2022年2月4日金曜日

繁森良二(矢掛古民家再生プロジェクト前代表)・街の宝を掘り起こせ

 繁森良二(矢掛古民家再生プロジェクト前代表)・街の宝を掘り起こせ

繁森さんは岡山のデパートに入社し、退職後は国際医療ボランティアのサポートなどに取り組んできました。  70歳でこれらの仕事に区切りをつけましたが、矢掛町から古民家を活かした町おこしをやってほしいと頼まれます。  矢掛町は昔の山陽道の宿場町で西国大名が宿泊した本陣と脇本陣のある街並みを残しています。   これをどう生かすのか、伺います。

岡山県矢掛町は古い宿場町で江戸時代の雰囲気が残っている貴重な街です。  人口は約1万4000人でだんだん減ってきています。  陣と脇本陣がそのまま残っています。  篤姫がお嫁に江戸まで行くわけですが、宿泊した部屋もそのまま残っています。   

樋野KANZO倶楽部新渡戸稲造学校から「偉大なるお節介症候群」認定書を貰っています。  樋野KANZO倶楽部は岡山県長島にハンセン病の療養所が残っていて、段々減ってきましたが、子供のころから岡山県長島から出ない人がいるわけです。  友人で医師をしている人がいて、寂しい思いをしているから行ってやってくれないかと言われました。   長島愛生園まで行って、話をして通っていましたら、「偉大なるお節介症候群」認定書を頂きました。

74歳の時に矢掛町長方町おこしの依頼がありました。    岡山のデパートに入社し、いろいろな仕事に関わり経営まで行い(60歳まで)、その後スポーツクラブの経営を任されました。  38歳からずーっとジョギングを欠かさずやってきましたので健康体です。  77歳の時にホノルルマラソンを完走しました。   現在84歳です。

矢掛町は影の薄い町で、空き家になっている家が沢山あるんです。  人の集まる場所にしようという事でホールを作って、毎週、音楽会、コンサート、講演会、落語会,神楽の会とか日曜日ごとにやりました。  県外からも人が集まりだしました。  人脈を利用して回りから支えてもらいました。   マスコミのルートを通じて宣伝もしました。  インターネットも活用しました。   外国からも人が来るようになりました。  古民家がありほかの町にはないような情緒のある町です。  「宿場町は着物が似合うだろう」と友禅作家らの作品展や、歌舞伎の興行を手がける松竹に企画提案して衣裳(いしょう)展を開催し反響を呼びました。町が観光客の着物姿であふれかえりました。   8年前には泊るところもありませんでした。  古民家を再生して宿屋を作ってそこに来てもらう事になりました。  それが評判になり、外国からも何十カ国から来ていただきました。  分散型ホテルという事で「アルベルゴ・ディフーゾ」(分散型宿泊施設 イタリアで生まれた地域活性化の取り組み)にイタリアから認定されました。  見学客も沢山来ました。

全体で200人ぐらいが泊まれる規模になりました。  岡山空港から1時間ぐらいで来られます。  本陣と脇本陣が何といっても目玉です。  トイレ、お風呂がどうなっていたとかなども見られる貴重なものです。   コンサートなどのほかに朝市、大名行列、夏の行灯祭りなどいろいろイベントをやっています。  矢掛小唄の復活という事で矢掛小唄と矢掛小唄踊りも始めました。    人脈を通してアラーキーとかの人たちに審査を頼んで全国からカメラをもって、踊りなどの写真を撮りにこられるようになりました。     

去年にやっと無電柱化が実現して雰囲気がよくなりました。  国から重要建物群にも指定されました。  道の駅もできて、お土産を売るのではなくて、ホテルのような雰囲気です。  延べで10万人を越えました。   観光客が来るというだけではだめで、地元に住んでいる人が幸せに過ごして頂けることが最優先しなければいけないと思います。    ベトナムとか海外から結構研修生が来ていますが、町中で見ないので、お金を貯めるのに精一杯で楽しむ余裕はないという事でした。   そういった人たちにも楽しんでもらおうと、ベトナムフェスティバルを立ち上げました。   交流館に屋台を作ってベトナム料理を食べて、ホールではカラオケ大会をやったりしました。  料理は大学にもベトナムから留学生が来ているので大学と交渉して、彼らに手伝ってもらいました。  大好評だったので毎年11月にはやっています。  日本語教室を立ち上げ、研修生の方たちに日本語を勉強してもらえるようにしました。   人を繋ぐことが一番大事だと思います。  国際医療ボランティアでアブダビでのお手伝いをしました。  

これまでにお世話になった方々への恩返しという事で、本を読むのが好きなので、目の見えない方へ点字へ訳して図書館に収めて喜んでいただいています。



2022年2月3日木曜日

市村マツ(まゆ工芸家)          ・紬の里でまゆと向き合い

市村マツ(まゆ工芸家)               ・紬の里でまゆと向き合い

結城紬で知られる茨城県結城に住む市村さんは繭玉を切って平らに延ばし、パッチワークのように縫い合わせてお財布やコスターなどの小物や帽子などを作っています。  全国で唯一の繭工芸として茨城県伝統工芸士に認定されて、86歳になった今も商品の発案から染色、縫製、販売などもすべて市村さんが手がけています。   繭工芸にかける思いを伺います。

被っている帽子も繭で作っています。  繭は夏は涼しく冬は暖かいです。  デザインも自分でやります。    最初、丸い繭の端を切って開いていって、一旦洗濯機で洗います。  洗ったら水に漬けておいて一晩おきます。  その後に染めます。  濃いところと薄いところが出来ますが、それがまたいいグラデーションとなります。   鶯色の物は大根の葉っぱで染めました。  母親が糸を染めていたので母親に染め方を教わりました。   天然のものは最初本を買ってきてやりましたが、段々自分で工夫してやるようになりました。  春咲く紫の大根の花、蕗の葉っぱ、あしたばの葉っぱ、金魚草の赤い葉っぱ、柿の木の葉っぱなどいろいろやってきました。  紫陽花の花は色が出なかったです。  天然の物は淡い色が出ます。   染めたら天日干しにして乾かします。  まだ多少しっとりしているうちにアイロンで延ばしますが、それが大変です。  

繭は蚕を買っている家があってそこから分けてもらいます。  繭の中はまださなぎが生きています。   帽子では100個以上の繭を使います。   これは1万円札が入る大きさの財布です。   平らになった繭をミシンで縫い合わせます。   ミシンは4台ありますが、機能が違います。   夏は5時ごろから作業をします。   帽子、財布、名刺入れ、カードホルダー、小さいバッグなどがあります。 

小学校で作り方を教えに行ったりもしています。    お客さんによってはこういったものを作って欲しいと要望もあります。    

布で小物を作ることを通信教育で習っていました。   洋裁、和裁は習っていました。 繭工芸をする前はカメラの部品の研磨を主人と二人でやっていました。   プラスチックの部品が出回りだすと工場の仕事が無くなってきてしまいました。   それで始めました。  段々お客さんに買ってもらえるようになりました。  染めと、アイロンかけは力がいるので主人にやってもらいます。   主人が川釣りで使った繭の殻があったのでそれを利用しようと思ったのが始まりです。    始めてから40年近くなります。     

帽子を作るのに、お椀のようなカーブを作るのに苦労しました。   お客さんに教えてもらいながらここまで来たという感じです。   全国物産展で持って行ったものが売れました。   ファイルも繭で作ったものですが、ここに売れた作品の一覧があります。   印が付いているものが売れたものです。  その前から売れてはいましたが、1999年から書き入れて居ます。   いろいろなところの物産展に出品してきました。    お客さんからは長持ちすると言って喜ばれています。   

作品を作ること自体が楽しみです。   伝統工芸士の免許も何年か前に頂きました。  繭で作っているのはほかに人がいないので、生き甲斐としてやっています。   86歳になりますが、仕事を続けるためも元気でやって行きたいと思っています。   教室をやって伝えたいが先立つものがないからできなくて、忙しい時には2人手伝いに来ているので、伝えられればいいなあと思っています。   何とか技を残していきたい。  

2022年2月2日水曜日

斎藤惇夫(児童文学者)          ・あなたを支える子ども時代のあなたを再び

斎藤惇夫(児童文学者)          ・あなたを支える子ども時代のあなたを再び 

斎藤惇夫さんはイギリスの詩人ワーズワースの言葉「子供は大人の父」を胸に、80歳の今も幼稚園の園長として子供と遊びよく読み聞かせの日々を送っています。   子供たちが豊かな想像力を広げる幼少期に出会う本はその後の将来の土台となるたいせつなもので、長く読み継がれる児童文学書には読み返すたびに新しい発見があるといいます。   読み聞かせや本の選び方などを伺います。

ねずみのガンバを主人公とした波乱万丈の動物冒険物語、冒険者たち、で国際児童年特別アンデルセン賞優良作品に選ばれています。   80歳の今も幼稚園の園長をしています。    コロナで宿泊保育、遠足とかできないので、園庭で遊ぶこと、園舎のなかで本を読んでもらう事、雨の日は園舎のなかで暴れる事、それぐらいは全く変わりなしにやっています。   70名ぐらいの小さな幼稚園なので、25名程度に分けて誕生日会を行います。  子供たちの主体性任せてサポートするぐらいで催し物はやらない方針です。  ふれあいだけの幼稚園と言ってもいいぐらいです。   毎日同じことをやっているようでいながら、社会性、個、を理解してゆき3年間で一番大切な事柄を日々経験していると思えるぐらいまで見事に自分達で成長していきます。  

私は子供たちにとっては遊び仲間なんじゃないでしょうか。  「園長は大きくなったら何になるの」と結構聞かれるんです。  その時には本当に戸惑います。  子供たちと一緒に遊んでいる一つ一つはかけがえのない喜びですね。   街なかで卒園生に会ったりすると「おい 園長」と声を掛けてくれるんです。   何となくうれしくなって旧友に会ったような感じがします。    弁当を食べるときには覗くとお母さんの作ったものを自慢するわけですが、僕が「弁当は自分で作って来るんだよ」と言ったらみんな一斉に目を見開いて「園長にはさあ お母さん居ないの。」って言ったんです。   子供たちは凄いと思いました。  憐みの眼差しは忘れられません。   

子供たちは3~5年間しかまだ生きてきていなくて、横の流れの時間ではなくて、垂直な今、今、で問いかけてくるわけです。   プール開きの日に一人のお母さんが子供の水着を忘れてしまって子供は泣き出してしまったが、抱きしめて「明日水着持ってくれば入れるから」と言ったんですが、明日ではないんですね、今なんですよね。   我慢しないで精一杯泣くのもいいです。   3歳児は語彙が少なくて表現できないので、ぶったりけったりしたりしますが、言葉の表現の一つだと僕は思います。   お互いに痛さも知ってゆくわけです。    読書の前にまず子守歌があり、書いて読んでみると美しい日本の詩があるんだという事を認識していただきたい。   お母さん、おばあさんなどの地方の言葉の美しさが子供に眠りを誘っていた。  僕は越後地方の昔話をよく聞きました。  

「昔 昔・・。」で始まるが、「むかし」は向こう側という事が判っている。  向こう側というのは空間も時間も越えた向こう側、だから今の話ではない。   祖母が火鉢に栗を入れて、よく僕たち3人に話をしてくれて、終わると長火箸で栗を取りだして剥いて口の中にいれてくれました。  話をせがむと、もう栗を食べたからダメと言われ、栗をくわえて布団に入って寝るわけですが、今聞いた話と栗の甘さを味わいながら眠りに落ちるわけです。  甘いものがない時代で栗の甘さをよく覚えています。   面白くなかったら物語とは言えないという感覚は子供の頃に徹底的に経験しました。   僕にとってはとっても大切な経験だったと思います。    面白い話はクライマックスがあり納得が出来る終わり方がある。    子供の頃はハッピーエンドではなかったら僕は許せなかったです。 

「ピーターラビット」では最後にピーターラビットは改心などしません、また明日いっちょやってやろうと、それが子供にとってのハッピーエンドだと思います。   見事な起承転結です。  母の言いつけを破ってピーターはマグレガーさんの農場へ忍び込んで野菜を食べ、マグレガーさんに見つかり、追い回される。辛くも逃げ出す事ができたが上着と靴をなくしてしまい、それはマグレガーさんの新しいカカシへ使用された。   ビアトリクス・ポターの児童書で子供たちは暗誦できるほど楽しんでいた。   ポターは昔話をたくさん読んでもらっていたのと、シェイクスピアの際立ったセリフは全部暗誦していたそうで、聖書、この3つが複合されて出てきたんでしょうね。  

昔話は絵なしで楽しむことが出来た文学なんですね。  語り文学は子守歌、わらべ歌の延長線としての文学であるわけです。  子供たちに映像化できる文体であった。     「あらしの前」が5年生、「あらしのあと」が6年生の時に読みました。   戦争に対してノーと言いながら、家族の生活を一番大切にするんだ、という事を明らかに高らかに歌い上げている。  自分が歩いてゆく基本はここにあるんだというような気がしました。  

子供には言葉にならない感動だけを一杯持っていて、それがなんだかわからないというのが一番いいと思うんです。 その体験を一杯積ませてやるのが大人の責任だと思います。  ピーターラビットには怖い内容(死に関すること)もあるので、一番安心できる人が優しく読んであげる。  怖くなって来てもその人の顔を見れば安心だという人が読んでやらないと子供たちは文学の中に入って行けない。  質のいい本を選んであげる。 4年生までは毎日15分間読んであげる。  フィンランドのお父さんは毎日15分間読んであげるのは普通だそうです。  物語は何回も読んでいるとどんどん深みが判って来るだなという事を教えてくれました。





2022年2月1日火曜日

香山美子(女優)             ・【わが心の人】三條正人

 香山美子(女優)             ・【わが心の人】三條正人

三條正人は1943年(昭和18年)生まれ。  鶴岡雅義と東京ロマンチカのメインボーカリストとして、又ソロ歌手としても活躍しました。   2017年10月亡くなりました。(74歳) お話は奥さんの香山良子さんに伺いました。

ジッとしていられないタイプです。  世界地図を広げていろいろ思うだけで楽しみです。  子供は結婚10年目の子だけれど、或る時「一緒に時を過ごしたのは1年ぐらいだった。」と言われて、お互い忙しくてしみじみ夫婦だと思ったことはなかったです。  2年間ぐらい闘病で同じ方向を向いて戦う、辛さを出してはいけないし、あの時時に初めて夫婦と感じ取りましたから、こんな夫婦もあるのかなと思いました。   結婚は昭和48年。   きっかけは民放の「ラブラブショー」に出演。  その後何となくゴルフに行きましょうとか、という風になりました。  結婚後も女優を続けさせてもらって、忙しいなか10のうち3をやれば認めてくれて、成立するのではないかと思いました。  睡眠が3時間ぐらいでもちょっと何かを片づけたりして、先に出かけてしまっても、やってくれたんだという思いがあるのではないかと思いました。  1日をこなしていかなければいけないという生活でした。  

子を産んで育てて行って、また違う裕福感、子供を介しての知り合いがリンクしてゆくので、これが面白くて、役職を好んでいただいてやりました。  人生出っくわしたものに楽しまなければいけませんねと思いました。  子供を生んだのが39歳でした。   或る時に子供が軽い嘘をついたが、「駄目」と言っても効き目がないと思って、3日間話をせずになんで話をしなかったかを説明したらその後嘘はつかなくなりました。   いろいろ厳しかったと思います。  夫は溺愛していたので、こちらとしては寂しかったです。  

甘い歌を歌う割には、真逆で夫は非常に男っぽい人でした。  地声は全然違います。   競馬、ゴルフ、麻雀が好きでした。  家には2卓あり麻雀をやっていました。  私は馬は大好きですが、麻雀は大嫌いでしたが、或る時からめちゃくちゃ好きになりました。   煙草を私も吸っていましたが、子供を産んで辞めましたが、夫は辞められませんでしたが、医師に「このまま吸っていたら声が出なくなる」と言われて以来、辞めました。     お互いが仕事のことは知りませんでした。  お互い仕事を持ち込まない努力はしました。  

病に倒れて大変でしたが、その時に同じ方向を向いているなと、夫のために絶対口外しないと、普通にふるまうと、そうでないと夫が神経質になるだろうと思いました。  その2年間があったから同じ方向を向けたっていう事でしょうね。    

私は子役として劇団こまどりに在籍しました。  国語の朗読が好きでした。   高校在学中の1961年、準ミス・エールフランスに選出されました。  1962年、高校卒業後に松竹へ入社。  大女優が沢山いました。  全盛期には年間16本も出たこともありました。   若いころは近所の旅館に泊まって撮影所暮らしでした。   新劇の養成所へも通いましたが、寝る暇もないようになり1年で辞めました。  テレビの『銭形平次<大川橋蔵版>』では平次の妻・お静を14年間やりました。  本当は1年のつもりでした。  大川橋蔵さんは偉ぶらず、やんちゃで 、綺麗な流し目をします。    いろいろなたたずまいを盗ましてもらいました。   

生きている限りは前を向いていないと。   私はいつも、今日から始まる、今から始まる、ここから始まる、っていつも思うんです。  空回りしてても前を向いていないと楽しくないですよね。   歳の重ねは必ず後ろにいっぱいのものを重ねて持っている、持っている体が前を向けば、年相応の感覚で楽しめるだろうと思っています。   おばあちゃん役が面白い、自然体で出来る年齢になってきたというところで、本当に面白いんです。  

2022年1月31日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】冬

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】冬 

今回が最終回です。   正月早々にオーレリアンの丘に行ってきました。  春をイメージします。  この木はこういう芽吹きをするだろうなあとか、イメージします。  比良山は白く大きく見え存在感があります。   12月の下旬からいろいろ作業がありますが、基本的に枝打ちと剪定なんです。   竹林も部分的に残したのでそこの竹も20,30人集まって刈ります。    去年菜の花を植えたところに大麦を撒きました。   田んぼを休ませるのに撒きます。   農家でも最近大麦を撒いていて、地ビールにします。  

26歳で写真家としてフリーランスになって世界に飛び出しています。   生き物が大好きだったので生き物が沢山いる環境は熱帯雨林だという風に言われていて、インドネシアに生きました。   最初の年は熱帯雨林を見ずに帰ってきました。    遠くて到達できないんです。   連れて行ってもくれないです。  その間3か月ぐらいずーっと田んぼを見ていました。   棚田に感動しました。   この仰木地区にも棚田があるのを見て感動しました。(20歳)    バリ島のほかにスラウェシ島にも行きましたが、そこも田んぼが凄く多いです。  山があって、棚田があって海があるという景観が頭に焼き付いて帰って来ました。 地元の比良山と棚田、琵琶湖があり、その組み合わせに感動しました。   

里山という言葉も世の中に広めていきました。   インドネシアが好きになって50回以上言っています。   「神様の階段」という写真絵本を出しました。  出版が2010年。 儀式もされていて、信仰も残っていて、農業も近代化されていなくて古い形のバリ島が残っていまいた。   牛で耕していました。    

*「神様の階段」の一部を朗読

人々の精神力の強さに驚かされます。  自然への畏敬の念というか、そういう経緯がそうさせていることは間違いないです。   日本では収穫をあげるためにいろいろやってきましたが、田んぼはお米を獲るだけではなくて、ほかの副産物もいっぱいあるわけですから、そういうところにも目を向けて行かなければいけないという、そういう時代が来るのかもしれないです。  そうしないと風景は守られない。   バリ島での棚田の労働は信仰に近いものがあります。  収穫だけではなく、神様が本当に来ているようにふるまいます。  白い星の形をした花がありますが、指でつまんで、つまみながら拝むんです。  そんな仕草をさりげなくします。   きめの細かい精神がああいった棚田の雄大な風景を作っているんだなというのは判ります。  

小さな昆虫の命と自分の目線が一緒だというか、価値観が一緒だという事ですね。    全ての生き物がいるから人間も生きているという、仲間意識というか、そういうものを持ちたいと思って撮影しています。  それが里山の考え方の一番大事なところかもしれません。   自分が自然の中に入って一緒に暮らしているということが楽しいです。  科学的な目(外からの客観的な目)と芸術的な目(中に入って一緒に生きている目)、両方を持ちたいですね。   写真は外からの目ですね。 農家になりたかったのは中からの視点を持ちたかったからです。   60歳になってから決断して7年が経ちます。   30年近くそんな想いで来たんで、農家になってみると、農家の人って自然てこんなふうに見えていたのかと思います。  抱擁されている自然です。   農家になると蛙も友達になります、「おうお前生きていたか」、とか。  

夏には全国の親子たちと昆虫教室も開いていますが、大学生にも授業をしています。   芸術系の大学で、最初は写真をお願いされました。   自然を知らずに芸術を学ぼうとしている人が多い。  芸術の根幹は自然のことを理解していないと駄目ですね。  フィールドワークを主体とする科目を作って、1年間何回かやっています。  農家の視点を垣間見る行為です。   今後農業のあり方は変わってくると思います。  今の農業の問題は人間がいっぱいいるので生産性をあげないといけない。  一方、生物多様性の価値がどんどん見直されている。  絶滅危惧種のかなりの数が田んぼとか雑木林に住んでいるという事が判って来た。   それをどうやって守るのかと生産性は相反することです。   気候変動とかあったりするので、獲れる年と獲れない年が顕著です。   お米も建物の中の安定した環境の中でするとか、機械化が進んでロボットがするとか、環境重視をするところとかに二極化するのではないかと思います。   

環境活動、イベント、観察会、散策会などもあり、ホームページを見て参画してもらいたいと思っています。   自分の住んでいるところに里山環境を見つけて是非行って欲しいです。   開墾して環境がよくなって来ると、どんどん新しい種類が見つかって来るので、詳しく観察していきたいのと、仰木集落は古い集落なので歴史などにも触れて行きたいと思っています。  





2022年1月30日日曜日

林英哲(太鼓奏者)           ・太鼓と共に世界に飛び出す

林英哲(太鼓奏者)           ・太鼓と共に世界に飛び出す 

1952年広島県生まれ、1971年「佐渡・鬼太鼓座」、「鼓童」の創設にも関わり、1982年に太鼓独奏者として活動を開始、1984年に和太鼓ソリストとして初めてカーネギーホールで演奏し、以降世界各地で演奏活動をしています。  伝統的な音楽をはじめクラシック、ジャズ、民族音楽などジャンルにこだわらず様々な演奏家やアーティストと共演をして、今年ソロとしての活動40周年を迎えました。  

太鼓を始めてから今年で51年目で、ソロ活動は40年になりました。  太鼓を独奏で人に聞かせるものがありませんでした。  よく続いたなと思いました。   太鼓に正対して打つという事は伝統芸能にも郷土芸能にもないんです。   独奏でやるには2人分のテクニックが必要で、ベースのリズムと和拍子というメインのリズムを一人で打ち分けなければいけない。   左手も右手と同じように使えなければ、リズムの構成が出来ない。  完全に太鼓に正対して、お客さんに背中を見せながら打つという形になりました。   伝統芸能にはないです。  一般化されるようになりました。  

実家は真言宗の寺院では男女4人、4人の兄弟で末っ子です。  孫みたいな子だったので、そのうち面倒みられないかもしれないという事で、甘やかされて育ったので、絵を描いたりドラムを始めても親は何にも云いませんでした。   ビートルズが好きでした。  ベンチャーズの影響で友人がギターを買ったりしたのでバンドを4人で結成しました。 

横尾忠則さんみたいな仕事をしたいと思って美大を受けましたが、落ちてしまって東京で浪人しました。  横尾忠則さんが参加する佐渡でのイベントがあるという事をラジオで聞いて、それに申し込むというのがこの道に繋がる最初のきっかけになりました。    佐渡の地域おこしのために太鼓を打つという事で、強引に誘われて7年で世界中を回って、という事でした。  11年やりました。   音楽的な経験を世界中で積むようになってはいました。  美術の方に戻るつもりでいましたが、小澤征爾さんとか音楽的にレベルの高いものを舞台でやるという経験を積んできて、美術はゼロからのスタートとなるし、太鼓しかないので、ソリストとしてスタートをしました。   

2年後に カーネギーホールから声がかかってきました。  ただ使える太鼓がないんです。  僕が舞台で使う太鼓は家が一軒建つような値段なんです。  それよりちいさくても数百万円です。   レンタル屋さんに相談したら、カーネギーホールで傷物では恥ずかしいという事で、出世払いでいいからという事で最上級の品質のものを用意してくださいました。    航空便なのでどうしようかと思ったら、永六輔さんが声を掛けてカンパしてもらってお金が集まることが出来ました。 航空会社の広報の方が僕の舞台など見て知っていて、航空会社で肩代わりしますと言っていただきました。  全部タダで出来ることになりました。   リハーサルを始めると大抵一悶着ありました。  太鼓の音が尋常ではないので。  なんとかこなして、結果大好評でした。  それをきっかけにベルリンフィルから声がかかったり、いろいろなところでやるようになりました。  

海外でやる方が多くなりました。  初めて聞いてもスタンディングオベーションでした。 リハーサルやってもオーケストラ団員が拍手してくれます。    太鼓は楽器という事ではとらえられない雑音成分の多い音なんです。  本来オーケストラと共演するのには無理があるんです。   倍音を含む雑音成分の多い音は人間の心理を掻き立てたり、興奮したり、懐かしい気分にさせたりするらしいんです。   海外ではよく泣いて聞く人が多いです。  楽屋まで来てなんで泣けてしまうんでしょうと聞きに来た人もいましたが、僕にもわかりませんでした。    書物を読んだりして気が付いたのは、母親のなかで胎児の時に聞いている音がそっくりらしいんです。    雑音成分が多い音で、母親の心臓の音がして、羊水の中なので皮膚感覚でその振動を受けて、ずーっと寝ているわけです。  生まれる前は人類はみんなあの音を聞いて育っているわけです。   日本固有の音と思っていたものが、実は人類共通の音で大人は懐かしいような切ないような感じになって涙が出たり、乳幼児はまず熟睡します。   50か国以上いっていますが、人種に関係ない、反応は国の違いはないんです。  

オーケストラの中に入ってもちゃんと音楽的に成立するという事が実現できたので、お祭りで打って居る太鼓ではないというところが、一つ扉が開いたという事はありがたいことだと思います。   或る美術ギャラリーで演出を含め、すべて一人で1時間以上やる機会がありました。  それが好評で大きなコンサートホールでもやらせてもらうようになりました。 去年の50周年の時には一人で2時間やりました。   演出、振り付け、衣装、照明等も自分で考えてやりました。   

自分のことを認めてくれなくてもコツコツ作ってゆく、おこがましいがゴッホのようでありたい、ゴッホは生前は全く無名だったが、亡くなってから大変な画家と認められた。   名前の出なかった美術家をテーマにして、光を当てて皆さんに知って貰おうと思って、無名ではないですが、写真家では有名なマン・レイを取り上げて見ました。  石をぶら下げて打つと金属的な音がして、僕なりのマン・レイを解釈して太鼓と組み合わせてやりました。  伊藤若冲も有名になる前にやりました。   ジャンルを超えていろいろ共演もしています。   2/4にサントリーホールで(2/2が誕生日で70歳になる。)ジャンルを超えた演奏会を行います。

2022年1月29日土曜日

浜内千波(料理研究家)         ・頑張らない健康食生活と私を育てた徳島の食

 浜内千波(料理研究家)         ・頑張らない健康食生活と私を育てた徳島の食

徳島県海部郡海陽町出身の料理研究家 浜内千波さん。  

小さいころワカメかなと思っていたのがアンロク(ヒロメ)で、アンロクおいしいと言っても東京のほうではチンプンカンプンなんですね。  毎日頂いている食材がどれだけ力があるか、確認していきたいと思います。   良く動くこと、しっかり睡眠をとる事、よく笑う事、偏りのない食生活というのがとっても大事になると思います。   頑張らなくても健康を意識した食生活の簡単なポイントを説明していきたいと思います。   

テーマは朝はドロドロ、昼はカミカミ。  30~50回噛みなさいそして胃に渡してあげてくださいという事です。  胃はもっと細かくして行きます。  よく噛めばドロドロになり体内の負担も胃の負担も軽くなって行く。   胃の働きは朝起きた時には活発ではないので、出来るだけ消化に良いもの、朝は脂分の少ないもの、柔らかいものがいいです。  昼ご飯は栄養を取り込む活発な時間帯で、出来るだけいろいろな食材たちを取り込んでいただくことがいいと思います。  栄養補給をして体を作るのが昼食になります。  夜は休んでゆく状態になって行くので、昼はしっかりと、夜は控えめにするのがポイントだと言えます。  

「便」は便りと言います。  「便」をよく見てください。  腸の状態が健康かどうかという事が「便」によって判って来るという事です。  野菜類を沢山取ることによって弱酸性となり便の色が黄色くなるんです。  肉とか脂分が多いとアルカリ性になり悪玉菌が多くなってきて、茶色、黒に近づいてくる。  

腸は小腸と大腸に分かれます。   胃からもらったものをもっと細かくして、吸収して全身に送るのが小腸です。  とっても大切な臓器で腸内環境を良くして、食べたものを栄養吸収する場所になります。  大腸は食べた残りかすとか、悪いものを排出する部分です。 腸は健康の要ともいわれます。        

善玉菌を増やすには発酵食品がいいと言われます。  キムチ、みそなどの発酵食品、乳酸菌飲料のヨーグルトなどは直接腸に影響してきます。  続けてゆく食生活を送っていただきたい。  いいものは腸内にはとどまってくれないので、口の中にいれてゆく必要があります。  善玉菌の栄養となるのがオリゴ糖なんです。  オクラ、タマネギ、アスパラガス、大豆、ゴボウ,蜂蜜なども天然のオリゴ糖が入っています。  

ネバネバ成分で生活習慣病を予防。  ネバネバ成分には水に溶ける食物繊維、糖タンパクが含まれていて、コレステロールの調整をしてくれたり、血糖値の急上昇を抑制してくれます。    食物繊維には2種類あり、水溶性食物繊維と、不溶性食物繊維があります。  不溶性食物繊維は水分を抱え込んでくれて、便を柔らかくして排便を促してくれます。   大麦、オクラ、ゴボウ、モロヘイヤ、アボガド、納豆、海藻類、キウイは優れものです。 少しでもいいから毎日取り入れる工夫をしてみてください。    

生で野菜を頂きましょう。  野菜に熱を加えていただくことも大事です。  ほうれん草の炒め物、とんかつ、大根おろしとか貝割れをちょっと添えるだけでも大丈夫です。   

お金は貯金できても栄養は貯金できない。   毎食こまめに継続して取ることがとっても大事です。   カルシュウムは毎日取ることが必要になります。   小学校から高校では身長も体重も骨量も増加します。  歳を重ねても密度を保つことが大事です。  牛乳が効率がいいです。 

タンパク質  三食バランスよく食べましょう。  1食で効率よく吸収されるタンパク質の量は約20gと言われています。   豚肉薄切り100gのタンパク質の量は17.4g入っています。 鮭80gでは18g入っています。  肉、魚は重量の約2割のタンパク質の量が入っています。  納豆50gで6.6g 卵1個50gで6.1g  豆類、卵は重量の約1割のタンパク質の量が入っています。   加齢とともに吸収率が悪くなるので、しっかりと取る必要があります。

カツオとコンブだけが旨味ではなく、材料にもそれぞれ力を持っています。   野菜にはカツオ、コンブと同様のグルタミン酸が含まれています。  肉、魚類にはイノシン酸が含まれています。  キノコも2種類にして炒めるだけでコンブよりも22倍旨味がアップするというデータがあります。   

病気の気配は薄味意識で薄めよう。  世界は減塩方向に向かっています。 目標は5gです。  日本は2倍取っているのが現状です。   高血圧になり、血管がボロボロになり、動脈硬化、心臓にも影響が出てきます。  腎臓にも負担がかかってきます。  減塩もそうですが、野菜や果物を取ることがとっても大事です。   野菜の持つカリウムが塩分を取ることができる。   しつこい料理には酸味をちょっと足してやると美味しくしてくれます。 

ゴミの中で多いのが野菜の皮くずで、その皮を出来るだけ頂いてもらいたい。   皮の近くに栄養が高いと言われている。  料理にうまく使ってほしい。  ポリフェノールは水に溶けやすいので注意が必要です。(ゴボウ、レンコン,ナスなど)    スダチのヘタを入れると煮崩れを防ぐ。(酸をちょっと入れる)

徳島産 鳴門ワカメ、ハモ、鳴門レンコン、徳島ニンジン、阿波雄鶏、鳴門キントキなど。