2024年7月15日月曜日

すず風金魚(漫才師)           ・〔師匠を語る〕 東八郎を語る

すず風金魚(漫才師)           ・〔師匠を語る〕 東八郎を語る 

1960年代から70年代にかけてお笑いのトリオブームがありました。 中でも東八郎さんのトリオ・スカイラインはテレビでも大人気で、NHKで毎週放送されていた「お笑いオンステージ」ではレギュラー出演者の一人として人気を集めました。 そんな大スターの東八郎さんに憧れ弟子入りし、亡くなるまで寄り添ったすず風金魚さんのお話をお聞きください。 

万歳界のレディー・ガガと言われています。 髪飾りがポイントで、もう一つはゴリラの物まね。 東八郎さんに対しては「先生」と呼んで言て、おかみさんには「ママ」と呼んでいました。  

東 八郎(あずま はちろう、本名:飛田 義一(ひだ ぎいち)さんは、1936年昭和11年〉東京都台東区浅草で生まれました。 幼いころから浅草で演劇やミュージックに触れて来た東さんは、1955年浅草フランス座に入団、軽演劇の舞台に立ちました。 小島三児さん原田健二さんとトリオ・スカイラインを結成し、テレビに進出したのは1964年、トリオスカイラインを解散してからは単独で芸能生活を続けます。 その後NHKの「お笑いオンステージ」にレギュラー出演したことで、世代、性別をこえて人気を博して東八郎さんはコマーシャル、歌手と活躍の場を広げる一方で、東八郎劇団を結成するなど後進の育成にも力を注ぎ、1986年にはコメディアン養成のために「笑塾」を開きました。 この年第14回日本放送演芸大賞話題賞を受賞、その翌年には第3回浅草芸能大賞奨励賞を受賞するなど益々今後に期待が集まったさなかでした。 1988年7月6日自宅で脳溢血のために倒れ5人のお子さんを残し息を引き取りました。(52歳) 突然の訃報を聞き、萩本欣一さん、ビートたけしさんなど大勢の東さんを慕っていた仲間が自宅に駆けつけたそうです。 

面倒見が良かったので先生を悪く言う人はいませんでした。 私は北海道出身で、短大卒業後、幼稚園保育士として東京に出てきました。  喜劇役者になりたかった。 テレビを見ていて、この人の弟子になろうと思いました。  この人は食べさせてくれると思いました。  テレビ番組の漫才で5週勝ち抜きました。 太田プロダクションが新人預かりとしてくれました。 その時には「先生」が太田プロにいたんです。  東八郎さんは女の弟子は取らないと聞いていました。  楽屋で「私を弟子にしてください。」と言いました。  浅草の自宅に来るように言われました。 「僕は何もしないよ。」とはっきり言われました、「それでよければ来なさい。」と言われました。 「この世界は我慢しかないよ。」と言われました。 時間のミスをして、一回だけ破門されましたが、何とか許して貰えました。 

弟子になったのは1978年でした。  先生を見る事によって勉強になりました。 礼儀に関して厳しく言われました。  女の人は直ぐに辞めてしまうという事で「ママ」は半年間は話をしてくれなくて、半年たったらお小遣いを貰いました。(泣きました。) 1988年7月6日自宅で脳溢血のために倒れました。  先生のお宅に伺って、まだ寝ているなと思って、「先生時間ですよ。」と言ったらおかしい状態みたいだったのでびっくりして、足揉んだりして救急車を呼びました。  混んでいる中何とか病院に着いて、一応終わったら何時何分と言われました。 

先生が亡くなって、ママが筋無力症で大手術をしたりしていました。 子供たちも小さくて付き添えないので、私が付き添っていました。  ママも元気になって、一人になってそれから食べる事って本当に大変なんだという事が判りました。 面倒見てもらっていたんだとつくづく思って感謝いています。   石井光三のオフィスに高田順子(今の相方)という子がいました。 コンビを組んでみないかという話になりました。  コンビを組んだが仕事が無くてバイトを始めました。  20歳ですと言ってずっとやっていました。  先生からは「貴方は一歩外に出たら吉本春代じゃあないんだよ。 金魚なんだから。 笑いなさい。」と言われて、「一歩外に出たら違うんだよ頭におきなさい。」と言われました。

東八郎さんへの手紙

「・・・こちらはめっぽうさみしくなりました。 ママもメイコ先生もそちらにまいりましたが、もうお会いできましたか。 ・・・ 先生の宝5人の子供たちも立派な大人に成長しました。 ・・・お孫さんも4人に増えました。 ・・・みんなにぎやかに育っています。・・・先生がそちらに旅立ってから36年目です。・・・子供たちもパパの歳を乗り越えられるか心配しています。・・・先生の芸をまだまだ見たかったです。 勉強もしたかったなあ。 ・・・先生、帰ってきてください。 近況報告。 ・・・おいらは身体が動けなくなるまで、続けようと思います。 ・・・先生もお身体に気を付けてお過ごしください。」