやらなければならないと思っていました。  新しい鎧が自分についてきてしまうので、その鎧をはぎ取ろうとして、その目線で世の中のすべてを見ようとする作業をするときに、凄く苦しくて、辞めたいと思いました。  ずっと吐きそうな毎日を過ごしていました。  それは自分に必要だと感じていました。  そんな時に「新世紀エヴァンゲリオン」が始まってやり始めて、「君だけが14歳の気持ちを持ち続けてくれたから新しい映画が出来た。 ずっと持ち続けてくれてありがとう。」と言ってくれて庵野さん(監督)だけが気が付いてくれました。   

若い声優さんには厳しいですが「なりたいですね、でもまずなれないですよ」と言っています。  なりたい人がなる仕事ではなくて、選ばれてなる仕事で、選ばれる人というととても大変ですし、まず選ばれないので(1万人に一人しか)、1万人に一人をどうやって証明しますか、というところです。  努力を重ねられる人だけが選ばれる可能性があるというみたいな仕事です。  今はセルフプロデュースする人でないと無理だと思います。  自分を知って自分の価値を自分が高められる人。  そしてどうアピールするか。






2022年3月5日土曜日

小林栄美香(NPO法人 笑みだち会代表)  ・"ふつう"になりたい~顔に苦しむ口唇口蓋裂の女性の叫び~

 小林栄美香(NPO法人 笑みだち会代表)  ・"ふつう"になりたい~顔に苦しむ口唇口蓋裂の女性の叫び~

大阪府在住、28歳。 口唇口蓋裂という病気をご存じでしょうか。   大阪大学名誉教授の古郷幹彦さんによりますと、口唇口蓋裂:母親の胎内で上唇、歯茎、上顎の左右がくっつかずに左右に裂けた状態で生まれることで、食べる、飲む、話すと言った口腔の機能が失われる原因不明の病気です、という事です。  日本国内では生まれた赤ちゃんのおよそ1/600人とされていますが、形成手術、あるいはリハビリを繰り返して治療することが出来ます。  ただ長年治療や言語訓練を受けても発声や発音が明瞭にならない場合があるなど、患者さんたちは日常で様々な苦労を抱えています。  小林栄美香さん自身口唇口蓋裂の患者さんのひとりです。 なかなか自分の顔が好きになれず周囲の言動に傷付きながらも28年間口唇口蓋裂と向き合い、現在は患者の会を立ち上げて口唇口蓋裂を知って貰おうと取り組んでいます。

生まれた時に鼻と唇がかけた状態で生まれました。  開き具合がかなり大きくて手術をするにもかなり時間がかかる状況だったと親、先生に伺っています。  3か月で手術をしました。生まれた時の写真を見た時にはショックでした。(思春期)   母は歯科衛生士だったので知識があったので、治る病気であると楽観的に受け入れていました。  父親は吃驚して帰りの車で泣きじゃくっていたそうです。  母親もこれから何が起こるかわからないと言われた時には失神しそうになりそこからが親の戦いが始まったというように言っていました。   小学校では鼻がぺっちゃんこだとか、何言っているのかわからないとか、いろいろ言われました。  円形脱毛症になってしまいました。   中学時代は2年間学校に行けませんでした。   自分自身でも壁を作ってしまったし、会話の中に入れませんでした。   指をさされたりして対人恐怖症になってしまいました。  

行きたい高校を調べて行かせてもらって、自分自身も変えたいという意欲が出て来ました。 親友と一緒にメイクをして楽しみました。  恋愛もしたしそういった話も輪の中に入ってできました。   高校でも手術をしましたが、親友が励ましてくれました。   楽しい高校生活を送れましたが、反面悔しいこともありました。    4回手術をしましたが、8時間を超える手術もありました。   手術のストレスからパニック障害も発症してしまい苦しかったです。   

2015年からブログ、「私重度の口唇口蓋裂です」を立ち上げました。   2014年には口唇口蓋裂の治療は峠を越えたと自分自身思って、何か発信していきたいと思っていて、私のブログを見て励みになってくれれば嬉しと思いました。  色々と励みになったとか、救われましたという反応をいただきました。  発信してよかったと改めて思いました。   交流会をという要望があり、交流会を立ち上げました。  「笑みだち会」という名前です。  私の名前「栄美香」に友達をかけて、笑顔溢れる友達のような関係性を作れる患者会にしたいと思って「笑みだち会」にしました。   親御さんのものと当事者と二つありそれぞれ20名程度で15回ぐらい開催していました。(現在はコロナ禍でオンラインで行っている。)  2時間ほど行っていて、全国から参加していて、アメリカ、ヨーロッパなどから参加していただいたりしています。   自分の気持ちを判ってもらえる安心感から話してもらえて、共有、共感して励まし合ったりしています。  もっと口唇口蓋裂のことを知って貰いたいと思って行動しています。  コロナでマスクをすることでこんなに視線を浴びないものだという事を知りました。  

小林さんの主治医を20年間してきた大阪大学名誉教授の古郷幹彦さんは、「口唇口蓋裂の治療の終わりは本人の笑顔の顔写真を撮って、本人が心から笑えている写真が撮れたらゴールとしている。  小林さんの場合は写真を撮っていないけれども今年3月で終わる予定だ。」と話しています。  




2022年3月4日金曜日

川村喜一(写真家)           ・知床が教えてくれた「自然になりきる力」

 川村喜一(写真家)           ・知床が教えてくれた「自然になりきる力」

東京生まれ、32歳。  東京芸術大学大学院を卒業後、5年前に北海道の北東にある知床に移住しています。   知床の自然に息づく命を見つめた写真集が話題になるなど、今注目を集めている若手写真家です。   川村さんは知床に来てから免許を取得して狩猟を行うようになりました。  知床に暮らし狩猟をしながら写真を撮る事で、都会にいた時にはなかった或る大切な感覚を得ることができると言います。  一体それはなんなのか、それが知床が教えてくれた示唆の転換なのかもしれません。

大学院生の頃、旅行で北海道を車でめぐっていて、知床まで行きましたが、真っ暗な中時々動物の目が光るんです。  その視線が強烈でした。  人間本位では扱う事が出来ない世界と向き合ってみたいと思ったんです。   都会とは違う時間の流れがあるように思いました。   そこに自分が身を置いて何が出来るのかとか、考えたいと思いました。  

季節の流れがあってずーっと続いている時間の中で、生きているものなので、一つの点として写真を撮るだけでは繋がり、連続性はなかなか捉えられない。  生きている実感、身体感覚みたいなものがまずあって、それを一つのツールとして写真表現というものがある、という考え方になりました。    身体感覚というのは日常的に感じる肌触り、匂い、とか五感ですね。  肌触り、質感というものを写真の中に閉じ込めたいなあと思っています。  

熊の写真で夜に撮影されたものです。 熊はガードレールに顎を乗せてこちらを見ています。   車の中から車のヘッドライトだけで撮りました。    何かの意志をもってこっちを見つめているんです。    それぞれの視座に立ってゆく中で、自然の中に自分がいるという事が感じられるのかなあと思います。   多様な生き物が住んでいて、それぞれに視座があって複雑な関係の中で、この状態というものが成り立っています。  

彼らのことをもっと知りたいという思いから狩猟を始めました。   都会では感じられない自分の手で触れてゆくことが大事なんじゃないかと思いました。   森のなかではそれぞれの暮らしがあり、自分が見られているという感覚があります。  自分自身が自然化して行く必要性を感じました。    いろんな生き物に対するリスペクトというか、純粋に彼らは凄いなと思います。   そういった過程の方が僕にとっては大事かもしれません。運よく出会えて、こっちも落ち着いている時には鹿もあんまり警戒していない。  そうすると引き金を引ける瞬間になるので、お互い見つめ合う時間があって、お互いが探り合っているような交錯する時間があります。   その時に引き金を引くことが出来ます。   次には命をどう受け取ってゆくかという作業が始まります。   その前後が大事です。  鹿の心臓を手に取っている写真、さばいて内臓を出して、鹿が保ってきた体温というのが一気に冬の寒空に拡散していって、手は熱さを感じて、生きてきたという動物の強さ、温かみを感じられる瞬間です。  解体して切りわけていって、ザックに詰められるだけのものを積んで日暮れのなかをはあはあ言いながら歩いて行きます。  

小鹿の写真もあり、一つの価値観では言い切れない矛盾した感情が悶々と巡っています。  持続可能性は自然に芽生えてくるのかなあと僕は感じます。   自然というものが切り離されたものではなくて、人間も含めていろんな関係性のバランスの中で環境が成り立っていると思っています。   地元の人は取り過ぎるなという事は暗黙の了解を持っているんです。  

北方由来の知床文化があって、北方民族が元々暮らしていた。  海洋民族にとっては先端は出入り口に過ぎないと感じます。    知床には漁師、農家、猟師がいて、狩猟文化と農耕文化がハイブリットに融合している場所じゃないかと思います。    畑には大きな岩があったりして開拓の痕跡とかを肌で感じます。   農家の方が畑を守るためでもあるし、森に入って行って鹿を獲って来るという方もいます。   開拓したところを森に戻す運動も100年単位の時間軸でやっています。   

高校時代、画一的、人間関係の不信、受験、とかの中で凄く息苦しくなってしまって、大学受験を通して美術に出会って、アートの多様性に触れて、そこで一つ救われたような思いがありました。   多様性を受け入れられる寛容性を学ぶことが出来て、アートをやってよかったと思います   知床に来て人間の世界だけではない、視座が広がりました。   自分の見えているものがすべてでもないし、なるものはなるし、ならないものはならないので、しょうがないというようなおおらかさは感じます。   写真は言葉よりは直接的に視覚的に人に伝える能力はあると思っています。   逆に言うとあるものしか写せない。 一枚一枚の写真を積み重ねてゆく中で、いろんな視座を通して縁取ってゆく、かたどってゆく作業かなあと思います。    

2022年3月3日木曜日

2022年3月2日水曜日

2022年3月1日火曜日