2020年12月4日金曜日

長縄えい子(画家)           ・心の貯金箱をいっぱいに

長縄えい子(画家)           ・心の貯金箱をいっぱいに 

千葉県柏市在住、83歳、幼少期から大好きな絵を描き続け絵本の挿絵、ポスター画、壁画など数多くの作品を手掛けてきました。  日本各地での創作活動のほか海外でも活躍、アメリカ同時多発テロが発生した直後のニューヨークで個展を開いたり、カンボジアでボランティアをしたりと国際貢献も行ってきました。  地元柏市ではおよそ50年間の長きにわたり児童向けの絵画教室を続けています。  好きなことは心の貯金になるという長縄さんに絵画への情熱を伺いました。

今年8月に個展を開きました。  周りが主にやってくれました。   私の絵は主人公がいないんです。(何人も描かれている  生き物も描かれている)

生まれたからにはみんなで楽しく遊んだり、働きましょうよという思いがあります。

絵を描くときにはいろいろ調べて描いています。  国の情勢によっていろいろみんな違ってきます。

小さいころ姻戚の画家の川崎小虎の家に行って、遊びにいってました。  いたずら書きなどしていました。  中心を作るのには周りを固めていかなくてはいけない。  周りの応援が無ければ主役は成り立たない、なんでもそうです。  絵の描き方はそうです。

長澤節さんから絵を学びました。  一番最初は美容新聞社の社長が叔父さんで、表紙とかを描きました。   絵本、挿絵の活動を始めました。   あるきっかけから絵画教室を始めてもう50年になります。

絵画教室で教えたいことは絵がうまくなることではなくて、絵が好きになることです。

見たものを心の中において、自分の心の中を描こうよ、と言っています。

カンボジア、スリランカなどに1,2か月行っていましたが、「どうしてこんな広い世界がこの小さな紙の中に入るのかよ」と、質問してきました。   私は「描いていれば判るよ」、と答えました。

私は主人公のない絵が好きです。 それぞれが主人公だといいたいです。

絵というのは不思議なもので、人を変えていきます、声が大きくなったりします。  力が絵を描くことによってついてくるのではないでしょうか。

子供の頃の想像力をなくさないように教えなくてはいけないと思います。

9・11の時(アメリカ同時多発テロ)に、もし芸術がなんにもなくなったらこの国は戦争状態になっちゃうから、世界中の作家が集まってくれという電話がありました。   動物園はタダになるし、オペラは80%オフになって、人間たちが楽しんで、やれるものを安くして見せようといったんです。  ニューヨークからの呼びかけで行きました。

カンボジアでは識字教育しかなくて、絵はもったいない存在でしたが、そうではなかった。

54校の先生に教えました。  

めるへん文庫、我孫子市で20年ぐらい審査員をしています。

今の自分を毎日描いていけたらいいと思います。


























2020年12月3日木曜日

沢木耕太郎(作家)           ・人生も旅もかろやかに

沢木耕太郎(作家)           ・人生も旅もかろやかに 

1947年東京生まれ、横浜国立大学を卒業後、しばらくしてからフリーランスのライターとなり1970年『防人のブルース』で作家デビュー、1979年『テロルの決算』で第10回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、1986年から刊行が始まった『深夜特急 第三便』で第2回JTB紀行文学賞を受賞、2014年 『キャパの十字架』で第17回司馬遼太郎賞を受賞するなど、多くの文学賞を受賞しています。   今年は初めての国内紀行エッセー「旅のつばくろ」とこれまでの対談、インタビューを集めた「沢木耕太郎セッションズ」全4冊が刊行されました。   海外を舞台にした著作も多く、活動する作家として活躍されてきた沢木さんが最近の日々をどのように過ごしているのか、先月73歳になって今感じていることを聴きました。

23,4歳の頃に最初に外国にいったのは韓国でそれから50年近くたって、一年のうちで一度も外国に行かなかった年はなかったような気がするが、今年は本当に稀有な一年になると思います。  4月以降は東京を離れることはなかったです。

読みたい本があって、江戸城の中に一橋家と清水家があり、そこに勤める御用人の村尾 嘉陵という人がいて旅の好きな人でした。   江戸の近郊に行っては書き残していました。  その中に久遠仏への旅があり、そこまでの往復路の文章が復刻されて、「江戸近郊道しるべ」という本を読んでいまして、村尾さんの歩いた道を歩いてみようと思いました。   番町の切り絵図に村尾家が出ていましたので、ここから歩いていきました。  246号は大山街道と言っていました。 久遠仏まで3万3000歩でした。  村尾さんは約48kmを散歩して、その時に村尾さんは72,3歳でした。

本を読んで、切絵図を調べて、旅をする、やればいろんなことができるんだと思いました。

この一年大変だったという事はないです。  普通を維持することだと思います。

旅の本質的なことは移動することと、そこで何かを見たり、経験したり、他人に会ったり遭遇することだと思います。   この一年は移動を禁止されたわけですが、僕は移動することが好きなんだと改めて思いました。  移動が無くなり、遭遇も無くなってしまいました。

ガイドブックを使わず人に良く聞きます。  

高校1年から2年になる春休みに一人で東北地方に長い旅をしました。   均一周遊券を購入して、夜行列車で行きました。  夜行列車の同席のおばあちゃんからみかん貰ったり男の人からあんパンを貰ったりしました。   寒風山に行こうとしたら、ダンプに乗せてもらって、リンゴも貰いました。   そのリンゴをザックに入れて東京まで持ち帰り、それを機に旅の飢えをしのぐための保険としていつもリンゴをザックに入れておきます。  東北の旅が世の中を肯定的にとらえる一番の原点となったような気がします。

長洲さんのゼミナールに行ったのが僕の人生を変えたと思います。  原稿用紙に作文を書くように言われ、応募者が2,30人いたが、12人選ばれた中に自分はいませんでした。   落とされた理由を知りたいと長洲さんに聞いたら、作文は読んでいませんと言われました。  落としてしまうと大変だろうから、という理由で全員読んでいませんという事で、それなら問題ありませんと言いました。   先生は「僕のゼミに入ってくれますか」と言われて、初めて大人の人に認められた瞬間でした。  それが僕の人生を決定的に変えたと思います。

会社を一日で辞めてしまって、先生が雑誌を紹介してくださって、そこからスタートしました。

最初はルポライターで途中から小説を書くことにしましたが、ノンフィクションのライターの職業は好きで向いていたと思います。    ノンフィクションのライターは仮の人生を生きることにもなります。 

初めての国内紀行エッセー「旅のつばくろ」とこれまでの対談、インタビューを集めた「沢木耕太郎セッションズ」全4冊が刊行しました。   もう数年したら、フィクションも自在に書くような小説を書けるかもしれないとワクワクしています。

本は処理出来なくて、ツバメのように軽やかにはなっていないです。   

旅であれ人生であれ一人で生きて行くことが大事だと思っていて、若いころは家事能力が低かったが、今は家事能力は圧倒的につきました。   冷蔵庫の中にある材料を使って、料理して、台所の跡片付けもしっかりやります。  掃除、洗濯もやりますし、自信の源です。

旅も酒場も一つの学校で、そこで出会った大人たちに振る舞いとか、聞いた話などを自分なりに咀嚼して生きてゆくための糧にする、という事があって、若い人に聞いたら僕たちには酒場がそういう場ではありませんでした、という事でした。  僕たちが酒場での学校の最後の人達であったような気がします。  いろんな作家と飲んでチラッチラッと学んでいきましたが、途絶えてしまったが、僕らの下の世代になると、一緒に酒を飲むという事を好まなくなったと思います。   人に伝えるという事を僕らは怠ってしまったのかなとちょっと思います。

2020のオリンピックは意義、大儀が見つからず取材するつもりはなかったが、2021にオリンピックができる事になったら、取材したほうがいいかなとちらっとは思っています。  オリンピックでのコロナのお休みのひと時をカバーしてもいいかなと最近思い始めています。







2020年12月2日水曜日

穂村 弘(歌人)            ・【ほむほむのふむふむ】高校教諭・歌人 千葉 聡

穂村 弘(歌人)         ・【ほむほむのふむふむ】高校教諭・歌人 千葉 聡 

短歌は大学を出た後にシンガポールの日本人学校で3年間働いて、その時に短歌を詠んでみてと生徒から言われて、自分の歌をと思って朝日新聞に応募したらそのうちの一首が佐佐木幸綱さんに選んでもらって、それから歌人としてやっていくんだと思いました。(24歳)

「われは教師われは教師と反芻し初担任の教室に行く」 ?       千葉 聡  

1998年 『フライング』で第41回短歌研究新人賞受賞。

最初の歌集『微熱体』から穂村さんが紹介。

「明日消えてゆく詩のように抱き合った非常階段から夏になる」       千葉 聡

穂村:今しかないみたいな感じ。 10代のイメージ。 青春は非常事態の時というような特別な時間なので季節としては夏でしょうね。

「前沙羅と付き合っていた中村は水を飲み干し氷も食った」 ?      千葉 聡

千葉:中村は武骨な感じ。 沙羅という女の子のお祝いに集まったときにいろんなことをしでかしたというところを読みたかった。    

「夕映えの砂場に埋めた最愛の僕のロボットの両手はドリル」    穂村 弘

千葉:両手はドリルというのが分かり合えない感じがして、でも最愛だと言っている、そこに惹かれました、届かない思いみたいな。  

「終バスに二人は眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて」      穂村 弘

「夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと お会いしましょう」   穂村 弘

*上記二首に曲を付けて歌う。         歌:千葉 聡

  「おはよう」に応え て「おう」と言うようになった生徒を「おう君」と呼ぶ千葉 聡

穂村:我々の学生時代は逆ですが、今は立場がこんなですかね。

千葉:ほとんどの生徒はちゃんと答えてくれるけど、反抗したりする子は黙って行き過ぎたりすることはありますね。

「卒業生最後の一人が門を出て二歩バックしてまた出て行った」      千葉 聡

穂村:生徒は卒業してゆき毎年押し出されて行って、もうここには来ないんだと思うとセンチメンタルな気持ちになって、最後に何かしたほうがいいのではないかと思うが実際には何していいかわからない。  この生徒の心にも何かそういうもやもやが残っていたのかもしれない。

「終バスに二人は眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて」      穂村 弘

千葉:名歌で紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて、というところがいいと思います。

「夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと お会いしましょう」   穂村 弘

千葉:夢の中は自分の自由にできるような気もするが不思議な制約があり、判らない感じがある。  自分が望んだことではないが、光ることと喋ることは何か光になるような不思議な感覚があって、そういう世界であなたと会いたいというような、二人にしかわからない暗号めいた出会いがあると思って選びました。

穂村:リアルには「止まりますボタン」というべきでそれをわざと「降りますランプ」に変形しています。   「止まりますボタン」では歌にならない。

「錆びてゆくく廃車の山のミラーたちいっせいに空映せ十月」       穂村 弘

千葉:穂村さんのデビュー当時の短歌。  ミラーが空のいろんな光を集めて最後の光を放つような感じがせつないと感じました。

穂村:十月を自然ではなく人工物 もので歌ってみようかなと思いました。

「約束はしたけどたぶん守れない ジャングルジムに降るはるのゆき」    穂村 弘

千葉:約束はしたけど守れない自信のなさ、人とつながりたい心と相反して、このままでいいのかなという自分に揺らぎがあり、その心を映し出す光景としてジャングルジムにすぐ消えてしまう春の雪が降りかかっている。  二人の関係も通じ合えなさを歌ったのかなと切なくなりました。   

穂村:ジャングルジムの細いところにも雪が積もるんだなあと思いました。

千葉:30代になった時にもう自分は青春は詠めないと思って書くことが嫌になって、でも生徒たちのことを書くと救われました。  観察者として若い人たちを読むのもいいなあと思って段々楽しくなりはじめました。

注:短歌「・・・・・」?は漢字、かな文字など違っている可能性があります。






2020年12月1日火曜日

宇都宮直子(ノンフィクション作家)   ・【わが心の人】三國連太郎

宇都宮直子(ノンフィクション作家)   ・【わが心の人】三國連太郎 

三國連太郎さんは1923年大正12年)生まれ、昭和18年中国に出征、戦地から引き揚げた後28歳で俳優デビューします。  三國連太郎さんは個性的な俳優として知られ、役のためにはどんな困難もいといませんでした。 2013年(平成25年)4月亡くなりました。(90歳)    

宇都宮直子さんは三國さんご夫妻と30年にわたり親交を深めてきました。  今年の春には「三國連太郎 彷徨う魂へ」という本を出版しています。

普段は笑顔でハンサムでした。  80代を迎えたころからますます人間的な魅力にあふれた方になられたような気がします。

30年ぐらい前に撮影所に通っているときに奥さんから声を掛けていただいて、そのうちご自宅に招いていただくようになりました。   三國連太郎さんの最初の第一印象は怖かったです。

役者になる前は貧しくて飯さえ食えればいいという事で役者を始めて、芝居さえできればいいと、トラブルを多く抱えていたので独立系の映画にノーギャラで出演したこともありました。    病に倒れてからも芝居さえできれば何でもいいとおっしゃっていました。

三國連太郎の名前はデビューの時の役の名前でした。   三國さんほど変わった経歴の方は珍しいと思います。

演じることにめっちゃくちゃこだわっていて、「異母兄弟」と言う映画では健康な歯を何本か抜いてしまって、熱が出て顔が腫れて結構痛かったと言っていて、自分をどう老人になるためにどうしたらいいかという事で歯を抜いたそうです。 撮影後食べようとしても食べられなくて入れ歯を作ったそうです。  

自分の納得できる演技の為にはトラブルがあり、監督ともよく衝突していました。   人の言いなりになるのは堕落だといつも言っていました。   大船撮影所の門扉に「犬・猫・三國、入るべからず」との看板が取り付けられたという 

映画「飢餓海峡」では殺さざるを得なくなったから殺したんであって彼ははじめから殺意を持っていなかったんだと私は理解していましたが、後で三國さんに聞いたら、あれはあの男は殺人者ですよ、絶対に人を殺して自分だけは生き残ると思ったと解釈してそういう思いで演じました、という話を聞きました。

いろんな役をやってきましたが、自分の中での真実を常に追求してきた役者だったと思います。

「釣りバカ日誌」の社長役は一本で終わりにするつもりだったが、一本一本に社会背景がきちんとしていて、それぞれの痛みを抱える人が登場してきて、それが多くの人の共感を呼んでヒットしたのではないかという事と、西田さんの魅力に引っ張られて長く続いたのかなあと言っていました。ただの喜劇ではなく、チャップリンのように社会に針を刺すような姿勢をもって演じたつもりでいる、と言っていました。

沼津の別荘に一人でいることが好きでした。   友達と呼べる人は最後までとくにいなかったのかなと思います。   読書家でした。 物凄く難しい本、宇宙に関する本とか詩集とかいっぱいありました。   小説も書いていましたが、最後までは仕上がっていませんでしたが、大作の小説に多分なるはずでした。 

親鸞の研究とかもしていました。  いろんな生き方、いろんな考え方が読書から見える、だから本を読むんですと言っていました。   書、絵などもやっていました。

佐藤浩市(息子)、浩市に傷をつけたとよくおっしゃっていましたが、その傷を凄く上手に癒していて、さすが三國さんのご子息だと思います。

三國さんは本当に浩市さんのことを愛してらっしゃったと私は思います。  二人は仲が良くないという事がささやかれていましたが、三國さんはご自身のことしか興味がありませんでしたが、浩市さんのことだけは良く気にされていました。

本の中に「僕にとって(佐藤浩市さんにとっては)、役者三國連太郎が父親であり、父親三國連太郎は役者なんだ」とおっしゃっています。

寛一郎(孫)さんも俳優になっています。

「三國連太郎 彷徨う魂へ」という本を出版して、本当にありがとうございますともう一度お伝えしたいです、刊行前に亡くなられたので。









2020年11月30日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】 

今森さんは滋賀県大津市琵琶湖をのぞむ田園風景の中にアトリエを構えて里山環境をとりもどすために活動されています。  秋のオーレリアンの丘の様子について伺います。

秋は環境がすごく変わる時期です。  目が離せないです。  

蝶々は秋型の装いをして出てくる蝶々もいます。

8月下旬から田んぼが色づき始めて、穂が垂れてきて、9月上旬から中旬にかけて真っ黄色になるんです。   私のイメージはこれが最初の秋です。  土手にキツネノカミソリというオレンジ色の花が咲きます。   そのあとに9月上旬から中旬にかけて真っ赤な彼岸花が咲きます。   アキノタムラソウ(秋の田村草)という淡いピンク色の花、紫っぽいツリガネニンジン(釣鐘人参)の花、秋のリンドウなどかなりいろんな花が咲きます。 秋の花は土手に溶け込んでいるような花が多いです。

稲刈が始まるとにぎやかになります。  1週間もするとがらっと変わります。

棚田のお米は美味しいです。  トラクターが入らないところは手作業になり大変です。   棚田は水もきれいです。   稲木は10mおきに植えていきます。  竹の棒を横たえて藁でくくってそこに稲を干していきます。   稲木の景観が美しいです。  鳥たちの休み場にもなっています。  稲木にはクワガタ、カブトムシ、蝶々なども集まってきます。  今はほとんど稲木が見られなくなりました。

10月になると柿が色ついてきて、甘柿は収穫しますが、渋柿は残っていて沢山実を付け枝が垂れてとても綺麗です。  完熟すると実が落ちてきて蝶々、鳥たちが集まってきます。

土手は1年に何回か焼きますが、草が枯れてくるせいか秋が一番香ばしいいい匂いがします。

録音した秋の虫の声としてアオマツムシ、クツワムシ、コウロギ(カエルの声も入っている)

録音した秋の鳥の声としてカケス。 鹿の勇ましい鳴き声も聞こえます。

イノシシ、キツネ、イタチ、野ウサギも来ます。

雑木林の葉っぱにあたる雨の音、風の音、など聞こうと思って聞かないとなかなか聞こえないですね。

9月には菜の花の種を蒔いて20cm位にになっていて、間引きが必要で今一番それがいそがしい位です。  間引いたものをいろいろ料理して食べます。  菜の花は二種類あって普通の菜の花とカンザキハナナ(寒咲花菜 和製の早咲きの菜の花)で2月に咲きます。   

果樹も植えているので栄養のすき込み、腐葉土、鶏糞などをすき込む作業も冬の前にします。

環境として道と土手がよくなってきました。  来年咲く花が楽しみです。

見過ごしてきたものがいろいろあります、自然は奥深いです、毎日見るというのが僕の目標かもしれません。




2020年11月29日日曜日

大宅邦子(元客室乗務員)        ・定年まで飛び続けた3万750時間

 大宅邦子(元客室乗務員)        ・定年まで飛び続けた3万750時間

早くから優れた仕事ぶりが評価され国際線就航後はファーストクラスのチーフパーサーとして8000人を数える同僚や後輩キャビンアテンダントのあこがれと尊敬を集めてきました。   3万750時間に及ぶ飛行時間を無事に終えてラストフライトから帰ってオフィスには200人を超える同僚や後輩たちが大宅さんを迎えました。  感謝の涙と思い出話が尽きなかったといいます。  45年のキャビンアテンダントの人生にどんなことがあったのか伺いました。

小学生の頃毎週日曜日に「兼高薫 世界の旅」という番組を見ていました。  各地の人、景色、食べ物とかを見て日本とは違うところにはこんな世界があるんだと思って、何時かそういうところに行けるような仕事がしたいと思っていました。

親族が学校の先生が多かったので、学校の先生になる大学に入りました。  外国へのあこがれがあり大学2年の夏休みにヨーロッパへ一ヵ月旅行して20か国回って、やっぱり学校の先生ではなくて海外と関係のある仕事がしたいと思いました.。  秋口にANAの客室乗務員の試験があるという事を知って応募して受け、合格してANAに入社しました。

入社10か月で寿退社する人もいました。 当時客室乗務員の定年退職は30歳でした。

28,9歳の時に、ボーイング767型機 270名ぐらい乗れる新型機を就航するにあたって、知識を代表者がアメリカに行って一般に広めるという仕事があって、行ってみないかと言われました。

定年が37歳、45歳、1985年男女機会均等法ができて60歳になりました。

国際便で最初からチーフパーサーで、自然とファーストクラスを担当するようになりました。

シャンパンをお客さんの前で開けて噴出して、その前のお客さんの背中にいっぱいかけてしまったというような失敗もあり、失敗も結構ありました。

クレームを頂戴してもチャンスになることもあるという事を後輩に話していまして、後輩では手の負えなかったことがあり、クレームを言ってきた人にお茶を出して、飲んでいただいて後輩からもらったクレームについて伺いました。    クレームに対する反省会をして、みんなと共有して自分たちのサービス向上についてきちんと考えますと言って、こちらからの思いも伝えて収まったこともあります。

機内はティーバッグですが、ティーバッグでもおいしいお茶を出したいと考えていて、或るお客さんは食事はいいという事だったので、私がお茶を入れて持っていってもらったところ、大変喜んで、私を呼んでほしいと言われて、伺ったところ、「こういうお茶を飛行機の中でいただいたのは初めてで、食事は同じものでいただかなかったが、この茶いっぱいをいだいたお陰で、ここに乗った価値がありました」と言ってくださって、嬉しかったのと、お茶いっぱいでもおろそかにしてはいけないと思いました。

まず水を紙コップに1/5入れて、ティーバッグを入れて十二分にスプーンで押し出すと、緑色の濃い液体ができるが、それは甘さしか出ていないが、そこにお湯を足して撹拌すると、先に甘味があり苦さが加わっておいしいお茶ができます。

肉もオーブンで焼いて出しますが、焼き方も研究してほぼお客様のお好みの焼き加減をできるようになりました。

「いつも次に使う人のことを考える。」  ギャレー(船潜水艦列車飛行機内で食べ物調理や準備をする場所)はいろんな人が使うので、ちょっとしたことで綺麗になるので、オーブン、電子レンジの隅々まで濡れフキン、乾いたフキンでピカピカにして引き継ぐようにしました。

「素敵を見つけて言葉にする」  自分が眼にしたものが素敵だと発見したら伝えるようにしています。 (お客様、客室乗務員問わず) 

「欲しいものではなく、必要なものを買う」  CAにとっては海外に行くことが日常なので、欲しいと言って買い物をしていると家中ゴミだらけになってしまう事もありますから、必要なときに、必要なものを買うという事を習慣付けないと無駄が多い生活になるのではないかなと思って伝えます。

「経験はかさばらない」  私自身美術館で絵を見るのは好きなのでよく美術館に出掛けました。   心が豊かになった思い出があったので、経験をたくさん買って来ましょうね、という事です。  土産話にもなります。

「好奇心の翼を広げなさい」  兼高薫さんにお会いしたことがあり、80歳を過ぎても目が輝いて素敵な人でした。   アッツ島を通過するかどうか聞いてきて、今日は通らないと伝えたたら、アッツ島の方向を遠くをご覧になって物思いにふけっていて、13,4時間ずーっと窓から見ていて、まだ行ってみたいところがあるんだろうなあと思いました。 兼高さんよりはまだ若いのであちこちいろんなものを見て歩きたいと思ました。

60歳まで勤められるようになって、60歳で辞めたらいろんなところに旅行できるようになるのでやめようかなと思ったが、母から「元気なんでしょう」と言われて、雇用延長もあり、65歳まで勤めることになりました。  

2018年11月20日 ラストフライ ロンドンからの便でした。  いつも通りにしました。

飛行機に「ありがとうございました」と一礼して後にしました。  オフィスに着いたら、200人ぐらい人がいました。  退職したCAとかの方とか吃驚するほどの人達でした。  後輩たちがメッセージカードをアルバムにしてくれたものの厚さが5,6cmぐらいのものが7冊ぐらいありました。

飛行時間は3万750時間29分です。  







2020年11月28日土曜日

覚 和歌子(作詞家・詩人)       ・【私の人生手帖(てちょう)】

 覚 和歌子(作詞家・詩人)       ・【私の人生手帖(てちょう)】

*映画千と千尋の神隠し』の主題歌「いつも何度でも」 作詞:覚 和歌子、作曲:木村弓

大学卒業後、作詞家デビュー、平原綾香さんや、沢田研二さんらに作品を提供、2011年にはいつも何度でも第43回日本レコード大賞金賞受賞しました。  詩人としても詩集「ゼロになるからだ」「はじまりはひとつの言葉」など多くの著作を発表しています。   近年は詩の朗読ライブや、谷川俊太郎さんとの二人の対詩の取り組みなど、言葉と体の関係性に着目して詩作と共に活動を続けていますが、現在の活動のきっかけとなったのは、31歳のころに直面したうつの症状でした。  どのようにしてその時期を乗り切ったのかなど人生の節目について、豊かな言葉がどのように生まれるのか、伺いました。

夫は古典落語家入船亭扇辰で、落語と現代詩の詩作は全然違うフィールドで仕事をしてきましたが、コロナ禍で今までと違ったことを試してみたいと思って、噺家の夫とか弟子たちのことを書いてみたら結構楽しめているんです。

夫は読書が好きで布団の中で本を読んでいたりして、それがワニのような感じで、夫をワニにして書いたら面白いと思って書き始めたら面白くて10編ぐらいになります。

山梨の出身でおてんばでした。 歌を歌う事と文章を書くのが好きでした。  小学校2年の時にブランコに乗っているときに突然詩を作って、母に褒められたことを覚えています。

父と母のなれそめは同じ職場の合唱部でした。 父は小説を書いて母にプロポーズしました。

作詞家としてデビューした時には両親はとっても心配して、その後もずーっと同じように心配していました。

千と千尋の神隠し』主題歌「いつも何度でも」の仕事が来たことを、運という風に言ってしまえば簡単なのですが、私が強い気持ちをもってこの仕事で身を立ててゆくという状態のほうに、この仕事が引き寄せられてきたという風にも言えると思います。

両親はこれで本当に喜んでくれました。

夫の師匠が俳句をやっていてそれに影響されて、夫ももう20年以上句会を主宰しています。

対詩の元々の形は連詩、その源流は連句、連歌で、自由詩という形で連詩ができないかという事をやっていたのが、大岡信さん、谷川俊太郎さんたちの「櫂(かい)」という同人誌のメンバーでした。  数人が数行の詩をリレー形式で書いてゆくものですが、対詩はその二人版で交互に詩を書いてゆくものです。  基本的には現場で一緒に行います。       ライブ対詩、二人がステージの上でパソコンを使って対詩をするわけですが、プロジェクターとつなげて、観客にスクリーンで見てもらいながら推敲を含めて行います。

即興に近い創作現場で、お客さんと作る現場を共有したら、また新しい世界が開けるのではないかと思って始めたのがライブ対詩です。  対応してくれたのは谷川さんだけでした。

中学1年の時に,NHKの「青年の主張」という番組を見ていた時に谷川さんが登場して「新成人に向けて」という自作を朗読されて、それに感動して、私はこういうことをする人になりたいと思ったことを明確に覚えています。

言葉の原型は文字ではなくて、音、声だと思ってる節が私にはあります。

31歳の頃うつのような状況になり、それまでの創作態度が根底から覆ったという感じでした。  うつを経験して気流法という名前の身体技法に出会い、自分の身体と向き合って、自分の身体の実感と言葉をつなげてゆくという構造を発見した時に、そこから書くものが変わりました。  それで詩人としてやっていけるのかなあと思いました。

身体からの実感を言語化してゆくという事です。 繊細なセンサーを働かせることが必要で待っていて受け取る。

詩というものの発祥は古代シャーマンたちが神様とやり取りをする言葉として詩があったという説があって、文字ではなくて音としての言葉が詩ではないかと思います。

私性は言い換えるとエゴとか小我(仏教)だと思いますが、それを消すためには徹底的に見つめて向かい合わないと消えていかないと思います。  自分自身を見つめていって、深いところに降りて行った先は、集合無意識のようなどんなに分かたれた人間同士でも共有できる意識の層にたどり着けるような気がしていて、そこには徹底的に自分を見つめることでしかたどり着けない境地ではないかと思います。

エクササイズとしては、イメージとしては例えば見たくないネガティブな自分がいろいろやってきて、そういった自分についての色んなことを全部花火の玉の中に入れ込んで、打ち上げて夜空にはじけてその光が星々になってゆくような感じです。  イメージトレーニングです。