2021年5月2日日曜日

山口勝平(声優)            ・【時代を創った声】

山口勝平(声優)            ・【時代を創った声】 

山口さんは25年間続いている「名探偵コナン」の工藤新一役で知られています。  師匠は肝付兼太さん、声優を目指したきっかけをはじめ、肝付さんへの思いなどを伺いました。

テレビアニメらんま1/2』の早乙女乱馬役、「犬夜叉」の犬夜叉役、「名探偵コナン」の工藤新一役など数多くのキャラクターを担当。   元が舞台役者なので多くの舞台にも出演。

3,4本のマイクで多いと50人ぐらいの人が入れ替えあり立ち代わり使っていましたが、コロナ渦では 多くて3人とかになったので様変わりしました。   相手のセリフなどを聞かないでやるのでやりにくさがあります。  

Eテレの「宇宙なんちゃらこてつくん」ではこてつくんのおじいちゃん役をやってます。  娘の山口あかねとのはじめての共演です。   娘にとっては初めてのレギュラー番組です。  長男の竜之介も声優で、小さい時から私のことを見てきているので、そういう部分があったのかなあと思います。   役者として何もっやってあげられないので、歯がゆい部分はありますね。  応援しているという感じですかね。 

福岡県出身で、幼稚園のころからお遊戯会などが大好きでした。   小学校の学芸会では合唱のほうもありますが、お芝居のほうに行っていて多分好きだったんだと思います。   高校3年生の時の3者面談で、進路をどうするというときに、突如「役者になりたい、東京に行きたい」とはじめて言いました。   父は大工をやっていましたが、父の判断で、「行ってみて5年やって駄目だったら帰ってきなさい」と言われました。  東京へ行って5年目で声の仕事をやるようになりました。 

アナウンス系の学校には通ったんですが、どうやったら役者になれるのかわからなかったんですが、声優学校で肝付さんと知り合うことができました。  舞台をやってみたいと思って、「劇団21世紀FOX」に入団して舞台俳優として活動し始めました。    芝居に関しては先輩たちとかがやられているのを盗むという形でした。   役者になるためにがむしゃらにというふうなことではなかったですね。  劇団に身を置いてお芝居に携わっていくという、生活が楽しかったです。  

肝付さんは僕と30違っていたので、生きていたら今年で85歳になりますが、初めて会った時には僕は田舎から出てきたので、ハイカラな大人というような感じでした。  「劇団21世紀FOX」にほとんどいたので、肝付さんとは家族のような父親のような感じのお付き合いでした。

1989年らんま1/2』で声優としてらんま役で、オーディションで受かりました。  声優界のこと判っていなかったので、どういう風に収録するということもあまりわからない状態でした。   あれよあれよという感じで収録に入っていったという感じでした。  名前と顔が一致しないような状態だったので、一緒にやっていて、子供のころから聞いていた声が聞こえてきて、不思議な感じでした。  経験をかさねてゆく中で絵に負けないような芝居をやらなければいけないとか、自分なりの声がだんだん形成されて行って、らんま1/2』の初期のころと3年後の最後のころとではずいぶん変わったと思います。  声で行けるかどうかはその時にはわかりませんでした。

アルバイトも並行してやっていましたが、或る時これでやってゆくんだと思ってアルバイトをエイっとやめてしまいました。  幸いすこしずつ仕事が入るようになり声優のほうだけで食べて行けるようになりました。    壁を乗り越えて、また次に壁が有りそれを乗り越えて、という風な繰り返しのような気がします。 しかしつらいと感じたことはないです。   風邪をひいたり体調管理がまずくて、声が出なかったるすると、歯がゆさとかくやしさみたいなことはあります。  楽しくやるのが大前提かと思います。

4年前から落語を始めました。  立川志ら乃を師匠として師事している。    高座名は「のゝ乃家ぺぺぺぇ」です。  声優の人の落語の挑戦というコーナーがあり、まずそれがきっかけでした。  同じ声優の関智一さんが先に落語をやっていて、一緒にやり始めました。  声優として培ってきたものが全く通用しないということが逆に楽しいです。  まったく対極にあるようなものです。   

アニメと舞台では使う感性が違うというか、アニメなどでは瞬発力の感性が必要、舞台では長距離的な持久力の感性が必要だと思います。  声だけで演じるということはなんにでもなれるという、役者では声の仕事は一番幅が広いと思います。  舞台ではどうしてもやれる役が限られてくる。  

今はプラスアルファが求められる時代になってきて、ジャンルの垣根がなくなってきて、いろんなことがやれるようになってきているが、アニメだけが好きにならないでくださいね、もっと広い視野を持って、いろんなものに興味が持てるようになると、もっと演技は広がってくるんじゃないかと思います。  物事をプラス思考でやってゆくと楽しく過ごせるのではないかと思います。


















2021年5月1日土曜日

山下純一(ハーモニカ奏者)       ・ハーモニカに魂込めて

 山下純一(ハーモニカ奏者)       ・ハーモニカに魂込めて

山下さんは京都生まれの46歳。   原因不明の難病のため視覚と両手足に障害があって車椅子を使っています。   ハーモニカに出会ったのは20歳のころ、独学で奏法を学びますが、病のため変形した手ではハーモニカを上手く手で持てませんでした。  長い試行錯誤の末、曲がった左手で ハーモニカとマイクを巻き込むように持ってそれを右手のほうで下から支えるという独自の奏法にたどり着きます。  2018年初めて参加した国内最大のハーモニカコンテストで優勝、その実力が高く評価されました。  ハーモニカに込めた思いを伺いました。

*「新天地」  山下純一 オリジナル曲

この曲で優勝しました。   ドイツのハーモニカメーカーが主催する日本最大規模のコンテストで、もう40年ぐらいやっているコンテストです。  その38回目に僕が優勝させていただきました。   テンホールズハーモニカは10個の穴が開いている小型のハーモニカになります。  12cmの小型のものです。   学校で習うようなハーモニカは上下に穴が開ているようなタイプでそれとはちょっと違います。  一段のシングルリードと言われているものです。  このコンテストに参加するのは初めてでした。  障害者、健常者関係なく音楽は飛び越えてゆくということで改めて感じました。   出番も最初でした、あまり有利ではないと思いました。  参加者は10数人いたと思います。

今は全く視力はありません。  視力がゼロになったのは20歳のころでした。  手足も関節が変形していて、握力も2kgぐらいです。 ペットボトルも開けられず、歯であけます。普段の生活はヘルパーさんにも来ていただいてますし、いろんなことをするときにはバンドメンバーなどに助けてもらったりしています。   

最初は障害があることを両親は気付いていませんでした。  しゃべるのは誰よりも早かったし、歩くことも早かったようです。  様子がおかしくなったのは2歳半ぐらいと聞いています。   手を触ると痛がってなんでだろうといっていましたが、それは腫れていたようです。   病院に行ってみてもらうと、そのときには若年性関節リュウマチというふうに診断されましたが。  今でもはっきりとした原因はわかっていません。  体の痛みを抑えたりする強い薬は今飲んでいます。  薬を飲み忘れたりするとすごく痛みを感じます。  体中の関節が曲がって可動域が狭くて、肩などは亜脱臼、手、指などは脱臼状態です。

ハーモニカは持ち方が大事で音が左右されてしまいます。  持ち方で音を微妙に調節したりします。  皆さんと同じ持ち方はどうしてもできません。  教則ビデオを見ることはできないが聞いて、その音の真似をするということで進んできました。    持ち方には納得できなかったが、或る時に寝っ転がってハーモニカを 口もとにもっていったときにピタッとうまく押さえられて、僕が思ったような音が出たんです。  でも座ったらできなかった。  座ってもできるように練習を重ねてゆきました。  関節をもっと曲げていったら何とかできるようになりました。  

音楽は実はドラムから入りました。   それまで弱視だったが、20歳ごろに右肩があがらなくなり、体の使い方が変わってしまってドラムができなくなってきました。  音楽は捨てきれずできる楽器を探していたら、テンホールズハーモニカだったんです。  

病気が悪化してゆくことに対しては受け止めざるを得ませんでした。   ずーっと障害者としてきたので、健常者のことを知りたかったので卒論のタイトルは「健常者研究」でしたから。 その間体調が悪くなり2年間休学しましたが、わざとマイナス思考に変えてみました。  できないことを挙げていったら、押さえ込んでいたんだと、自分でやりたかった欲求が見えてきて、音楽はやろうとしているなかで一番可能性がありました。  音楽を死に物狂いでやろうと決心しました。    この音がやっと出たと思うまでには、20年はかかっています。   

テンホールズハーモニカは原始的な音だと思います。  自分の口の中でない音をひねり出したりします。 このハーモニカは普通に吹いていると半音はでません。  一つの穴で吹いたり吸ったりいいろいろ音をひねり出していきます。  タクシー待ちでハーモニカを吹いていたら、それを聞いていた或る人から紹介してもらっていろいろ先生に会えて、教則の先生にも会えました。  ハーモニカでセッションしてもらった時には壁がバーンと取れた気がしました。  アイコンタクトをしたような感覚がありました。 音楽の力です。

コロナ渦の影響はもろに受けました。   全盲で車椅子だとできないことが多いです。 膝にパッドをつけて白杖をついて階段は膝歩きしています。  

学校公演をさせてもらっています。  演奏と失敗談とかお話をしています。  子供たちの柔らかい発想は未来の希望です。   あなたたちの発想が世界を変えるよと言ってきました。

今年行われるドイツの世界大会に出場して頑張りたいと思っています。  11月ですが、コロナの関係で開催されるかどうかわかりません。  いいライブ、作り手としていい表現の作品を残していきたいと思っています。

*「まだやれる」   ハーモニカ奏者・山下純一






  

2021年4月30日金曜日

鴻池朋子(アーティスト)        ・芸術の根源を問い続けて

鴻池朋子(アーティスト)        ・芸術の根源を問い続けて 

去年埼玉県所沢市に「角川武蔵野ミュージアム」がオープンしました。   建築家隈健吾さんの設計による石の外観は転がり出た大きな石の塊のようにもみえる建物です。   その外壁に鴻池さんの作品、「 武蔵野皮トンビ」が展示されています。   幅24m高さ10mのなめした牛革に水彩塗料で翼を広げた巨大トンビが描かれ、その身体にはカマキリやキツネや森の古木が描かれ、トンビが森全体を運んできています。   鴻池さんは秋田県出身、東京芸術大学で日本画を専攻し、卒業後は玩具、雑貨の企画デザインに携わりました。   1997年から個展などで創作発表活動を始めます。   人間が表現し物を作るという行為について考察した作品で、2017年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しました。  世界規模のコロナウイルスの感染拡大という事態に直面し、今改めて人と自然との関りが問われています。

「角川武蔵野ミュージアム」の北側の外壁に「 武蔵野皮トンビ」が展示されています。  原始的で自然の根源的な力強さを感じさせる、つばさを広げたトンビのような巨大な造形画、岩の壁面に張り付き血の通った顔の暖かさを周囲に漂わせています。  皮のトンビには原始の森の奥深くの植物、生物、動物が描かれています。  トンビの顔が愛らしいのです。  不思議な存在感で石の塊をアニメートしている生命力を与えているそんな感じがしました。

下見に行った時からこれはもう外壁かなと思いました。   隈健吾さんの建築写真の上に大きな絵で描いたトンビを貼り付けて送りました。   是非それでやってほしいという事になりました。   建物の外で設置をする仕事もこの10年間多かったので、天候が絡んでくる場所での作品の関係性をやってきたので、室内では守られていて本来いいはずですが、自分には弱点のような気持ちが出てきました。   外壁の手触りとか、牛革を使っている、外壁に設置するということは安全基準が高くなり、取り付け方を設計した人達と一緒に考えることになりそこが物つくりとしては面白かったです。  水彩の絵具を使いました。  経年変化はします。  あえて晒して感じるという事をやりたいと思いました。 

永遠性、普遍性みたいなものを美術館はになってきましたが、生きていれば必ず経年変化はあるし、それが如実に感じられたのが、この10年で、東日本大震災の経験は大きかったです。   

お茶の水、神田淡路町を繋ぐ一帯の再開発地域に設置されている「ワイルド シングス」は、2012,3年ぐらいに制作したものです。  アルミが素材です。  建築の一部のようなものとして考えないといけないと思いました。   作品はシンプルですが、出来上がるまでにはいろいろ悩んで苦労をしました。   2.5m下には丸の内線が走っていて、丸の内線のこともいとおしく感じます。   

港区港南 「ワイルド シングス」  巨大なアンモナイトのような塊が広がっていて、背骨というか尾っぽが繋がって人魚のような生命を感じさせる造詣があり、人魚が森や山を背負っている。  人魚の顔が単純化されていて、太陽の塔の顔に似ている感じです。   

小さいころ秋田で育っていたころ、初雪が降ってきて翌日には町中が一変している風景を見て、その一番明るい白いさをみて、ふかふかしているようだが、冷たくて厳しい関係性とか、春になると残らないのがすごく良くて、無くなってゆくことも又いいという考え方なども雪と似て言うていいなあと思います。   

春になると芽が出てきたり、いないと思っていたものが出会ったり、こっちが予想もしないところで蜂合わせをして、ショックを受けたり感動することもあり、決して約束がないが、いろいろ出てきます。   

パフォーマンスとか演劇とか一期一会とあまり変わらないような気がして、私以外の人がそれを好きなように使ってくれればいいし、物を収蔵するという事は美術館が宝を保存してゆくという事は、宝は今の人たちにとっても宝として継承できるかどうかを問い直す時期には来ていると思うんです。  外壁にくっつけてみるとか、くっつけてみたら意外にうまくいったとか、経年変化することは通常駄目ですが、観客の視点が凄く変わってきた感じ、それはすごく大きいと思います。

今までの芸術の概念が大きくシフトチェンジする時期に、みんなの気持ちと共に来ている感じがしていますね。  それに対して対応できて行っているのか、という事をアーティストたちはそこに通路を作らなければいけないと思います。  その渦中に今の時代はいるような感じがします。  

2021年4月29日木曜日

中島千波(日本画家)          ・【私のアート交遊録】桜の命を絵筆にのせて

 中島千波(日本画家)          ・【私のアート交遊録】桜の命を絵筆にのせて

桜の画家ともいわれるほど数多くの桜をテーマとして描いてきた中島さん、その運命的な出会いとなった岐阜県伊那谷の淡墨桜を初め、日本各地の桜の名所を訪ね歩き描いた屏風はおよそ40点、中島さんは長い歴史を生きてきた今のこの桜の姿を記録する、私にとって桜はありのままの姿を映す桜の肖像画なんですと話しています。  日本画の伝統に安住することなく、常に新しい時代の表現を求めて、独創的な美の世界を追い求める中島さん、コロナ過で花見もままならない現在、日本画家中島さんに日本人の心の花、桜を通して花を愛でる心や美しさとはなにかについて伺いました。

日本人が桜の花に特別な思いがあるが、日本の農耕文化から始まっていると思います。   植えるときを桜の咲く時期から始まっているんだと思います。    パーッと咲いてパッと散る潔さがあると思います。  日本人の性質をうまく言い当てていると思います。     最近は気候変動で入学式の頃は散っていて、それが悲しいですね。

桜は描き方が判らなかった。   大きな花のほうが楽だなと思っていました。   段々桜の凄さを出すのに一個一個描いていったというのが現実です。  スケッチに3時間ぐらいを3回やりますが、夕方になると散り始めることもあります。  桜の種類もいろいろあってそれぞれ綺麗です。  

父は日本画家 中島清之(きよし)です。   1年間しっかりデッサンと色彩を勉強して、一浪して芸大に入りました。    デッサンで形を捉えることが出来ないといけないですね。   見る目と腕、いにしえの作家のデッサン力をみて摂取の仕方を勉強すれば大丈夫です、原理が判れば物事は意外とスムースに行きます。   そこからが大変ですが。

神奈川県展があって100万円を貰えるので出しましたが、学部生は本当は出してはいけなかった。  そこでは10万円もらいました。  在学中に院展初入選。

小学校6年生ぐらいから鳥獣戯画など模写をしていました。  中学高校の絵の先生になれればいいかなと思っていました。  大学に入って、1年間はまじめにやりましたが、欧米の美術が入ってきて、安保と、ベトナムがあり、日本画の伝統的な書き方だけでなくて、課題以外のことをやっていたら、抽象的なものを描いたりして成績が悪くはなりました。  2,3年生の時にルネ・マグリットを見つけてこれだと思いました。 

シュール的な絵を始めました。 人物画は結婚してからです。(モデル代はいらないから) 段々伝統的な絵を描き始めました。  淡墨桜を最初に見たら、幹の凄さに圧倒されました。(胴周りが10mぐらい)  一日描き詰めして一冊が終わりました。  桜の木に畏敬の念を持ちました。   古木の本の写真集を見て全国にいっぱいあることを知って全国を回るようになりました。   桜の肖像画を描くというような思いになり、屏風に残すという事になり、古木も100年200年経つとなくなってしまうが、絵だけは残るわけです。

福島の三春滝桜(推定樹齢1000年)、岡山の醍醐桜(樹齢700~1000年)、岐阜の荘川桜(推定樹齢450年)など立派なものがあり、描くべき桜だと思っています。  背景によって桜の雰囲気が違ってきます。   凄さは年を経て出来上がってくる年輪、肌が違います、これが魅力です。  花で一番立派なのがソメイヨシノですが、100年持たないが、江戸彼岸桜などは1000年以上持ちます。  幹と枝ぶりが年をとってくると形がよくなってくる、余計な枝がなくなる。   若い木は枝が多すぎて途中で描くのが嫌になってしまうぐらい枝が出てきます。  人間と似ていますね。

判を押したように描くのではなく、花びらを一枚ずつ描くのでいろいろ曲がったりして、リアリティーがあります。   いかにリアリティーを出すかが一番大事だという風に自分では思っています。   本物を描くときに本物みたいに描いてちゃあ駄目で本物には勝てない、本物に勝つためには本物以上に描かなければいけない。   学生時代に抽象的なものをやったときがあるが、意外と古いものからとってきます。   昔のものをしっかり観察して今に生かしてゆくという事を若い時にやっていれば大丈夫かなと思います。  いきなり新しいものばっかりやっていても駄目だと感じます。

前は必死にやっていたが、いまは落ち着いてああなんだなこうなんだと、判っている感じで慌てないですね。  奥村 土牛さんはゆっくり描いているようですぐにできている。  経験の中にちゃんと生かしている。  ただ描いているのではなくて、ちゃんとものを見て理解して、しっかりとかみ砕いてやるから出来ちゃう。   

お薦めの一点としては雪舟の「山水長巻」がいいですね。




  

2021年4月28日水曜日

浅井康宏(東京歯科大学名誉教授)    ・【心に花を咲かせて】帰化植物を探求して75年

浅井康宏(東京歯科大学名誉教授)  ・【心に花を咲かせて】帰化植物を探求して75年 

浅井さんは歯科学の権威ですが、帰化植物の調査研究を75年間に渡って続けてこられた方です。  よく見かける道端の花の多くが帰化植物、外国から渡ってきたものだそうです。   浅井さんは何故帰化植物に惹かれて調べ始めたのでしょうか。  75年間で帰化植物はどう変化してきたのでしょうか。  帰化植物の研究を続けられて、今どんなことを思っているのかお聞きしました。 

日本は島国だから帰化植物というものを考える場合に考えやすい。   雑草で繁殖力、適応力の強いものが生き残るが、生き残ったものは外国からはいってきた帰化植物なんです。  帰化植物が強いのではなくて、丈夫だから生き残っている。   大都会は自然がないが、ちょっと土が残っているとすぐ生えてくるが、ほとんど帰化植物です。   私はほとんど日本の植物はわかっています。   

植物が好きになったのは中学生の時です。   草は身近にあり、雑草に詳しくなって、植物にのめり込みました。   第二次世界大戦が終わって身の周りを見たら、沢山雑草が生えていて、植物図鑑を見ても載っていないんです。    聞いているうちに、久内清孝先生、日本の帰化植物のオーソリティーがいて、先生に手紙を出したら、返事が返ってきました。 あなたが最初に見つけたものだと言われて、「マメアサガオ」という名前を考えました。(高校1年)   植物学会誌に先生が浅井が考えた「マメアサガオ」がいいんではないかと発表したんです。   喜んでそこから始まりました。

帰化植物がたくさん入ってくるようになって、最初は先生が名前を付けていましたが、そのうちに任されて、私が付けたのが100以上になります。   世界の人々が旅行をしたりすると、雑草の種が靴の下に付くとか、荷物にくっついてきて、広がっていきました。   帰化植物という植物は無くて、外国から人間の営みによって、種が持ち込まれて日本の環境が気に入って、居付いてしまったものを総括して帰化植物という事です。   

西洋タンポポ、ハルジオン、ヒメジヨオン、ムラサキカタバミ、マツヨイグサ・・・など、帰化植物で、都会の雑草の80%以上は外国のものです。  船、飛行機などで入ってきます。   横浜などは明治維新後たくさん入ってきました。   長崎の出島からも入ってきました。    ハナカタバミは南アフリカが原産で輸入しましたが、四国、九州に行くと海岸一面にハナカタバミが咲いています。   知らないうちに荷物などによって入ってきたものは、自然帰化植物と言います。   ほかに輸入植物(園芸植物などを含め)と、遺失植物(庭などにある植物の種が逃げ出したもの)などがあり、自然に入ってきたものと、輸入してはいってきたものと二つの系統があります。

北アメリカから食料の援助物資があり、雑草の種も、穀物と一緒に入ってきた。   帰化植物の中にも花粉症をおこすものがあり、一番有名なのがブタクサです。  セイタカアワダチソウも北アメリカのものです。   セイタカアワダチソウもブタクサと一緒のところに生えていています。 アメリカではブタクサによる花粉症で悩んでいます。  

ハキダメギク、ヘクソカズラ、ノボロギクなどかわいそうな名前がついてますが、ハキダメギクは昭和の初めですかね。   牧野富太郎先生の研究会があり、或る人がごみ溜めのところから抜いてきて、牧野先生に聞いたら、即興的にごみ捨て場にあったのでハキダメギクと負う名前になりました。

オオイヌノフグリという名前がありますが、教育上いい名前ではない、名前を変えようと思っても皆さんが使ってしまうので、難しい。

帰化植物がいつごろ入ったのか判らない。   帰化植物をどこで切るかは、文献などに書き残されてあるもので判別する、証拠のないものは入れない。  証拠はないが入ってきたような気がするものは史前植物(歴史には無い以前の植物)と言います。   

本当は植物学者になりたかったが、親も含め周りが歯科医が多くて、成り行きでそうなってしまいました。  植物もやることを前提に歯科へ進みました。   休みの日には海岸、一番よく通ったのは夢の島(埋立地)で、帰化植物が生える条件としては最高で、港があって世界中から船が入ってきて、荷物の積み下ろしがあり、何にも遮るものがなく、先住者がいない場所。  100%帰化植物です。  そこで見つけたものがあり、ユメノシマカヤツリ 夢の島蚊帳吊りという名前を付けました。 

いつ、何処の国からはいってきたのか判らない。  世界の植物図鑑で探して、外国の専門家に問い合わせたりして苦労します。   これだと判った時の嬉しさんは何とも言えないです。    歳をとっったら遠くに行かれないので、身の周りは帰化植物が80%以上なので、帰化植物をある程度判ってくると楽しいですよ。   日本から外国に行っているのもあって、スイカズラ、クズ、アケビ、ノイバラ、とか、日本から輸入しているんです。  欧米人は蔓が好きで、最初観賞用にもっていってます。   スイカズラは増えてしまってどうしようもありません。   クズもアメリカでは増えすぎてどうしようもありません。  その土地に合えば異常に繁殖するわけです。

それなりに楽しめる相棒を見つけることができました。  一つのことに打ち込めたのは幸せだと思います。








2021年4月27日火曜日

梯久美子(ノンフィクション作家)    ・「ノンフィクション」を書く喜び

梯久美子(ノンフィクション作家)    ・「ノンフィクション」を書く喜び 

1961年熊本県熊本市生まれ、59歳。 5歳から北海道札幌で育ちました。   北海道大学卒後編集者やフリーライターを経て、2006年に「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。   2017年『狂うひと 『死の棘』の妻・島尾ミホ』で第68回読売文学賞と講談社ノンフィクション賞を受賞。  去年の梯さんの作品『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』は北緯50度線をまたぐ鉄道紀行で新境地を開きました。

大学を出て就職のために東京へ出て35年ぐらい東京で暮らして、一昨年秋に札幌に戻りました。 44歳になる年にノンフィクション作家になりました。  その前は友達と編集プロダクションをやっていて、その後独立してフリーライターになって、雑誌でルポを書いていました。   或る時に丸山 健二さんの取材をして、丸山さんの庭つくりの取材をしました。   丸山さんから自分で本を書いたらどうかと栗林忠道ことについて勧めがあって、散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」を書くことになりました。   翌年に「硫黄島からの手紙」で渡辺謙さんが栗林忠道役をやることになりました。  渡辺さんが本を読んでくれて、会って役作りのアドバイスをするという事もありました。  

栗林忠道さんのお嬢さんが健在で話を聞くことが出来ました。  たか子さんに沢山手紙を出していて、感動的な手紙です。   本が出たころには亡くなられました。   丸山さんから薦められて、日本の軍人には珍しく栗林忠道は合理的で家族思いの人だったという事で、梯さん書いてみたらどうかと言われました。   いろんな偶然があり沢山の資料に出会うことが出来て、手紙もたくさん保管されていて、この人のことを書いてみようと思いました。    2万人もの部下がいた人なので紙の節約など必要ないが、手紙に2行のところに3行細かい字で書いてあり、裏にもびっしり書かれていました。  硫黄島に行って最初に奥様に出した手紙が遺書のような内容で、子供達を宜しくとか、今まで世話になったとかが書いてあり、追伸があり、お勝手の床下から吹き上げる風の始末をしてこなかったのが心残りである、という事が書いてあり、帝国陸軍軍人とはかけ離れたものを感じました。   もっと知りたいと思いました。   

大本営に辞世の句を送ったが「国の為重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」を「・・・・・散るぞ口惜し」にされてしまって新聞発表されてしまった。  「・・・散るぞ悲しき」では女々しいと思われてしまうと感じたようで。  電報の現物はご遺族の家にありました。  赤線で消してあって横に「口惜し」と書かれていて動かぬ証拠です。 本のタイトルには訂正文の思いで散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」としました。間違いは訂正すべきだと思いました。   

ノンフィクションは書く作業よりも、他人に会って話を聞いて資料を探して読む、という方が大事というか、私にとっては凄く面白くて楽しい作業です。  書く方は凄く大変です。   いい話を聞くほど書くのが辛いです、難しいので。   

栗林中将に出会って、それを書いてしまったので、硫黄島にいった人にも出会って新しい事実も知ることになり、それも書くべきだという事がどんどん出てきて、或る時に三木睦子さん(三木武夫の妻)のお兄さんが戦死されていることを知りました。  お兄さんは部下に対して「捕虜になれ」と言って、自分は亡くなって、部下は投降して助かったという話がありました。  しかし証拠はなかった。  三木睦子さんからはそれは事実だとおっしゃいました。  若い人はその他大勢という意味合いで書いてしまったとの思いもあり、『昭和二十年夏、僕は兵士だった』という当時若い兵隊さんの本を書きました。   書けば書くほど次に調べなければいけないことがでてきて、戦争物を書いてきました。

『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。     『狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ』は第68回読売文学賞と第67回芸術選奨文部科学大臣賞、第39回講談社ノンフィクション賞受賞。  島尾 敏雄さん自体が特攻隊長、テーマとしては戦争もあり、文学者の壮絶な夫婦の話、舞台が奄美。   島尾ミホさんは作家でその本を読んで惹かれて、島尾敏雄さんは奄美に派遣されてわずか1年ちょっとで特攻隊長になり、ミホさんとの恋愛、特攻の出撃が延び延びになって8月15日を迎える。   結婚生活にも戦争の影が残る。  

物を書いて生きて行くという事がどういうことなのか、という疑問が段々湧いてきて、ノンフィクションとフィクションとはどうなんだろうとか、書くことの罪みたいなことを考えさせられました。  奄美に通うようになって15,6回行って奄美が好きになりました。   土地が教えてくれるようなものを感じました。  

鉄道ファンです。  5歳の時に熊本から北海道まで鉄道で行って楽しかった記憶があり、取材でも全国を回って、鉄道に乗っているとリラックスします。             『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』 北緯50度線  宮沢賢治も行っていて、彼との共通点は鉄道好きという事で、宮沢賢治が乗った鉄道に乗りたいという思いもありました。    北海道から近いところを知らなくて、足元の歴史も勉強したいと思いました。   色々書きたいテーマも見つかりました。   

宮沢賢治が鉄道で日本で一番北の駅に行きたかったと思ったということが判り、当時樺太の栄浜駅が日本の鉄道の一番北の駅で、賢治はそこまで行って、私も行ってみました。  彼が書いた文章と現実目の前にあるサハリンの風土を合わせてみることによって、賢治に近づけたのかなあと思いました。  北海道にも賢治は2回来ています。   廃線が好きで、地理と歴史が交差している。   文学者の思い出も詰まっている、楽しさがあります。   ノンフィクションを書く時には苦しみがありますが、書いている時に初めて判ることがあり、書く対象を理解するプロセスとしてすべてがあるという感じです。






2021年4月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】チャップリン

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】チャップリン 

世界の喜劇王として名高いチャップリンは、イギリスの出身で1889年(明治22年)4月16日生まれ。  1977年(昭和52年)12月25日に88歳で亡くなりました。

「人は圧倒されるような失意と苦悩のどん底に突き落とされたときには絶望するか、さもなければ哲学かユーモアに訴える。」     チャップリン

キッド』、巴里の女性』、、黄金狂時代』、街の灯』、モダン・タイムス』、独裁者』、殺人狂時代』、ライムライトなど沢山の代表作があります。 喜劇王とも呼ばれている。  俳優、映画監督、映画プロデューサー、脚本家、作曲家でもあるわけです。

チャップリンは完全主義者で例えば街の灯でチャップリンと花売り娘が出会うシーンがありますが、700回以上撮り直しをしたらしい。  OKが出たのは最初の撮影から約1年後というんですからすごいですね。   一つの映画の中に喜劇と悲劇を入れたのはチャップリンが最初だと言われる。 

「人は圧倒されるような失意と苦悩のどん底に突き落とされたときには絶望するか、さもなければ哲学かユーモアに訴える。」     チャップリン

「ユーモアの中には常に苦痛が隠されている。」    キェルケゴール

「人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇」  チャップリン  *音楽「スマイル」  「モダンタイムス」から
チャップリンが亡くなった時の新聞の追悼記事に引用されたもの。  チャップリンが子供の頃、食肉加工場があって、ヒツジが食肉加工場へ引かれて行って、或る日ヒツジが一頭逃げ出していって、捕まえようとして追いかけてころんだり、ヒツジが跳ねまわったり、周りははやし立てたり、そういう様子を見てチャップリンは笑っていた。  ヒツジが捕まって食肉加工場に連れていかれるときにはっと気が付く。   あのヒツジが殺されてしまう。 私は何日も考え続けた。  「この一件こそ後の私の映画、悲劇と滑稽さが組み合わさった映画の土台を築くきっかけになったのかもしれない」、と言っています。

映画『キッド』の最初の字幕に「笑いとおそらくは一粒の涙の物語」と書いてあって、初めての喜劇と悲劇を混ぜてえがいた長編映画がキッドです。  最初周りからは反対されたようですが、結果は大成功でした。
音楽「スマイル」  歌:ナット・キング・コール

「人生に必要なのは勇気と想像力とそして少しのお金」  チャップリン
ライムライトの中にある言葉。  
テーマ曲「・ ヴィオレテーラ」 街の灯より   
「そして少しのお金」は軽い気持ちで付けた言葉ではない。  少しのお金はどうしても必要なんだという、とってもシリアスな発言。   チャップリンは子供の頃少しのお金でとっても苦労している。  チャップリンの両親は二人ともミュージックホールの寄席芸人でしたが、チャップリンが3歳になる前に別居して、母親が子供たちを育てたがとっても貧しい暮らしでした。   母親は心の病で入院してしまって、チャップリンは6歳で貧しい子供のための施設に入れられてしまう。  

僕(頭木弘樹)も難病になり、親に面倒見てもらって生きていくしかないと言われて、親がいなくなったらお金が無くて死ぬしかないと思いました。  ベッドで原稿を書き始めてお金になり、初めて年収60万円になった時があり、その時には感激して涙が出ました。   「そして少しのお金」というところはグッときました。  「そして少しのお金」は人生にはどうしても必要だなあと思います。  原文のお金はMoneycacheではなくてDough(食べるパンの生地) 
 
「私にとって貧困とは魅力的なものでも自らを啓発してくれるものでもない」チャップリン
自伝より。
*音楽「愛する君」  映画「ニューヨークの王様」より。 
一般的に不幸な経験を無理にプラスに捉えようとする傾向が強すぎると思います。
克服したひとはなかなか言わない。  
貧乏賛美はよくある。  チャップリンは「貧しさを魅力的なものに見せようとする態度は不愉快だ」、と言っている。   

「死と同じように避けられないものがある、それは生きることだ。」  チャップリン
映画ライムライトのなかにある言葉。
*音楽「愛のセレナーデ」  映画「伯爵夫人」より。
考えてみると、選択して生きているわけではない。   物心ついたらすでに生きている。 生きることも死ぬことと同じぐらい避けがたい。   人はなぜ生きなければならないのか、人生の大問題だと思うが、その答えが、避けられないからだという事はかなり斬新だと思います。  

独裁者を作ろうとした時には、ヒトラーが絶好調の時で、アメリカでもヒトラーを支持する人が多かった。  ドイツに投資している財界、映画業界も反対して四面楚歌の状態だったが、それでもチャップリンは作った。   ヒトラーとチャップリンは誕生日も4日違いで、顔も似ている。
チャップリンはユダヤ人だと、ナチスは反チャップリンキャンペーンをするが、ユダヤ人ではなかった。   反チャップリンキャンペーンの影響もあったかもしれないが、チャップリンは否定もしなかった。  否定することは逆にユダヤ人を差別することになるかもしれない。   アメリカで赤狩りがあった時にも、共産主義者かと問われたときに「平和の先導者です」と答えている。   高野 虎市という日本人の秘書がいたが、この人を採用したのは日本人排斥の嵐が吹き荒れていた最中だった。   ユダヤ人の時も、共産主義者、日本人排斥の時にも常にその姿勢を貫いていてすごいと思います。  あれほど愛されていたアメリカから、事実上国外追放になる。   来日した時に5・15事件があるが、チャップリンも暗殺の対象になった。  アメリカのスターを暗殺することで日米開戦に持ち込むことが出来る、それが理由らしいが。

大野 裕之さん、チャップリンの研究家でチャップリンの未公開NGフィルムを全部見ることが出来た世界で3人のうちの一人で、チャップリンのインタビュー記事の中の言葉。
「多くの人からどうやって、痛ましさや人々の苦しみからコメディーを作れるのか、どうやって世界の最も大きな悲劇を笑うことが出来るのかと聞かれます。  私はこう説明します。  私たちが生き延びることが出来る唯一の方法は、私達の困難を笑う事なのですと。」    チャップリン
*音楽「テリーのテーマ」  映画「ライムライト」より