2012年5月8日火曜日

柳生博(俳優、日本野鳥の会会長) ・世代を引き継ぐ者たちへ

柳生博(俳優、日本野鳥の会会長)     世代を引き継ぐ者たちへ     
<概要>
山梨県の八ヶ岳山麓の荒れた山林を購入し木を植えて森を作り ここに移り住んで35年経ちました 
この地に観光に来た人たちに鳥のさえずりや花の種類
美しさを知って貰おうと雑木林を解放し散策路も作りました  
茨城県土浦市霞ヶ浦の近くで生れ過ごした柳生さんは年間700本もの番組をこなしていた多忙時代に何故仕事場から遠く離れた八ヶ岳に居を移したのか 祖父からの一言が大きな影響を与えたようです  

カタクリ(紫)と蘭赤梅(黄色い花)が咲くころになると 冬の間は混群で過ごしているが このころになるとそれぞれのペアを探して一緒に行動する様になる
赤ゲラは近くでしか行動しない 皆さえずる様になる  
鳥の会の会長をして10年になる
東京に居る時はときめかない  八ヶ岳では躁状態になる  
以前は荒れ果てていた状態 光が入らない状態だった  
下は熊笹だけ 土はない瓦礫状態だった 草は生えない 
一旦木を切って 色んな木を植えて3年経ってくるとみみずが出てくる
年間700本ぐらいこなしていた頃 自分が落ちてゆくような感じを抱いた    
小さい時に祖父からいろいろ教えてもらった 

家業は昔でいう地主だった  里山の維持管理を野良仕事と言っていた   
子供の頃はぐじゅぐじゅしていた人間だった
草刈りを遣る事によって高い草だけではなく低い草も生育出来るようになる 
少年時代に野良仕事を祖父から指導される
小学校3年で終戦になって剣道(祖父が剣道7段で教えられた)をしなくてもいいんだと思った覚えがある
八ヶ岳山麓に開拓の人達がいた 満州からの引揚者とか 仕事が無い人達とか が過ごしていた
そこで野良仕事を手伝った(13歳の時に1カ月ぐらい一人で旅に出されていた 八ヶ岳に行く)
高校時代は沢山の映画をみた  当時商船大学が注目されていた  
その学校に行きたかったがいけなかった
本に関しては手当たり次第に読んでいた  
近眼になってしまい、学校には行けなくなってしまった  
「エデンの東」を見て芝居の世界に行きたいと思って劇団俳優座の養成所に入った  
39歳のとき、NHKの朝の連続テレビ小説『いちばん星』に野口雨情役で出演し、テレビ俳優としての地位を確立する
「野良仕事をしなさい」と祖父からの言葉を思い出す

2012年5月7日月曜日

三上博史(俳優)         ・演じること、生きること 2

三上博史(俳優)             演じること、生きること 2   
演技する上で、自分を捨てることに対しては物凄くエネルギーを使ってしまうのでは、自分が残っていていろんな役は出来ない
空っぽの身体に哲学を入れてくる     そうするとその人が出てきてくれる 
自分が残っていると苦しい 
どっかで旅では追いつかなくなって 自分の活動をしなくては、いけないと思ったのが音楽だったそこで出会う人は気の良い人達だった  
暇つぶしにバンドやろうと言う事になりコピーバンドをやっていた  
そのうちにオリジナルバンドをやる様に成る 詩も書いたりする
  
役者は月の活動 月は自ら光を発しない  音楽活動は太陽でありたいと思った
売れなくても太陽の活動をしていても旨くはいかない  
30代終わり頃役者になるのを止めようと思った
天井桟敷の友人たちから声が掛って一緒に演劇をやらないかと言われてやって凄く楽しかった 直接演技をお客さんに届けるのがこんなに楽しいのかと思った
受け取り手の立場に立って演技をしようかなと思うようになった   
舞台の稽古は苦しいが チケットを買った時点で舞台は始まっているんだよと言われて、一つ一つを楽しんでもらえるようか、考えている
     
見せる、見てもらい、楽しんでもらう  視点がいろいろ或る  
色んな映画の色んな演技を使わせてもらったり 旅での出会った有る場面とかぱっと気になった 仕草とか使わして貰っている 
犬からの仕草表現をみたりして参考にもしている 変幻自在の役者 と言われていますが  朗読もやっているが 芥川 「やぶの中」 中々面白い おばあさん 悪党いろいろな人の声をやるので面白い  
朗読でも当人が見える朗読と見えない朗読は違う   
伊勢神宮への奉納(文をもって朗読する)もした

仕事での演技の姿勢は基本的には流されるまま 抗わない 流れるまま   
見てくれる人はどうやったら喜ぶのだろうかとどんどん広がってゆく
役の選択肢が少なくなってきているのと一つ一つの役柄を大切にしたいと思っている  
それで劇に出るのが少なくなってきている事はある
想像出来ないような苦しい中で生活している方、凄く悩んでいる方、心を失ってしまった方、心の襞を無くしてしまった様な方 に対して僕らの出番がある様に思う
心の襞を再生するお手伝いをするとか、感じること、 感じることが生きがいにつながったりするとか、  そんな中に僕らの仕事の価値があるのかなあと自分で思っている 
出来ることをコツコツとやっている
  
同じ時代に生きていて、同じ日本に生きていて、3万人もの人が自殺者いる事が耐えられない 苦しかったんだろうなとか それさえも感じられないように、追い詰められえてしまったんだろうなあと、なんか生き甲斐を一緒にみつけられれば相当避けられる人がいるのでは、その為の要素になる物を作っていきたいが、そのためには、自分の言葉を使わなくてはいけない 
今まで役者として生きてきちゃったので自分の言葉を封印してきた   
公の場としてフィルターが掛ってしまったりするのでそれすらも取っ払って自分の言葉でしゃべってゆくと言う勇気というのが僕に必要になってくるし、其れはもうちょっと時間がかかるのかもしれない    
10代 20代 30代 40代伺ってきて今後はどうですか?  
50代は綺麗に生きたい 醜く生きたくない  
嘘はつかない、裏切らない ねたまない やっかまない 人の足を引っ張らない  
気が付いたら相手を傷つけていたと言うのはまだしも、あえて傷つけているとか そういうものは止めようという 出来るだけそういう風にしたい 

2012年5月6日日曜日

三上博史(俳優)         ・演じること、生きること

三上博史(俳優)             演じること、生きること   
大河ドラマ「平清盛」で鳥羽法皇を演じている  
高校1年の時に寺山修司監督の草迷宮のオーディションに合格 1980代のトレンディードラマ等で個性は俳優としてTV、映画で活躍している  
あえて演じる事を避けて見る  
自分を消しえてゆく それで台本を読んで空いた隙間に入ってくると言う感じ
役に見えるように何でも努力する 
メークひとつ 若い時はスッピン 年を取ると白い色にする 
実在する人物 の場合はリアルにやってゆく 
書簡集では人柄が立体的に見えてくる

平安時代の資料は殆どない 想像力でしかない  
私は大河ドラマは初めてでどういう風にやれば見ている人が楽しむのかなあと考える
鳥羽上皇という役柄は象徴的にして演じないといけないのかなあと大きく演じている
ここ数年舞台で演じてきたことが今回の役に参考になった 
今は撮影は終了してホッとしている  
主役ではないので時々出ているのでそんなに疲れてはいないのかと思ったが 頭の芯がつかれていた
本当に運命とは不思議なものですね と言われる様に 当時は寺山修司さんを知らなくて 77年 アンダーグラウンドはもう一息ついた時代だった

作品なんかも読んだことも無いし  高校1年で今後社会に出るのに7年間掛るだろうと思ってその間に サラリーのいいサラリーマンになろうと思っていて、その間にやれるだけの事をやっておこうと言う決意だけは有った  
友人がたまたま寺山修司の草迷宮のオーディションの新聞記事を持ってきてやって見ようと言う事になり、応募したら通っちゃった
寺山修司の演劇もそれまで見た事も無ければ、本を読んだことも無かった
ただ後付けなんだけれども、知らなかった分、吃驚もしたけれども凄く興味が湧いた
それで演劇は見まくるし、本も読みまくった
それまでの自分の15年間には無かったことなので、兎に角ど素人なので 先ず羞恥心を取る事(すっぽんぽんになって女性の前でギャーッと言ったり) いじめられているのかなと思ったが そうではなくて高尚な演劇論があったりした  俳優論が有ったりした
  
こんなことは学校では味わえないし、最初は変な大人だなと思ったが どんどん泥沼に足を取られていった様な感じだった  
其れからの20歳までの5年間は私に取って大変な事だった   
幸せはお金で買えると思っていた  
内申書を兎に角上げることだけを考えてやっていたので 寺山回りの世界に入った時に僕は目立つ男じゃないなと思った
だから学校に戻って勉強していたがどうも心が騒ぐ  
あそこに戻りたいと言う気持ちが  毎日お祭りみたいだった
人が台詞を間違えるぐらいで何でそんなに怒ってるのと子供心に思ったんですが 皆が真剣なんですよ  

その真剣さとは何なんだろうと思って、物を作ることに吃驚した  
学校には戻るが10代の時にほんの少しだけれども「瀬戸内少年野球団」とか チョコと ちょこっとはやらしてもらった  
どっぷりは使ってはいなかった 受験をするが一浪することになる  
こりゃ駄目だと思っている時に連続ドラマの話が来る
やってみたら演じる事の面白さを感じた  そこからいける所まで行ってみようと思った  
だからスタートは20歳ですね
それから毎年のようにドラマに出る  
寺山修司の世界とバブルの時期のドラマは違う世界だと思うが TVではやりたい役ではなかったが其れなりにこなしてはいた

映画の世界では自分の好きなことができたのでバランスは取れていた
海外にも旅に行っていた 中学の時から一人で行っていた  
顔が知られる様になると不自由になる 
海外に渡ると昔のように過ごせるので自然と海外に行くようになる
旅は自分を取り戻しの時間 確認しながら  ありとあらゆる処に行っていた   
身を任せるというか 計画するとチャンスを逸する様な感じがする(出会いの楽しみ)
良い意味で刹那的 今日一日を精一杯 この演劇を精一杯と 思っている  
其れが繋がるでしょうと 繋がら無かったらしょうが無い、仕事を評価するのは他人だし、自分がいくら頑張りましたと言ったって 頑張った様には見えないですがと言われたり あんたの仕事は暑っ苦しいと言われたらもうしょうがない  

2012年5月4日金曜日

坂本小百合(動物園長62歳)    ・象の楽園を作りたい

坂本小百合(動物園長62歳) 象の楽園を作りたい
<概要>
1949年神奈川県生まれ。アメリカ人の父と日本人の母を持ち、高校卒業後、「明石リタ」としてモデルに
29才の時、動物プロダクションを経営していた前夫と再婚し、それまでの人脈を生かして
動物プロダクションを経営する 「勝浦ぞうの楽園」「市原ぞうの国」園長
市原象の国は千葉県房総半島のほぼ中央の動物園 9頭の象と100種類以上の動物がいます
坂本さんは象を集めた市原動物園を作りたいと思っいたったのは長男の哲夢さんの夢を実現した
かったからです
哲夢さんは象の賢さと優しさに心を奪われ 中学生の時にタイに渡り象使いの訓練を受けます 
やがて帰国した哲夢さんは日本で一番の象使いになります

しかし20歳の若さで交通事故で命を落としてしまいます
かねがね日本に居る象を幸せにしたいと言っていた哲夢さん その哲夢さんの思いに動かされ
坂本さんは市原象の国を作り
勝浦に土地を求めここを象の楽園にしたいと考えています
象使いはタイから来ている 全部で14名いる  手で象を触ったりすることができる 
子供達は大きさに驚いて怖い感じがするが最終的には帰りたくないと言う
市原動物園の特徴 動物が楽しまないといけないと思っている 
動物が楽しまないと飼ってはいけないと思っている
いかに狭い中でも動物たちが生き甲斐を持っている事が必要だと思っている 
自分の人生の中の33年 すごしてきている 動物がハッピーでないといけないと思っている

リピーターが8割以上 動物のえさを販売している 餌を食べさせる事で動物もお客さんも楽しむ 
餌を与えないのが動物園の基本になっているが、園館長会議が有るがそこで話題になる 
こそっと お客さんから餌を与えられて動物はお腹を壊しませんか
噛みついたりしませんかと言われる  こんな質問を10数人から受けてしまった  
いろいろな動物園が少し殻を剥がしたかなと思う
象が9頭いるのは日本で一番多い  カピバラ 温泉に入っているのが話題になっている 
当園では抱く事ができる

新しい動物園建設中でその中に世界で一番危険な動物 と言う事で頑丈な檻があり 
そこに人間が入る 自分自身を写真に収めている光景が面白い
象は凄く賢い動物 ゆめか 5歳はこの動物園で生れた  
戦後象がきたが1、2匹の雌象だった  ワシントン条約で雄、雌1頭を飼うようになってきた
日本で生まれた小象は4頭  ゆめかは絵、漢字、ひらがなを書く事ができる  
ひらがなが一番難しい  絵も花だとか木とかを書いている
色が判るのではないかと思う  10頭から15頭で群れを作り普段は暮らしている  
雄は10歳になると自立する  メスはコミュニティーを作るので複数飼うのが良いと思う

動物園暮らしの象は約50年が寿命 一番寿命が長いのを見たのは70歳  
私は象を単純に楽しいと思っていた 芸をさせるのは宜しくないと或る人が言って丸台に
乗るとか芸をやる為の動作が無くなった 象はフラットな状態で 真っ直ぐに
歩く動作しかしないようになり 運動が不足して筋肉が削げてしまった 
象に取ってみては遊びであったし 運動になっていた
象はお客さんが喜ぶのを理解している お客さんが少ないと頑張り方が少ない
哲夢 中学生の時にタイに行った タイ語を学習する 
 
象にはつぼがいくつかあってそこを刺激すると足を動かすとか、耳を動かすとか動作をする
そのつぼを理解して動作をさせるのと後は 信頼関係   
象使いの訓練を中学から高校にかけて行う  
動物プロダクション 主流は 犬、猫、鳥 他にはタヌキ、イノシシ、やぎ 稀にライオン虎等を
飼っていた  映画、アトラクションに貸し出す仕事
そういう礎が有ったのでこの様に出来るようには成った  
人気の無い動物がいて中々かまってやることが出来ず、これをどうしようかと考えていて
小さな動物園にした
  
袋を作って人参を入れて100円で其れをお客さんに売って狸に餌を与えるやり方を考えて
実施したら狸が嬉しいらしくて段々輝いてきて
退屈していた動物が生き甲斐を持って外を眺められるようになった  
そうか私は動物園をやりたいのだと目覚めるようになった
市原にひと山購入して動物園をつくったがお客さんが来てくれて軌道に乗るまでには随分時間が
かかりましたよ
お客さんに来てもらったらどうしたら120%楽しんでもらえるか どうしたら どうしたらといつも
考えていた

象を動物園の中心にするというのは哲夢への想い  20歳の時に交通事故で哲夢さんは
亡くなってしまう
葬儀の時に象が悲しんだ  生れる時は或る程度の動物は理解する 
ポニーが子供を産んだ時に朝 他の動物も(牛、山羊、馬等)回りを囲んで皆で見ている
新しい命を見ようとする、守ろうとするこの光景は本当に感動した
死に関しては 死んでしまったら、とんと関心を無くしてしまう動物がいる  
例えば突然死するとすると いないものと思って除外視する動物の方が多い
処が象は仲間が亡くなると 何日間は野生でもその場に止まると言われている  
ましてや飼っている象は 其れはそれは悲しみます ずーっと泣いています   
涙を流して
哲夢さんが亡くなって動物園で葬儀が行われて 棺が出る時には象たちは涙を流して一斉に
声を挙げた

霊柩車が出てゆくのを止める様な勢いでした  其れにつられて回り中すすり泣きました  
いなくなってしまってから象はどうしたらいいのか判らなくなってしまって
リーダーを失ってしまった象の群れの様に成ってしまって 広場におりるのもランディー等は
拒んでしまったり 私が登って行ったら広場で象たちが私を囲んで
ママ大丈夫? 大丈夫? と言ってくれているようで 鼻につかまりながら 大丈夫だよと言って
あげたり何回もありしました 
哲夢さんの願いは 日本に来ている象に一頭一頭会って幸せにしてやりたいと思っていた 
 象の気持ちを理解して象と飼育掛りの人との懸け橋になってやりたい
との思いがあった様です  それとタイと日本との懸け橋にもなりたいと言っていた
全国象会議が1年に一回ある  高齢象対策についての会議だった 

自分なりに脚色して大きな山があって象もフリーで食べるものがあって 鎖も無く飼えたら
良いんじゃないですかと その会議で話した  
それまでは会議の内容は足の裏に潰瘍ができてしまったが、どうしたら良いかとか 
病気のこととか、管理面の話題だけだった
そんな壮大な構想の話は初めてだった  
数年後に実現させるとは思わなかった 話した以上何とかやるぞと心の中では思った  
山を購入したがお金がかかってしょうがなかった 
今はただの山に象を飼っている 
勝浦象の楽園 3億円かけたが アメリカの様に寄付があるわけではないので 一人ではできない
共同事業をやってみたいと思うような人がいれば是非にとは思っている
檻の中の動物は幸せに暮らしている  

2012年5月3日木曜日

熊谷喜八(無国籍料理)       ・私の味覚人生

 熊谷喜八(無国籍料理)            私の味覚人生  
厚生労働省の卓越技能賞現代の名工に選ばれる   
フランス料理をベースにジャンルにとらわれない 喜八流無国籍料理
少年時代から憧れのパリに行きたいが為にコックを目指し、アフリカの大使館やフランスの一流料理店で研鑽を積み日本のフレンチの第一人者になりました
「はやぶさ」の技師の方も今回の卓越技能賞に選ばれている 
ほとんどが技術者が選ばれている
葉山で10年間任される1965年に日本に帰ってくる 
当時は高級魚だったが 鰯でもカサゴでも何で使わないのかと思った

新しいフランス料理を作っていた 
私の師匠は世界でも最高峰と言われるジョエル・ロブション  日本人の一番弟子 オリジナルを作りたいと思った
多国籍料理があるがいいとこどりでなくて パンにあう、ワインにあうことが必要
子供時代は食べ物がなにも無い時代であった 
パリに憧れどうしたらパリにいけるかと考えた  
コックさんであったらいける口があると言う事を見付ける 
少年時代は映画が好きだった 
小学校5年生の時に「翼よ!あれがパリの灯だ」というあの凱旋門の上を飛行機が飛んでいて あそこに行きたいと思った
「昼下がりの情事」これもパリの光景があり 兎に角行きたいと思った

中学を出ると家を出てしまった ホテルに行くが中学では門前払いであった  
東京オリンピックを控えてホテルが沢山出来てきて料理人がヘッドハンティングされて
足りなくなり 銀座東急ホテルを皮切りに,洋食の勉強ができた 
初めてアイスクリームを食べることができたのはまさに天国だった  
ホテルでは仕事に没頭した  
22歳でセネガル日本大使館(料理長)に行く フランスの植民地 独立して10年後だった  
ダカールは素晴らしい街並みだった
暑かったが 起きた瞬間から40℃あった  
刺身、納豆が食べたいと言われて海岸で釣りをしている人からこれはいくらだと言って譲ってもらって作ったりした

何でもやってみた 給料が少なく外でたべる事ができなくて、フランス料理の仕方が判らなくて偉く苦労する 
大使館の人から今回のコックは駄目だと言われて,鬱病になってしまい死のうかと思った    
モロッコ日本大使館(料理長)につぎに行く  
フランス語を学ぶ いろんな大使たちが遊びに来る 
将棋囲碁、ブリッジとかを代理で参加をしてその時にいろいろ話の中で,将来どうするのかと聞かれ パリに行きたいと言う  
それでフランスに行くきっかけになる  
三ツ星レストランでは 大変な労働環境だった しかし食材が素晴らしかった   
最後はジョエル・ロブション氏の下に入った 
物をつくる時の戦略 感性 技が凄かった

コンクール荒らしと言われていた 
当時のフランス料理の若手3羽烏と言われていた アラン・デュカス  アラン・サンドラス  ジョエル・ロブション  30歳代だった
日本では徒弟制度(見て覚えろ)と フランスでは直にシェフから教えてもらった  
日本人の向上心は凄いと思う 極めると言う姿勢が凄い 
カステラ一つ取って見ても味は世界で一番 ラーメン然り 
日本人の作ったフランス料理、イタリア料理は本当に素晴らしい  
日本の料理でも野菜だけでも素晴らしい

口に含んだ時の触感 歯触り 香り  料理法プラス 食材の良さ プラス魅せる   
旬感料理 日本は四季がはっきりしている旬の味が矢張り違う
和であろうが、洋であろうが、中であろうが 極めた人の感性は似ている 
容器・・・軽さ、口の当り方  絵でも同じ シャガール 棟方 志功等本物を沢山見る、知る事が大事である
料理は食べる環境があるのでトータルで考える必要がある 
波乱万丈で いろんな人と出会い いろんな国に行って いろんな人と知り合えたことがやっぱり料理の世界にも出てきている様な気がしますね

物を作ってくれている人に恩返しをしたいと思っている 
地方の農業、漁業の再生のお手伝いもしている
特に東北の被災地に行ったり来たりしている 
日本の農業は平均66歳 収入 お金が少ないから後継者がなかなかできないのでは  ,日本の農業技術は世界一だと思う  
リンゴ一つでもこれほど旨いものは無い いちごにしても然り  
農協に出荷するのが最終なので この形を考える必要があると思う  
青いトマトは日本人では食べないが外国では野菜として利用している
付加価値を付けて売る  B級品 C級品に付加価値を付けてやることで収入が増える
東日本大震災 沿岸部は大変 リーダー不在で残念   世界に通用する人材が必要  
いろんな国と接しないと視野が大きく成らない 
視点を変えてどんどん冒険してほしいですね  

2012年5月2日水曜日

大林宣彦(映画監督)       ・映画で伝えたい復興と平和


大林宣彦(映画監督)            映画で伝えたい復興と平和
大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年1月9日 - )は、日本の映画監督。撮影所システムで育った「映画監督」ではないとの理由から本人は「映画作家」と称している
大学在学中から8mmフィルムで作品を発表してコマーシャルで話題作を次々に発表してきました
52年の作品「ハウス」で初めて監督として商業映画を作成してその斬新な映像は若者の心を捕らえました
(7人の少女が生き物のような"家"に食べられてしまうというホラー・ファンタジー)
日本の映像の最前線で新しい世界を開拓し続けています  「この空の花 長岡花火物語」についてお伺いします

3年前 長岡の花火との出会いがあった  仲間と会うのが楽しみで行った 
こんな美しい日本の夕暮れを見たのは初めてだと思った
そしてポッと花火が上がり ゆっくりしんなり花火が消えて行って 夕暮れが少し経ち、又花火がポッと上がるその光景を見ていて涙が出てきてしまった
花火で涙を流すなんて変だなと思った  妻がなんか花火は映画みたいな花火ねと言った   隣の市長にこの花火は心があるのですかと聞いたら    判りましたか 心があるんですよ とおっしゃった   
1945年敗戦の年の終戦の2週間前 8/1の夜の10時30分に敵機来襲 B29の傷痍弾で長岡の街が全滅になった,と同じ時間にサイレンが鳴って花火が上がる  爆撃と同じでしょう 
だから戦争を知っていらっしゃる年配の方々はこんな花火は止めてくれと 思いだすから  
嫌だと だけど戦争を忘れたら 又戦争が起きるかも知れないねと 戦争の恐ろしさ、痛みをしっかり学ぶことで 子供達に其れを伝える事でいつか未来に戦争の無い,穏やかな日をたぐり寄せたいという願いから 1946年から8/1に上げられている
 2004年には忘れもしない中越大地震がありましたね
 
あの大震災の後も道路をつくる家をつくるのに1円のお金を欲しいのにもフェニックスと言う再生の花火をあげる 
一瞬で花火は無くなってしまってもったいないなあと思うが,今の親たちが敗戦で貧乏でぼろを着ていた時にこの花火をみて よし元気になろう  
日本を復興させようと花火を見て大人に成った人達が又子供達にこの震災から立ち直って貰おうとなによりも花火をあげた  この伝統で8/1,2,3と続けられてきた  
この思想は 150年前 戊辰戦争 日本が明治新政府ができて世界に国を開いて行った 
この現代化の出発点の時からこの花火の思想があるわけです
 
戊辰戦争の時に新政府に負けましたでしょう  
この時に支援に有名な米百俵を送られるわけですね  
これを復興とは物や金が豊かになるだけじゃなく
この長岡の子供達が大人を信じ、未来を信じ 古里に誇りを持って復興させてゆこうとそういう子供達を育てて行こうと 復興とは子育てだと,米百俵をうっぱらっちゃて、そのお金で国漢学校を建てて初めて庶民の子供達を学ばせる 
負けた国の人達が子供達を育ててきて里を栄えさせてきた  
この気持ちが太平洋戦争敗戦後も更には中越大震災の後も花火と成って続いているということです

敗戦のときは子供心に国は亡くなる 殺されると一旦は覚悟したが 平和に成って 平和だ平和だといささかはしゃぎすぎて そして経済大国になってきたけれど
どこか幸せになっていない 平和がおぼつかないぞと  思いがずーっと有った  
この花火によって日本の復興の姿 物や金は豊かだけれども古里に誇りを持ち、未来を信じる子供達が本当に育ったかを 問い直そうと思いまして ,それで長岡花火に託して日本の復興とは何かを問い直そうと映画を作ろうとした
これは商業映画には成らないので金の工面をどうしようか考えていたら,長岡市民の人達が花火のような人から見れば無駄と思われるような花火をあげて里の誇り 復興の力にしてきましたから この映画も打ちあげますと,長岡市民の方たち、個人の方が老後のためにと言うようなお金まで集められて いよいよ撮影に入ろうかと思っていた矢先に あの東日本大震災に出会ってしまう
 
あの大震災で私達の頭の中は真っ白に成ってしまいました 
心の中のスクリーンは真っ白に成ってしまってここに何を表現していいのか判らなくなりました
被災者がご自身一番つらい悲しい時に もっともっと悲しい人達がいるのでその人達の事を想いやりますと 自分自身の不安不満は申しませんと,助けられる人がいれば手を差し伸べたい 
さらに私は多くの支援をいただいたので恩返しができるようにこの里を復興させますと   
感謝、我慢、思いやり そして勇気と希望を持って明日を信じよう 
これは日本古来の持っている資質ではなかろうか 

いまこそこの映画を作ろうと   花火も上げる事も自粛しようとの話もあったが 阪神大震災の時も行って打ち上げた 中越地震でも打ち上げたのだから ,復興花火を打ち上げようと言う事になる  
花火も打ち上げるのだから映画も打ち上げようということになり去年の8/1にクランクインする  
脚本も変更する   長崎に落ちた原子爆弾と同形状の(中身は違うが)爆弾が長岡にも落とされた(新潟への投入訓練の為  他の土地にも同形状のものが落とされた)
原子爆弾の投下訓練だった(山本五十六の生れ故郷への報復かと思ったら違っていた)  
1991年に判る 

人災と天災の両方を取り込んだ映画にしたいと思った 160分  
世界中の爆弾を花火に変えて打ち上げたら戦争は無くなるのになあと 山下清が言った
加瀬正治  従軍兵士を送る為の花火もあった    
ドキュメンタリー的であり 演劇的である  
紙芝居の人に出会って 紙芝居は嘘の絵だからこそ 真の心 平和への祈り 戦争への恐ろしさが描かれている  
だから紙芝居で描こうとした  
最近は紙芝居を書くような人がいないので絵を志す学生に頼んだ 記憶を絵にしてもらった

紙芝居の絵のような感じで映画をつくった  
それにより真実味 本当の恐ろしさ 悲しさが伝わってきた  
平和をたぐり寄せるにはどうしたらいいかを語り合う  
昔の映画は終わった後に皆さん語り合った  映画は学校だった より賢くなっていった 
映画は重苦しい、辛い、悲しい事をハラハラ ドキドキ 切なく うっとりとしながら心を柔らかくして それゆえにより深く考える事ができる
そして皆で語り合って意見を交換する これが映画の力だと思う
きちんと考えながら前に進まないといけない

魂と言う言葉が使われなくなったが 長岡等では現在でもよく出てくる
ホノルルに行ったが 日米合同で友好の花火を挙げる事ができた 
ホノルルと長岡が姉妹都市を結んだ 広島とも結んでいる 真珠湾攻撃
3/4にホノルルの海で上げた うつくしい花火だった 日本人もアメリカ人も涙を流した 
涙は平和の尊さ、平和をたぐりよせ様とする約束
映画を観終わった後にアメリカの同年輩の方が私の手を握ってくれた 
わたしも映画を見ている間は心を揺さぶられていましたが,映画を見終わった後に私達の子供の未来の為に立派なプレゼントを与えてくれた だから私は貴方にありがとうと言う言葉を言いますが判ってくださいね 
このありがとうはアメリカ人としての私の勇気ですと  こういう言葉を貰いました

2012年5月1日火曜日

上遠恵子(エッセーイスト)       ・レーチェル・カーソンに学ぶ

上遠恵子(エッセーイスト)  レーチェル・カーソンに学ぶ   
レイチェル・カーソン日本協会理事長。
農薬による環境汚染を警告した「沈黙の春」の著者 レーチェル・カーソンの研究をライフワークにしている 
1929年東京生まれ 自然と共生する姿勢に共鳴 1988年 レーチェル・カーソン協会を立ち上げ
環境教育 セミナー自然観察等の活動を行っている
春がきても鳥の声が聞こえない  農薬による影響  警告の書   放射能の事も書いてある   50年前に書いた書(1962年)
父親が昆虫学者 で初版本の原書を読んで私にも読むように勧められた    
父の遺品でも有り宝物です
共感してライフワークになる

アメリカの海洋生物学者で作家 1907年に生まれ、ペンシルバニア大学に学び 作家志望だった
ジョンズポプキンス大学の修士課程で遺伝学を学ぶ  大学院でも男子学生の中に
紅一点という状況であった
博士課程を望んだのですが 父が亡くなり、諦めてアメリカ連邦漁業局の公務員として働き
海洋生物に係わって海に関する本を3冊を書きあげる
「我らをめぐる海」(戦後)大ベストセラーになる  「潮風の下で」が再版されてベストセラーになる
「沈黙の春」で大きな反響がある 環境汚染等の影の部分がある中で、科学技術万能の時代に
其れに対して批判することは凄く勇気のいる事だった
自分がこれを書かなければいけないと思い書いた  
当時のケネディー大統領が注目をして諮問委員会に調査依頼した 
カーソンの言っていることは正しかった

1971年に環境庁ができる 翌年に日本でも環境庁ができた   2年後56歳で生涯を閉じる
命がどんなに掛け替えのないものであるかと言う信念がある 
其れがあったから「沈黙の春」を書いたのだと思う 「センス オブ ワンダー」が車の両輪のようなもの
命の輝き、大切さ 命の言葉で書かれているから今でも読まれていると思う  
最初に「沈黙の春」を読んだ時にはちょっと違った見方をしていた 
戦後DDTが害虫駆除に物凄い力を発揮して米の生産量が増える事になった(食糧不足の時代)
その時にこんなことをいうのは贅沢ではないかと思った(アメリカは食糧難とかはないし)
日本はとにかく米を獲らなければ食糧をまかなえないと餓えてしまうと思ったがしかし数年すると
私の考え方が如何に近視眼的かが判った

朝日新聞の女性記者の松井やよりさんが亡くなったが 彼女が厚生省の記者をしている時に 
人間の母乳の中にDDT、とかBHCが出ていることがあると
其れが赤ちゃんに影響があるとスクープして其れを見た時にこれは大変だと 如何に近視眼的で
あり「沈黙の春」を理解していなかったのかを判った
それから一生懸命に勉強した 考え方を変えた
朝永先生も同じようなことを言われている  「不思議だなと思う事が科学の目です  
よく観察して確かめ そして考える事  これが科学の茎です
そうして最後に謎がとけるのが科学の花です」・・・センス オブ ワンダーと同じことを言っていると吃驚した  
不思議さを考える  感性ですよね
「子供達の世界はいつも新鮮で美しく 驚きと感激に充ち溢れています・・・・・私は子供にとっても 
どのように教育してゆくかを悩む大人にとっても
知ることは感じる事の半分も重要ではない と堅く信じています  

子供達が出会う事実の一つ一つがやがては知識や知恵を生み出す種だとしたら
様々な情緒や豊かな感受性はこの種を育む肥沃な土です 幼い子供時代はこの土を耕す時です 
美しいものを美しいと感じる感覚 新しいものや未知なものに
触れた時の感激 想いやり憐れみ 愛情などの様様な感情がひとたび呼び覚まされると 
次はその対象となるものについても、もっとよく知りたいと思うようになります
その様にして見出した知識はしっかりと身に付きます」  この文章に本当に共感しました  
之が朝永先生のいう「不思議だなと思う」に通じるものだと思います
えてして知識だけを先に植え付けてしまって感じる事が後になってしまっていると言う風潮が
無きにしも非ず  
ただ名前を知っているよりは今何故ここに、この鳥はいるんだろうと考える事の方が大切です 
と書いてある

森の中のふかふかした落ち葉の感触とか 森をわたる風の音とか 森の臭いとかを子供達に
知らせたいなあと思いますね
 「センス オブ ワンダー」の理想を求めていろいろ活動している  
観察するとか、森の自然体験とか  森の幼稚園運動とか 森に行って森を体験する  
全国大会などが有る
TVや本でなんかで教え込むんじゃなくて体験させる事がどんなに大切か 
子供達が生き生きしている  
人間には二足歩行をするようになる森、緑に対する長い歴史がDNAがあるんじゃないんですかね
子供達にはかつての森に住んでいた頃の先祖の血が蘇ってくるんじゃないんですかね

教えなくても一緒に楽しむ 花の名前をしらなくてもいい  話題を共有するだけでいい  
自然が仲立ちをするのが一番いい 
定期的に観察会(年に4回) 自然の中に浸っている    読書会をやっている  
鈴木善次先生 中島隆子さんらがトークに参加してくれる 小西隆 子供と森で遊ぶトーク 5/26に実施する
「地球の美しさについて深く思いを巡らせる人は命の終わる瞬間まで 生き生きとした精神力を
保ち続けることができるでしょう 
潮の満干 鳥の渡り 春を待つ堅いつぼみの中にはそれ自体の美しさと同時に象徴的な美と
神秘が隠されています 自然が繰り返すリフレイン 夜の次には朝が来て
冬が過ぎれば春になると言う確かさ その中には私達を限りなく癒してくれる何かがあるのです」 
好奇心を燃やし続けていると言う事をカーソンから教えてもらった
「今我々人間は分かれ道に立たされているんですよ」(沈黙の春)
   
皆さん考えて下さいよと最後に書かれている
「私達は今分かれ道に居る どちらを選ぶか今更迷うまでも無い 
長い間旅してきた道は素晴らしい高速道路で凄いスピードに酔うこともできるが
私達は騙されているのだ 行きつく先は禍であり 破滅だ  もう一つの道はあまり人も行かないがこの分かれ道を行く時こそ私達のすんでいるこの地球の安全を守れる最後の唯一のチャンスがあると言えよう
兎に角どちらの道を選ぶか決めなくてはならないのは私たちなのだ」・・・・・50年前に書かれている
のには吃驚

「長い間我慢した揚げ句 兎に角私達に知る権利があることを認めさせ、人類が意味のない
恐るべき危険に乗り出していることが判ったからには一刻もぐずぐずすべきではない
毒のある化学薬品をいたるところに蒔かなくてはいけないと言う人達に耳を貸してはいけない
眼を見開きどういう別の道があるかを探さなければならない  
 化学薬品を放射能に置き換えれば全く今日の状況にぴったりだと思う
別の道を歩くと言う勇気を本当に持たなくてはならないし これを歩みださなければいけないと
思っている 次の世代への責任