2024年7月18日木曜日

五大 路子(女優/横浜夢座座長)      ・〔わたし終いの極意〕 ハマのメリーさんに導かれて

 五大 路子(女優/横浜夢座座長)   ・〔わたし終いの極意〕 ハマのメリーさんに導かれて

今年舞台生活50周年を迎えた女優の五大路子さん、1952年横浜生まれ。 1977年にNHK朝の連続テレビ小説いちばん星』の主役でデビュー以来、大河ドラマ「独眼竜正宗」など数多くの作品に出演してきました。 又実在した娼婦を演じる一人芝居「横浜ローザ」は初演から29年目を数え、五大さんのライフワークとなっています。 1999年には自身の劇団「横浜夢座」を立ち上げ、地元横浜から演劇の発信を続けています。 

実在した娼婦を演じる一人芝居「横浜ローザ」は初演から29年目。 横浜には伝説の娼婦と呼ばれている白塗りのメリーさんという方がいました。 真っ白ずくめで、顔も真っ白、ドレスも真っ白、真っ赤な口紅と濃いアイライン、でも気品を持っていて、大きなキャリーバックを曳いていて、横浜駅、伊勢佐木町などあらゆるところにふっと立っていた。 彼女に出会って彼女の人生を追いかけてゆくうちに、彼女の背後に大きな日本の歴史を感じ始めました。 歳をとった時に出会ったので、回想してゆく感じです。 

横浜の仮装パレードがあった時に、私が審査員をしていた時に、前の山下公園の街灯の前に立っていました。 私と目がぱったり合ったんです。 「私の生きて来た今までをどう思うの。 答えて頂戴。」と眼差しがぐっと入って来ました。 隣の人が「横浜の名物ですよ。」言いました。 大きな怪我をして、自分を見つめる時期だったので、彼女のことを調べてみようと思いました。 横浜中をノートをもって調べ始めました。 私があった時には70代ぐらいでした。  今華やかな伊勢佐木町の向こうには米軍の飛行場がありました。 5時になると兵士がワーッと出てきてそれを待ち構えていた日本の女性がいたと言いう事を知りました。 メリーさんは白いドレスで、クリーニング屋さんでは白い沢山のドレスが置いてあったそうです。 正月には大事なドレスで皇居に参拝に行っていたそうです。 

調べれば調べる程すごいものが目の前に現れてきました。(5年取材)  杉山義法さん(大河ドラマを書いた。)に書いたものをファックスで5年間送り続けました。 最初は書く気が無いと言っていましたが、或る時「俺 書くよ。」と言ってきました。 「俺はこの横浜ローザに日本の戦後史を込めて書こうと思う。」と言いました。  出来た作品が「横浜ローザ」です。 メリーさんには舞台の許可を取りに行きました。 舞台は29年になります。 8月15日にやっていました。 彼女が亡くなってお墓を何とか見つけて、お墓参りに行きました。  手を合わせた時に、「貴方は貴方を捜しにここ迄来たのね。」という風に聞こえました。  私は30年やってこれたのは、メリーさんを通して私を捜していた、私が生きる大きな道しるべ、いろんなシグナルで襲ってきて、毎回今この時、「彼女が生きていたら、何を思う。」と自分に問いかけながら、答えは出ないけれど挑んでいきます。 

私は中学1年から演劇部に入りました。  18,9歳で演劇の素晴らしい先生たちとの出会いもありました。  演劇講座を受ける中で先生から「貴方の身体は世界でたった一つしかない、いい加減にすることなく貴方を捜していきなさい。」と言われました。 そこから変わって行きました。 24歳で朝ドラをやって、人生が大きく変わりました。 「早稲田小劇場」の白石加代子さんの劇団にそれまで入っていました。 鈴木忠志さんの劇団に入りましたが、修行に出ろと追い出されました。 父からは勘当されていました。 新国劇の方に入りました。 NHKの連続テレビ小説『いちばん星』のオーディションに行ってみたらと言われて、採用されることになりました。 大和田伸也と結婚し子供も生まれました。 

1989年の帝国劇場の公演を前にして、突然夜に膝に激痛が走りました。  病院で水を抜いてもらって固定したら、足が伸びなくなってしまいました。  番組などを含めて降板しました。 ある寺の離れに身を寄せることになりました。 そこでいろいろ勉強になりました。  自分が倒れたら代役はいくらでも出てくる。  私って何、私が表現するって何、など考えていました。 もし足が治ったら、私にしかできない、私から発する何かを表現したいと思いました。 それがメリーさんだったんです。

1999年に自身の劇団「横浜夢座」を立ち上げました。  1996年に「横浜ローザ」を一人芝居で始めて、明日を元気にしていこうという舞台を、市民劇みたいな感じで作りたかった。  夢と信念が有ったら出来ると言われて、踏み出しました。 夢座も25年になります。  2016年から「真昼の夕焼け」(大空襲を受けた15歳の少年の実話)を8年間やりました。  受け継いでくれる組織も作りました。 コロナでローザも出来なくなって一回休みました。 どういう風におしまいにしようかと考えたら、声も出なくなり身体も動かなくなってきました。 自分が思ったことを人に伝えてゆく、と吹っ切れた時に段々取り戻していきました。   演劇を観た人がよかったとか、頑張ろうとか、誰かの心をそっと支えてくれるんだったら、この演劇というボールを投げ続けてゆくことは無駄ではないのかなあと思います。  「横浜ローザ」は90分ぐらいの一人でやる舞台です。 「語るローザ」を始めました。(語るだけ。) ローザは私の生きる術ですね。 

私の夢はイギリスのエジンバラ演劇祭で「横浜ローザ」を演劇する事です。 「真昼の夕焼け」を日本中の子供たちに伝えたい。  少女の様に瞳を輝かしながら、何かを追い求めながら生き続けていきたい。 「花のように、風のように、海のように」と言う自叙伝がもうすぐ出来上がるところです。  困った時に助けてくれる、手を携えてくれる人が居ます。生きているという事はこういう事なんだなと、人の心に支えられて来た人生だと思います。  メリーさんは養老院に行って亡くなりますが、幸せな亡くなり方をしたのかなと思っていましたが、養老院では大きな男の人を見るとおびえていたそうです。 戦争はなんで一人の人生をこんないしてしまうんだと思って、私をローザの舞台に向かわせます。 

〔わたし終いの極意〕とは、人はそれぞれ自分の夢を追いかける。 私はその夢を繋いで次の世代にこの夢をバトンタッチしていきたい。