2021年1月31日日曜日

大竹道茂(伝統野菜研究会代表)     ・江戸東京野菜の復活に賭けて

 大竹道茂(伝統野菜研究会代表)     ・江戸東京野菜の復活に賭けて

大竹さんは東京生まれ、75歳 30年近くにわたって東京の伝統野菜の復活に取り組んできました。  NPO法人江戸東京野菜コンシュルジュ協会会長も務めています。

江戸時代から明治、大正、昭和というという時代、これを称して江戸東京。  もうひとつは江戸幕府があった江戸という街、それが東京都になり、そういう場所で作られていた野菜、歴史と場所を併せて江戸東京野菜と言っています。   練馬大根、滝野川ごぼう、谷中しょうが、伝統小松菜が知られていると思います。  50品目はさがしあてました。  一番多いのが山形県で150以上あると思います。   現在トータルで230人ぐらいの人が作っています。 

当時は寒村で、家康が何千人という人を連れてきましたが、新鮮野菜がありませんでした。   1630年代に入ると、参勤交代で国元から野菜の種を持ってきて、野菜を作らせるという事が起きて、江戸の気候風土に合ったものが残って、周辺の農家に広まっていって、名前がついて有名な江戸での野菜になって行く。   綱吉が尾張から大根の種を取り寄せて、練馬に撒かせました。  火山灰土が深くて、1mぐらいに育つわけです。  大根の種を取って巣鴨から滝野川に種屋さんが並んだそうで、練馬大根、滝野川ごぼう、三河島菜などを地方の大名が買い集めて地方でも作ったという事です。  全国に練馬大根などが逆に広がっていきました。

昭和19年目黒の生まれです。  高校2年の時に練馬に引っ越しました。  大根からキャベツに替わっていました。   両親が農家の出でした。  観葉植物を楽しむような時代になってきていて、インドアガーデン的なことをやりたいと思って農大に入って熱帯園芸研究室に入りました。  東京都農協中央協会に就職しました。  電算センターができて、会計処理のデータを作ったりプログラマーの仕事を7,8年やりました。   その後農政の部署に移りました。   栽培から販売に至る営農指導を行って希望していたような仕事内容でした。   オリンピックが終わって、東京が1000万人になるかどうかという時代で東京に人を集めるような政策も展開しました。

農地を売ってもらうために、農地の宅地並み課税の政策で、農家と一緒に長くに渡って反対運動をしましたが、結局は勝ちました。  各市町村の自治体も反対しました。  固定資産税の減免処置をして増税は実質なくなり、引き続き農業をやるといった人たちが現在ある農地です。  

1966年に野菜生産出荷安定法ができて、大都市に野菜を送ってくるのに、指定産地が全国にできて、伝統野菜は揃いが悪くて、段ボールにぴったり収まらないので、3割ぐらい以外は規格外になってしまって、種屋がF1という揃いのいい品種を作ったわけです。   一代だけでそれから種をとっても、同じものができないという野菜です。  昭和56年に「子供たちに残したい身近な自然」という本を作って、やっていましたが、その野菜を作っている人はいないと言われて、どうにかしないといけないと思いました。

昔の野菜を、今判ることを全部調べておこうという事になり、話を聞いて「江戸東京ゆかりの野菜と花」という本を作りました。   これがバイブルになり訪ねて行って種を増やしていきました。   平成9年農業組合法ができて50年目という年で、東京の農業の地域の説明板(ここにこういう農業があったという説明板)を都内に50本立てようと提案したら、その企画が通りました。  神社に建てたいと交渉して46,7本は神社に立てさせてもらいました。  

2005年私と応援してくれる農家などで少人数で伝統野菜研究会を立ち上げました。  江戸東京野菜を探し当てて、2011年にJA東京中央会に江戸東京野菜登録委員会を作って、東京都としても認知していただくことになりました。  NPO法人で江戸東京野菜コンシュルジュ協会を作って、資格試験を行って、詳しい人にPRしてもらおうという事で協会を作りました。  そのころ15品目ぐらいでした。

品川かぶは復活第一号です。   品川の街おこしに役に立ちました。

三河島菜は江戸を代表する菜っ葉でしたが、大正時代にはなくなってしまっていました。 探し始めましたが東京には無くて、仙台芭蕉菜があり、これが昔は三河島菜だという事で送ってもらって小学校などで復活栽培しています。

寺島ナスを復活させたいという事で寺島ナスが小学校で復活して、東向島の駅前商店街がそれで街おこしが始まりました。   寺島ナスは「蔓細千成(つるぼそせんなり)ナス」という品種で、種が残っていて分けていただいて、或る人から栽培指導していただいて今日までつながっています。

食べてもらわないと判らない、野菜の旬が判るというのが伝統野菜です。

将軍とのかかわりのある野菜があります。 地方は大名とのかかわりのある野菜があります。  そういった野菜には伝統野菜の記録が結構居残っていたりします。

伝統野菜は揃いが悪くて、流通にのらなくなった野菜で、東京ならではのおもてなし食材という位置づけで次の世代に伝えてゆくことが大事だと思っています。

  

2021年1月30日土曜日

平塚千穂子(ユニバーサルシアター代表) ・ようこそ!ユニバーサルシアターへ

 平塚千穂子(ユニバーサルシアター代表) ・ようこそ!ユニバーサルシアターへ

平塚さんは東京出身、48歳 2016年に日本で初めてのユニバーサルシアター『CINEMA Chupki TABATA』をオープンしました。  障害の有無にかかわらずだれも一緒に映画を楽しめる映画館で上映作品にはすべて音声ガイドと字幕が付けられています。  昨年からの新型コロナウイルスの影響で休館を余儀なくされた時期もありましたが、映画を楽しむ空間を何とか残したいと感染予防を徹底し、奮闘してきました。  

眼が見えない方はイヤホーンの音声ガイド、聞こえない方には日本映画にも必ず日本語字幕を付けて上映したり、完全防音の個室が一部屋あり、小さいお子さん連れ、感覚過敏の人、発達障害のじっとしていられない人が利用したり、後ろのほうには車椅子スペースがあります。 全席20席の小さな映画館ですが、居心地のいい空間つくりをというシアターになっています。

『CINEMA Chupki TABATA』の Chupkiはアイヌ語で自然界の光を表す言葉で、太陽、星とか自然界の光は誰にも平等に降り注ぐので素敵だと思って付けました。   

非常事態宣言が出された4月にはこの先どうなるだろうと不安でしたが、沢山のかたにご支援いただいて、映画から離れないでいる方がまだいらっしゃるのが支えになっています。   休業中に寄付をしてくれたり、いろいろ励ましの言葉もいただきました。   

小さいころは映画館に行くという事はあまりありませんでした。  高校生の時にウエストサイド物語を見たときには音楽も素晴らしいし、ダンスも凄くて、なんてすごい作品なんだと目を見開きました。   一番のきっかけになった時は仕事とかいろいろなことで挫折して、先が見えなくなって落ち込んでしまって、ふらっと映画館に行って観て、何回か通っているうちに回復していって、立ち直ることが出来て、そこからです。(26,7歳)

映画館でアルバイトを始めて、そこから映画を仕事にしていく入り口になりました。  ユニバーサルについては、別のきっかけがあり、異業種交流会に参加して、映画館を持ちたいというクレージーな夢という事で参加しました。   チャップリンの「街の灯」というサイレント映画を目に見えない方に届けようという企画を考えました。   視覚障碍者の方に映画をどう思っているのか、映画を観たいと持っているのか、質問を投げかけたら、予想以上に映画を観てみたいという事だったが、言葉、音の情報が必要になるので、サイレント映画は全く触れることが出来ない。   何とかならないかなと思って動き出したのが,ユニバーサルシアターにつながる原点になります。   

最初に視覚障害者の人は朗読劇をやっている人たちで、凄く明るくて自分が偏見を持っていたことを知りました。   チャップリンの「街の灯」というものをどう届けようかと考えたが出来なくて、朗読劇の人たちに相談したら、サイレント映画なんて難しいところからはいらないで、普通の映画から始めたらと言われました。  国内、海外などを調べていきましたが、日本では商業的にはそういうサービスはなかったです。  海外ではアメリカ、イギリスではバリアーフリー映画館が、アメリカでは100館以上あるという事を知りました。(20年前)    日本が遅れている事実を知って、映画を見えない人達と一緒に楽しむための音声ガイドの研究と環境作りをしてゆく団体を作りました。(2001年)

全国に視覚障害者の人に登録していただいて、映画を鑑賞するうえでどんなサポートがあるといいか要望を聞いていきました。  音声ガイドの研究、作製を目的にしたボランティア団体『City Lights(シティライツ)』を立ち上げました。  2008年から毎年、「シティライツ映画祭」を始めました。   映画館を借りてやっていましたが、自分たちの小屋をもちたいという夢を掲げるようになりました。   映画館としての条件をクリアーしなくてはいけなくて、やりながらいろいろ学んでいきました。   最初500万円ぐらいで出来るかなと思っていたが、防音工事だけで1500万円かかるという事でした。  募金をスタートして全額募金で賄うことが出来ました。  クラウドファンディングも立ち上げました。 

聴覚障害の人は洋画は楽しめるが字幕がついていない日本映画は楽しめない、小さいお子さんをもったお母さんたちにも楽しめるようにとか、いろんな関りが広がっていくうちに構想も膨らんでいきました。  呼びかけに映画ファンの人たちが答えていただきました。  映画に対して恩返ししたいという人達とかいろいろな人が参加していただきました。   自分の理想を越えてしまったような思いがあります、別の力が働いたような気がしました。

音声ガイドなどもチームを作って、視覚障害の当事者も参加していただいて、シーンを考えながら時間をかけて作っていきます。  見えない人も想像する、楽しむ映画の世界の邪魔をしない様な音声ガイドに段々変わって行きました。

映画館という場所は映画を作った方と、鑑賞する方を橋渡しをする場所だと思っていますが、作る方の情熱とか、思いをちゃんと届けるとか、見たお客様の受け取った思いとかを繋ぐ場所に立たせてもらっているのですごく幸せなことだと思います。   これに支えられている人生だと思います。





2021年1月29日金曜日

尾木直樹(教育評論家)         ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】

 尾木直樹(教育評論家)         ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】

1947年滋賀県生まれの74歳、早稲田大学卒業後、私立高校、公立中学校で22年間に渡り教鞭をとり、その後大学教員に転身、教育に関する専門家会議の委員を歴任し、現在は法政大学名誉教授、臨床教育研究所「虹」所長です。  子育てと教育の講演会に力を注ぐほか、情報番組、バラエティー番組など幅広く活動しています。  尾木さんに際立った個性を生む原動力となった両親の教えや励ましについて、新型コロナウイルの影響下で見えてきた子育てや学びの環境にまつわる環境について伺いました。 

昨年講演会も出来なくなって、10月、11月ぐらいから復活したが、オンラインでした。   最初やりにくいと思っていましたが、チャット機能を使うと生の講演会よりももっとリアルになります。   家族とは濃密な時間を過ごすことができました。

今は虐待が増えてきて、一番問題です。  正規社員でも8万人が職を失っています。  非正規、パートなどを入れると何十万人にもなると思います。  やり場のないストレスになってきます。  

コロナ禍の中16,17日と大学共通テストが53万5000人受験しました。     小学、中学は詰め込みになっていて、地域間格差、公立と私立の格差とかが物凄く広がっています。   志願する人は教育学部が多いです。  

昭和22年生まれ、父は気象庁技官、母は小学校の教師で、姉と弟の3人兄弟です。    故郷は猿とか、熊とかが出てくる山のなかです。  滋賀県坂田郡伊吹村で当時は電気がついたのは5,6歳の頃でした。   鮎、いわなとか手づかみで獲って遊んだりしていました。   祖父は父を叩いたので、自分は子供を持ったら叩かないようにという思いがあって、私は叩かれることなく育ちました。   やり過ぎたときには謝ることが必要だと思います。

学校の宿題を翌日休みなので、明日やろうとしたら、母に呼ばれて、「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」と言ったんです。  この歌の意味は、「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」ということですが、親鸞聖人は、自分の命を桜の花に喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない、だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められています。  その時から宿題などを延ばすという事をしなくなりました。

「負けて勝ち取れ」という事も言われました。  自分の要求を相手の立場を無視してぐいぐい押し付けるのではなくて、相手の気持ちになって共感すると、相手が逆に寄ってっ来たりする。   

教員を目指そうと思ったのは大学4年生で、母が学校の教員が向いているといわれ、自分では向いていないと思っていました。   直樹は先生には恵まれず、嫌な思いをしてきたので、いじけている子、不登校になってる子、非行に走っている子とかの気持ちがよく判るいい先生になると言われました。  そうかと思ってなりました。

1980年代 荒れている子が多くて、煙草を吸っていたりする子に「どうしたの」とまず聞きます。  心と心が響きあえば、ほとんどの場合大丈夫です。   46歳で教育評論家として独立、バラエティー番組で「尾木ママ」としてブレークしたのが、平成21年、62歳の時でした。  「尾木ママ」の名付け親は明石家さんまさんでした。  3倍も5倍も人生を楽しくしてくれましたし、影響力のパワーが100倍以上でした。

「人の目や表情を心で見詰める」  これは教師の職業病の一種かもしれません。  教員と警察は嫌われるんです、人を評価の目で見つめる。  これは一番よくなくて、それを捨て去るのに物凄く苦労しました。   共感するのが難しい。  心で受け止めると見えてきます。   子供達が主役になれる、子供たちの存在がちゃんと社会で認められていくような日本の学校だとか、社会になってほしいと思います。  ポストコロナ時代をどう作ってゆくのか、子供たち、若い親御さんたちにかかっています。  そのためには歴史をしっかり勉強して欲しいと思います。

「ありのままに今を輝く」 色紙にずーっと書いてきました。  目標を作って頑張ろうと挑戦するが、挫折をいっぱい知るわけですが、そうではなくて、今を輝こう、今日やれることを精いっぱい生きようという感じだったら、 明日も輝けば、5年後も輝く、ずーっと輝ける人生になるだろうという発想です。
















2021年1月28日木曜日

ヤマザキ マリ(漫画家・随筆家)    ・【私のアート交遊録】コロナの時代に思うこと

 ヤマザキ マリ(漫画家・随筆家)  ・【私のアート交遊録】コロナの時代に思うこと

14歳でヨーロッパを一人旅、17歳から11年間イタリアに美術留学、イタリア人の夫と結婚後もエジプト、シリア、ポルトガルなど各国の文化の中に身を置いてきた山崎さん、1年前日本に帰ってきたところでコロナ騒ぎに遭遇し、以来日本に足止めされています。   イタリアの夫に電話にすれば日本とイタリアの文化や歴史、価値観の違いなどからコロナ対策をめぐって夫婦喧嘩となったり、見えてきたものも多いといいます。   そんな状況の中でもコロナ後の世界を生きる私たちの提言など、コロナ禍の今どう生きるかというテーマで発信をしています。   今は自分の根幹を強くする時期という山崎さんに、苦境の中で前向きに生きるヒントなどについて伺いました。

一ヵ月日本にいたら一ヵ月イタリアに行くという生活をしていましたが、まったく生活様式が変わってしまいました。  1年ぐらい帰っていなくてこんなのは20何年ぶりです。 最初はそれほど気にならなかったが、移動を制限された生き方が自分にとってどれだけ辛いかわかるようになって、本を沢山読んだり映画を一日3本見るとか、そうしているうちに段々自分を活性化してゆくことに気が付きました。

母が破天荒な母親でして、私は絵を描くことが好きでしたが、先生からお金に還元できないことはやるセンスがないと言われて、母が自分が行くはずだったヨーロッパ旅行に替わりに行って来てと言われて、14歳でヨーロッパを一人旅することになりました。  向こうには母の友達がいるので何とかなるのではないかと思いました。  色々トラブルがありましたが。  最後にルーブル美術館に行くように言われまた。  モナリザを見るように言われたが混んでいて見るのは止めて、彫刻には衝撃を受けました。  先生がどう言おうと帰ってきたときには美術の道に行くんだと決めていました。   母親の影響で私も自由奔放に生きる性格になったと思います。

「出たとこ勝負」という言葉をよく本に書いていますが、開拓していかなければいけないので、自分の土壌を育まなくてはいけないという事で、傷つこうが、孤独感を感じようが、栄養になるなという事が感覚としてありました。  自分が女性だとか、女性だからこうしなければいけないというような既成概念的なものは、何一つ自分には役に立たなかったですね。  

イタリアの11年間の中で、最初詩人の人と付き合って、ボランティアとしてもキューバに行ってサトウキビの手伝いなどしていました。  詩人の彼と結婚しましたが、貧乏で電気、ガス、水道がない、インフラの機能しない家に暮らすという事はどういうことか、それを経験して怖くないですね。

自分に課す負担が無くなったとたんに、こんなに自分って、吸収できる人間だという事が判りました。  比較を止めることがどれだけ人にとって、気が楽になるかという事ですね。旅をすることでなんの比較の基準がないので旅が役に立ちました。  キューバの家族の様子などを垣間見ると、既成の価値観などもなく、貧乏でも楽しく生活をしていて、比べるとかがナンセンスに思えてしまいました。   

「日本人の持つロバ性が大事だ」という言葉が本の中に書かれていますが、コツコツとやることが大事だと思っていて、中東などではロバが使われていて、その忍耐力の姿勢に感動的で、日本に戻ってくると日本人の性質としての忍耐力を感じます。  

このパンデミックで面白いと思ったのは、一つの問題を諸外国すべてが同一、同時期に向き合う経験はなかったと思います。   どういう対応を見せるかによって、比較文化論的な展開が私の中でスイッチが入って、それを本にしてまとめてみるといろいろ見えてくるものがあります。  日本の場合は人の目を見てしゃべれない、そういう国民性が首相レベルまで現れていたが、でもこれが民主主義だと思った時にいろんな疑問が出てきてしまった。 どうしてメルケル首相がこんなに世界中を魅了する演説ができたんだろうと思いました。

人に自分の思いを伝えるという事がどういうことなのか、メルケル首相はよくわかりました。   

移動できなくなって、自分の生産性がものすごく滞ってしまって、自分が鬱になるのではないかと思っていた時に、いろいろな音楽を聴いたり、映画を観たり、本を読んだりして、別の稼働エンジンがかかった、そこを支えてくれる人がいなかったら私はどうかしていたのかわからない。   今回のパンデミックは物凄くそういうことを気付かせる一つの大きなきっかけでもあるのではないかと思います。   お金が無くても人はメンタリティーにきちんと栄養を与えていかなければいけないという事を、知らしめさせられたきっかけだったと思います。  アートは感覚的なところで捉えてくれるので、わーっと吸収してくれる。 ジョーダン・ベルソンという作家が音楽に合わせて、光とか実験映像が展開されてゆくが、それを見たときに想像力のリハビリになったような気がします。   自分の気が付かないやさしさであったり、寛容性、探求心など、目と聴覚から一緒に入れることは結構大事なことだと思いました。 

 私のお勧めはジョーダン・ベルソンのDVD「 5 Essential Films 」(5の基本的作品)です。



  

2021年1月27日水曜日

石田秀輝(東北大学名誉教授)      ・【心に花を咲かせて】実践研究!未来型エコ暮らし

 石田秀輝(東北大学名誉教授)    ・【心に花を咲かせて】実践研究!未来型エコ暮らし

東北大学を早期に退職して、鹿児島県の奄美諸島の一つ沖縄にほど近い沖永良部島に移住して自然と共生する暮らしを実践研究されている方です。   出身地は岡山県で岡山大学付属中学に進学、石田家の決まりがあって、15歳で自立せよと言う事なんだそうですが、16歳から新聞販売店に住み込みで働きつつ自分で稼いで、学校に通いさらにアルバイトをして、そんな忙しい中でも鉱石集めに熱中するという暮らしをしていました。  その後東京大学理科一類に進学しますが、そこだけに収まらず山口大学に移り、さらに海外放浪、企業に就職した後も早期退職し、その後も東北大学に移り、環境科学の分野で研究を進められました。    そこも早期退職して、これまで研究してきたことを実践しようという事で、沖永良部島に移住され実験研究を進めておられます。   その波乱万丈な人生で、なにをしようとされているのでしょうか。

お金は一切貰わないで新聞販売店に住み込みで働き、地球物理学の竹内さんに学びたいと、東京大学理科一類に合格して、山口大学に移籍しました。   大学紛争、などいろいろあるなかで、自分が本当に人生どう生きていくんだろうと頭を悩ませていました。  その後海外に行きました。   自分のことは自分で決めなければいけないなとか、今すべてを決める必要はないんだ、折りに応じて変化をすればいいんだという事は、海外にいるときに腹が決まりました。   山口大学に戻り、大学院まで進み、大手の内装水回りのメーカーに就職しました。   オイルショックの直後で、交通費とお弁当代につられて決めました。

25年間勤めましたが、大変楽しかったです。   51歳で辞めて東北大学に移りましたが、会社の後半で環境戦略と技術戦略の両方の責任者になり、その二つがどうしても一致しなくて、環境と経済が一致しなかったら、工業は存在しなくなるのではないかと悩みました。   東北大学の先生の試験を受けて教授として採用されました。  研究には10年ぐらいかかるのと、環境と経済が両立する概念がおぼろげながら見えてきて、それをどこかで実践してみたいと思っていました。   東日本大震災の後に東北でやりたかったが、利権の絡む世界で、研究はやらせてもらえるが実践はやらせてもらえないと明らかになったので悶々としていました。   沖永良部島の調査を行った時に、日本の文化はほぼ44の文化の要素に別れるが、そのうちの30個が沖永良部島にあるという事が判りました。   沖永良部島で学ばせてもらう事と、自分が今まで研究してきたことを社会実践する、この二つが出来ると思って移住を決めました。

90歳ヒアリングをずーっとやってきました。  戦前成人になって、1960年代に40代の働き盛りの人たちがちょうど90歳ぐらいです。  そういう人達は厳しい制約のなかで生まれ育って、高度成長期に豊かさを知っている。 制約のなかの豊かさを知っている人たちで、そういう人達から620人、文字にして1800万字のヒアリング結果を分析してゆくと、日本の文化要素は44ぐらいになります。

具体的には自然と暮らす、助け合う喜び、お金を使わない交流、些細な感動、とか根底に流れている生き様の要素で44に集約される。  そのうちの30個が沖永良部島にあるという事が判りました。 

ターゲットは持続可能性のある社会です。  沖永良部島はコミュニティーがしっかりしている。  子供たちは知らない人を見たら必ず挨拶をする。   お金を介さないで顔と顔でいろんな仕事、物が行ったり来たりする。  サトウキビ、ジャガイモは作るが全部外に出して、お金が入ってくるという農業のやり方で、食糧自給率が10%台、エネルギーの自足率が6%。   島のなかでいろんなものがグルグル回って、お金がグルグル回って、笑顔がグルグル回るような社会、システムを作りたい。  30/44ある沖永良部島でやればできやすいだろうと思いました。  未来の子に手渡せる最低限の暮らし方の形、暮らし方の形を集めた社会ができると信じています。  沖永良部島も若い子が外へ出て行きますが、ただ大きく違うのが 合計特殊出生率が2を越しているんです。  未来に夢がないと子供は生みませんから未来に夢があるんだろうと思います。  ところが仕事がないと思っている。 島から出て見たいと思ってどんどん出て行きます。  しかしアンケートをとったのですが、高校生の75%は島に戻りたいと言っています。  だったらこんな面白い仕事がいっぱいあるよ、という社会を早く作っておきたいと思っています。  今はないので新しいおしゃれなイノベーションをやっておきたいと思っています。

30のうちの一番惹かれるものは人と自然ですね。  おじいさんおばあさんの子供の様に笑う笑顔、純真さ、ひょいと助けてくれる、そういった人がいっぱいいます。  学ぶことがいっぱいあります。   私の持っている知識も講演をする『酔庵塾』をやっています。  移住して6年ですが、『酔庵塾』を通してこの島の新しい可能性、理論的なことを毎月話をしてゆく、島を豊かにするために何が考えられるか、社会実践の具体的柱、一つはいろんなものを自足しよう(エネルギー、教育、食など)、もう一つは島の人に島の自慢をしてもらう。  大人は昔はよかったと言っているので諦め、子供たちに直に自慢をするためのトレーニングをやろうという事でやれるところから始めました。    学びの場として2017年に4年生の大学、大学院を作りました。  学生は20人弱で、大学院は今年3月に第一号が終了しました。

23年間通い始めて、移住して6年ですが、変な人がうろうろして何かやっているなという事はあったと思います。   家は2004年に島の人が作ってくれました。  夕日の素晴らしいところです。 明るくて陽が照るんだけど涼しいという家を設計してみようかと思いました。  床が考案した土で、エアコンなしで温度、湿度が安定する家、光も入ってくる、風もまわって来る自然と境界がないような家、電気も買わない、そんな家に段々なってきています。  三和土(たたき)を高度にしたもので、土を圧力を掛けて固めて焼かないで蒸します。  そうすると土の構造を残したまま土を固めることができる。  そうすると水がかかってもドロドロになることはなく、土が湿度を40~70%に自動的にコントロールしてくれます。  太陽光で作った電気を電気自動車の電池に溜めて使うという実験を始めて居まして、足りて居ます。 電池を溜めるシステムそのものも、いろんなメーカーさんが作っているのは環境のことはあんまり考えていなくて、経済のことしか考えていないとか、そういったこともどんどん判ってきました。  余計なものがいろいろついている。  食品残渣を発酵させてメタンガスと液肥を取って、液肥は畑にというシステムを南三陸で動かしはじめているので、そういうシステムを使ってクリーンセンターをなくすことを実験的に来年からやっていこうと思っています。  クリーンセンターは重油を使って燃やしているので、クリーンセンターの負荷をどんどん下げてしまいたいと思っています。   食品残渣、ゴミでエネルギーを作るわけです。  東日本大震災のあと、500世帯ぐらいで実験をやったことがあるんですが、分離をするわけですが、たった10日間で分離の率が99%まで行くんです。 自分たちが作ったエネルギーでお湯を沸かしたというだけで大喜びでした。  

人間の暮らしと自然の循環が別々になっているのが問題で、自然の循環の中にちょっとずつでも入りこんでゆくのが凄く大事です。  自然界にはごみは一切存在しない。  ごみと言わないで未利用資源と呼んで、それをどういう風に利用するか、それを自然と一緒に話をしながら決めて行こうと、みんなに言っているところです。

沖永良部島で作り上げた教科書を、他の島とか、過疎地、そして南太平洋の途上国と連携をとって、その教科書をそこのなかで使っていただける事を考えています。

あらゆる政策が東京目線というか、東京から地方に降りてくるという恰好ですが、僕はそれは全くおかしいと思っていて、ローカルが豊かでないと東京なんか暮らしていけない、東京の食料自給率などもとっくに1%切っているわけですから。

2040年には地方が消滅してしまうとあおるだけで、それに対する政策が全然ないんですね。だからローカルが豊かになるための教科書がぜひ必要で、ローカルが豊かになれば東京も豊かになる、そういう風な概念で進むべきだと思っています。   生活価値の不可逆性を肯定して、新しい生活ライフスタイルを描いてゆく。  そういうことが出来ると言う事を私たちの社会実践実験で証明をして行きたいと思っています。  システムを変えてゆく事が暮らし方を変えてゆく事だと思います。  我々の知恵が豊かさを作るんだという事に気付いてほしいと思います。





   


2021年1月26日火曜日

星 弘道(書家・住職)          ・技巧にはしらず、自然に

星 弘道(書家・住職)          ・技巧にはしらず、自然に 

76歳、宇都宮の砂糖問屋に生まれました。  建築家を目指していた星さんは、或る縁で寺の跡を継ぐことになり大学生だった20歳の時に、東京四谷の住職を引き継ぎました。    星さんは修行中に出会った書を見て、お位牌など仏さまに差しあげる文字を何とかうまくなりたいと思い、その文字を書いた先輩の僧侶から書道を習うようになりました。   お寺で住職をしながら書道を無中に励んだといいます。   なかなか入選するのが難しいと言われている日展に30歳の時に初出品で入選を果たしました。   その後さまざまな公募展で力を発揮し、賞を受賞、2012年には日本芸術院賞を受賞しました。

ほとんどの展覧会が中止になり、昨年の11月の日展からすこしずつ解禁になり、いまは「現代書道20人展」をやっています。   朝日新聞がリサーチして20人を選びます。  歴史も66回になります。   4点出していて、一つは大きめの作品、対幅がひとつ、写経を一点、それと材料を吟味した作品です。   50回展から選ばれれています。

書を始めたきっかけは、寺の住職になって余りにも仏さんに差し上げる文字がひどいので、何とかしたいというのがきっかけでした。

朝、お勤めをして午前中は寺にいて、午後から書のほうの事務所に行って、そこで作品を書いたり指導したりしています。

砂糖問屋の次男坊として生まれました。  小学校まで通うのが40分ぐらいかかりました。   自然豊かなところでした。   高校で美術の専攻でしたが、書道に回されましたが、先生との相性がわるくて書道嫌いになりました。   理工系目指して、建築家になろうという思いがありました。  18歳で大学を受けるときに、昭和38年の2月にこのお寺の先代の住職が亡くなりました。   私に白羽の矢が立ちました。  建築のほうもやっても構わないという事で行くことにしました。  立正大学仏教学部へ入学しました。  得度がありましたが、いい加減な気持ちではいけないと師匠から諭されました。  話が違って来て、どうしたらいいかと思いましたが、師匠が立派な方だったので残れたのかなあと思います。  大学では何らかのお寺にかかわる人たちが多かったです。

授業の内容も全然わかりませんでした。  立正安国、正義を立てて国を安んずる、という事ですが、立正暗黒と書いたりしました。  一生懸命勉強はしました。  お寺で修行をしながら学校に通っていました。  朝は4時に起きてお経をあげて、掃除等をやって学校に行って自分の時間が無かったです。   20歳で住職になりました。   大学卒業して荒行があり、100日業がありこれは大変でした。  11月1日から2月10日までで、食事はおかゆ一杯とみそ汁と沢庵で、2時半に起こされて、水垢離(みずごり 冷水を浴びて身を清め、神仏の前に清浄な身となること。またはそのようにして行われる祈願の方法。)をとって一日7回3時間おきに夜の11時までやりますが、その間は仏教三昧で、お経の蓄積をするわけです。  50人ぐらいでしたが、閉ざされた厳しい環境の中でそれぞれ我が出てくるわけで、その人間関係の苦しみとの戦いでもあるわけです。   人間関係のことが役に立ったと思います。  参加するときには医師の診断書を貰って、誓約書を書いて亡くなっても文句は一切ありませんということで、前年には亡くなった方がいて、精神異常をきたした人もいました。   やったことで自信はつきました。  

おかゆを作ったり、みそ汁作ったりする役目がありますが、割烹着を着てやるわけですが、その割烹着の法喜堂という一番面積の広いところに立派な文字が書かれていました。   ああいう文字を書きたいと思って、先生に来てもらって数人で教えてもらったのがきっかけになりました。   3年ぐらいして先生が胃潰瘍になって朝霞先生のところに行くことになりました。   本格的に始めたのが、昭和44年ぐらいで、6年ぐらいで日展に初入選できました。   45歳の頃日展特選を貰えました。  1992年に2回目の特選を貰えました。  

漢詩もやらなければいけないと思って、大東文化大学の猪口篤志先生におしえていただきました。(15年間)  先生にはいろいろ恵まれました。

良寛さんの字は書けないですね、憧れます。

一番相性があったのは顔 真卿(がん しんけい)だったと思います。  王義之は書聖と言われる人で作品としては、行書の『蘭亭序』が最も高名です。  「之」という字が蘭亭序』に20か所出てくるが、全部違う「之」になっているわけでバックに豊富なものが無かったら出来ないわけです。   良寛の落款も全部違うわけです。  良寛も書もいっぱい勉強してあのような世界が出来たんだと思い、憧れます。  

座右の銘は 「随処作主 立処皆真(ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり)」という言葉です。  「随処」は今の環境、自分が出しうる精一杯のことを尽くしていれば、 「立処」は結果、結果は必ずついてくるんだという事で、最初から結果を追うんではなくて、今一生懸命やることが次につながって行く要因になるんだという事です。

技巧が先走りしているから、嫌なんです。  ずーっと見ていても飽きないものを目指したいです。  何でもないんだけれども、なんでもあるもの、そういう書が書けたらいいなあと思っています。




2021年1月25日月曜日