十五代沈壽官(陶芸家陶芸家) ・薩摩焼400年の伝統とともに生きる
薩摩焼は鹿児島に400年以上前から伝わる焼き物で、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際、薩摩家当主の島津 義弘が朝鮮半島から陶工たちを連れ帰ったことから始まります。
十五代沈壽官さんは本名大迫一輝さん1959年薩摩半島の中西部日置市東市来町美山に
15代続く窯元の家に生まれました。
1999年に沈壽官の名跡を襲名して、今年で20年、来月8月には還暦を迎えます。
先月お父様である14代を亡くされました。
400年の伝統を背負い生きること、先代への思いなどを伺いました。
父はいろんな意味で大きな存在でした。
昭和36年から当時父が34歳だった父が始めた「谷間の子らを救う会」がありました。
子どもの教育が均等に受けられないという事に父は憤りを感じました。
美山小学校ができ、PTAが次々に賛同して最後は鹿児島県庁に座り込みまで行い、2学年合わせて15人という水準の先鞭をつけました。
父はその中心人物でした。
1998年が私たちの先祖が当時の朝鮮から日本にわたってきて400年。
13代からの遺言があって、地震火災から古い作品を守るための美術館をつくる事、400年の節目を盛大に祝ってほしいとのことで父はそれを父は見事にやり遂げました。
それが終わったのが1998年11月30日でした。
その後襲名の話がありました。(父が73歳の時)
1999年1月15日に襲名しましたが、それはその前には他言してはいけないといわれていました。
職人さんたちの給料を間違いなく払って工房を維持してはいけないという事で無我夢中でやってきました。
職人が辞めていったりするので、失われた技術を取り返すこと、若い職人を育てるという事も同時にやっていかなければいけない。
目指してきた方向でキーワードが二つあって、ローカルであるという事と、アナログという事です。
鹿児島の風土がはぐくんできたもの、小さなオーダーにもこたえていかなくてはいけない。
世界の一流品といわれるものはローカルと、アナログという事です。
大学は早稲田の教育学部で地理歴史学でした。
音楽が好きで音楽を一生懸命やっていました。
聞くのが好きでソウルミュージックのサークルを作りました。
父の助言で京都に修行に行きました。
焼き物への適性があるのかなあと決めかねていましたが、15年頑張ってみるように言われました。
その後イタリアの国立美術陶芸科で学びました。
母親から容器を作ってほしいといわれて、考え始めたが、今までのいいとこどりなのではと考え始めたら疑心暗鬼になり作れなくなってしまっていた。
自分をがんじがらめにしているのではないかと思って、逃れるようにイタリアに行きました。
経験知識は生徒15人の中では一番あったと思うが、先生からデザインははじかれてしまい、そういったことが約1年間続きました。
1年ぐらいで日本に帰ろうと思いましたが、ある時に京都の色絵の先生で富本 憲吉先生が「模様から模様は作らず」という言葉がふっと思い浮かんで、何かを見てその人が感じたこと、それを感じたという輪郭のない自分の意志、発想を形にする可視化させたものが模様で、一つの模様は作者のいろいろなインプレッションが込められている。
模様だけをいじくりまわしてももはや模様ではないという事だと思いました。
自分にとっての模様であって、僕の線も色もなくそれで教授ははじいていたのではないかと思いました。
その晩20枚ぐらい書き上げて持っていきましたら、先生はブラボーと言ってくれました。
日本ではいったん職人を機械にしてしまうが全く逆でした。
イタリアには2年いました。
内面的なものを可視化させるのが「表現「」だと思いました。
意志を持つという事は大切だとイタリアで学びました。
韓国にも行きました。
大学院に入って、韓国語を学び、社会を学び陶芸のネットワークを作っていくのが父の思いであったと思いました。
いろんなことがあって日本人とは、民族とは何なんだろうという思いがありました。
日本にいれば朝鮮人といわれるし、向こうへ行けば400年の垢を洗い流せと言われて困ったなあと思いました。
大学に行くことはやめてキムチのかめを作る工場で働くことに決めました。
住み込みで働きましたが仕事はきつかったですが、貴重な経験でした。
司馬遼太郎先生に手紙を書いたことがありました。
民族というのは粗末なものです、文化の共有個体に過ぎず種族ではありません。
面差しは違う、面差しは風土によって作れる、大切なことはトランスする力だというんです。
ネーションといったものをトランスするという事が、今の日本人に一番大切なことなんだと、その場合日本人のアイデンティティーをしっかり持たなければいけない、その上で他国の心が判る日本人にならないといけないと書いてありました。
最後に小生も年少のころから、自らを一個の人類に仕立て上げることをしてきました、と書いてありました。
その手紙を読んだことによって、それがこれからの自分を縛るものではないという事は思いました。
伝承をきちっと守らないと革新は生まれてこないと思います。
400年祭は素晴らしかったです。
一番最初に我が家に伝わっている茶碗に「火ばかり茶碗」というのがあります。
秀吉の朝鮮出兵で多くの陶工たちが日本に連行されてきて、萩焼、有田焼など西の方はほとんどそうですが、土もうわぐすりも陶工も朝鮮だが火ばかりは日本のものだった。
逆に土もうわぐすりも陶工も日本で火だけを持ってこようという企画が持ちあがりました。
火は聖なるものなので、韓国の長老たちが火まで渡すのかという事を言うんです。
これは日本の若者と韓国の若者との未来に向けての話なんだといって了解してもらいました。
400年来の私たちの玉山神社に納めて、今でも灯っています。
同じ火で両方のものを焼こうという事にもなりました。
職人さんに給料を払うことで色々やってきたが、これだけは絶対にというものが見えてくると、そこを掘り下げてみたいと思うようになりました。
大事なのは原料と技術ですね。
薩摩焼の究極のありようを追っかけていきたい。
父に「一人前になるという事はどういうことか」と聞いたら「一人ぼっちになっても寂しがらない男になることだ」といわれました。
2019年7月23日火曜日
2019年7月21日日曜日
棚瀬尚子(料理教室代表) ・【"美味しい"仕事人】世界の食で異文化交流を
棚瀬尚子(料理教室代表) ・【"美味しい"仕事人】世界の食で異文化交流を
外国の家庭料理を学ぶ人気料理教室。
料理の先生は日本に住む外国人です。
ユニークなのは先生の自宅が教室だという事、先生のお宅を訪ねていって本場の料理を教えてもらうというスタイルです。
レシピを学ぶことはその国の食文化を知ることにつながります。
日本語で学ぶことができますが、英語で教えてもらえば英会話の勉強にもなります。
この料理教室ができて20年、およそ2万人の会員が登録し、世界40か国の家庭料理を学んでいます。
世界の料理教室の場合は、東京を中心に約40か国の外国人のご家庭の家に日本人の方がホームステーをする感覚で料理を習いに行く、そういった料理教室です。
先生とだけではなくてご家族の方たちとも一緒に食べる場合もあります。
一番小さなグループで6名、大きいグループですと10名ぐらいが一回で習える人数です。
東京では60か所ぐらいです。
ほかには神奈川、千葉、埼玉、大阪、台湾でもあります。
台湾の方々から料理教室をやってみたいという問い合わせがあって、私が行ってみたのがきっかけとなりました。
教室が開かれるときには日本から台湾に出かけていきます。
およそ2万人の会員が登録しています。
日本語が半数、英語でも行います。
英語でも普段の会話が飛び交います。
英語も普段使わないとなかなか身につかないので。
インドの先生のご自宅に行ってヨガを最初に教えていただいたりもします。
チュニジアの先生にアラビア語の書き方を教えてもらったりもします。
2年前バターが不足している時には、アゼルバイジャンの先生が私の国ではバターを20個使うと言っていました。
みんなでバターを持ち寄りました。
2000年からスタートしました。
以前大手電機機器メーカーで働いていたところは、国際購買部の部門で日本から部品を買って世界各国の工場に送るという仕事をしていました。
世界各国の人々と話をしていました。
それぞれの国の違いを知ることが勉強になり視野も広がりました。
そういった方たちが日本に来るときに、一緒におにぎりを握って食べたり居酒屋に行ったりしました。
会社を辞めて英語能力が落ちてしまうのも寂しいし、いろいろな国の人たちとも繋がっていたいというのがきっかけで、料理教室を始めました。
教えてもらったパスタの料理にはまりました。
インドカレーを自宅で作ってもらたいという気持ちがあり、横浜のインターナショナルスーパーマーケットの掲示板にそういったことを教えてくれる方がいませんかと貼っておきました。
最初インドの方から連絡が来ましたが、知らない人を自宅に招いて教えることは怖いからできないと断られてしまいました。
その時にアメリカの米軍基地の方から連絡がり、やってみたいと電話がありそれがきっかけで料理教室を始めました。
最初3名でした。
いろいろトラブルだらけでした。
ケーキが凄く甘かったが、薄味にするのではなくて、味をそのまま伝えようと思いまし
た。(その国のままの味)
子どものころによく家にギリシャの方が遊びに来ていました。(祖父の友人)
小学校に入ったころ両親に世界の子どもたちをホームステーしたいと話したら、いろいろな国の子どもたちがショートですが、ステーしに来てくれました。
最初は母の友人のハーフのアメリカ人のお子さんが来てくれたのがきっかけです。
英語は全く話せませんでした。
しゃべれなくても一緒にいると楽しかったです。
一回の料理教室は短くて2時間、長いと11時から始まって夜の9時ごろまでやってることもあります。
南米圏、南欧圏の人たちはせっかく遊びに来たんだったら、料理教室を忘れて一緒に飲んで食べて遊ぼう、ダンスもしようという事になったりお喋りをすることになります。
一回でのレシピは4,5つぐらいです。
毎月料理は変えることになっていて、1年で60レシピ、3年で180レシピという事になると、料理の好きな方、探求心が強い方たちが集まってくるという事になります。
先生とは事前に打ち合わせをします。
ライスプディング、日本ではご飯を甘くして食べる文化が駄目そうで、牛乳を使うのが苦手なようです。
世界の料理となるとスパイスも違うし食材も日本で手に入らないという事もあります。
日本の食材を使って近いところまで再現してゆく作業があります。
皮付きの豚肉は東京だとなかなか手に入らないです。
中国、南米の方たちは皮をパリとさせて食べるとおいしいといいます。
郷土料理という事でおばあさんの時代の道具で作ったりするので、パスタを作るときにいろんな道具を持っています。
イスラム教の方はハラルで認定されているものを使います。
ヒンズーの方は牛肉は食べれないが、牛は私たちの神様よ、といった話を伺います。
イスラムのかたは豚肉を切ったことのあるキッチン、切っているキッチンでは料理することができない。
クリスマスは一番一年で華やかなシーズンですが、自分のクリスマスツリーを大切にするので、自分の国から運んできます。
雛飾りと同じような感覚があります。
タイの食事は右手にスプーン、左手にフォークを持って食べるのが一般的です。
マナーは厳格ではない。
イスラム教では食事では左手は使ってはいけない、不浄の手。
世界では手を使って食べる人たちは4割います。
手を使うことで香りを楽しめるし、手の方がおいしく感じることがあります。
先生はインターナショナルスクールのフードフェアーに行って、そこで料理上手な人を見つけてスカウトをしたり、料理好きそうな方を探してスーパーで声を掛けたりしています。
スターも誕生しています、ファン・インソンさんという韓国の料理研究家。
女性のようなかわいらしい方です。(奥さんが日本人)
キルギスの先生の教室が東京の羽村市にあり、羽村市が東京オリンピックのキルギスのホストタウンで、先生がその選手村の料理を作る事になりました。
外国の家庭料理を学ぶ人気料理教室。
料理の先生は日本に住む外国人です。
ユニークなのは先生の自宅が教室だという事、先生のお宅を訪ねていって本場の料理を教えてもらうというスタイルです。
レシピを学ぶことはその国の食文化を知ることにつながります。
日本語で学ぶことができますが、英語で教えてもらえば英会話の勉強にもなります。
この料理教室ができて20年、およそ2万人の会員が登録し、世界40か国の家庭料理を学んでいます。
世界の料理教室の場合は、東京を中心に約40か国の外国人のご家庭の家に日本人の方がホームステーをする感覚で料理を習いに行く、そういった料理教室です。
先生とだけではなくてご家族の方たちとも一緒に食べる場合もあります。
一番小さなグループで6名、大きいグループですと10名ぐらいが一回で習える人数です。
東京では60か所ぐらいです。
ほかには神奈川、千葉、埼玉、大阪、台湾でもあります。
台湾の方々から料理教室をやってみたいという問い合わせがあって、私が行ってみたのがきっかけとなりました。
教室が開かれるときには日本から台湾に出かけていきます。
およそ2万人の会員が登録しています。
日本語が半数、英語でも行います。
英語でも普段の会話が飛び交います。
英語も普段使わないとなかなか身につかないので。
インドの先生のご自宅に行ってヨガを最初に教えていただいたりもします。
チュニジアの先生にアラビア語の書き方を教えてもらったりもします。
2年前バターが不足している時には、アゼルバイジャンの先生が私の国ではバターを20個使うと言っていました。
みんなでバターを持ち寄りました。
2000年からスタートしました。
以前大手電機機器メーカーで働いていたところは、国際購買部の部門で日本から部品を買って世界各国の工場に送るという仕事をしていました。
世界各国の人々と話をしていました。
それぞれの国の違いを知ることが勉強になり視野も広がりました。
そういった方たちが日本に来るときに、一緒におにぎりを握って食べたり居酒屋に行ったりしました。
会社を辞めて英語能力が落ちてしまうのも寂しいし、いろいろな国の人たちとも繋がっていたいというのがきっかけで、料理教室を始めました。
教えてもらったパスタの料理にはまりました。
インドカレーを自宅で作ってもらたいという気持ちがあり、横浜のインターナショナルスーパーマーケットの掲示板にそういったことを教えてくれる方がいませんかと貼っておきました。
最初インドの方から連絡が来ましたが、知らない人を自宅に招いて教えることは怖いからできないと断られてしまいました。
その時にアメリカの米軍基地の方から連絡がり、やってみたいと電話がありそれがきっかけで料理教室を始めました。
最初3名でした。
いろいろトラブルだらけでした。
ケーキが凄く甘かったが、薄味にするのではなくて、味をそのまま伝えようと思いまし
た。(その国のままの味)
子どものころによく家にギリシャの方が遊びに来ていました。(祖父の友人)
小学校に入ったころ両親に世界の子どもたちをホームステーしたいと話したら、いろいろな国の子どもたちがショートですが、ステーしに来てくれました。
最初は母の友人のハーフのアメリカ人のお子さんが来てくれたのがきっかけです。
英語は全く話せませんでした。
しゃべれなくても一緒にいると楽しかったです。
一回の料理教室は短くて2時間、長いと11時から始まって夜の9時ごろまでやってることもあります。
南米圏、南欧圏の人たちはせっかく遊びに来たんだったら、料理教室を忘れて一緒に飲んで食べて遊ぼう、ダンスもしようという事になったりお喋りをすることになります。
一回でのレシピは4,5つぐらいです。
毎月料理は変えることになっていて、1年で60レシピ、3年で180レシピという事になると、料理の好きな方、探求心が強い方たちが集まってくるという事になります。
先生とは事前に打ち合わせをします。
ライスプディング、日本ではご飯を甘くして食べる文化が駄目そうで、牛乳を使うのが苦手なようです。
世界の料理となるとスパイスも違うし食材も日本で手に入らないという事もあります。
日本の食材を使って近いところまで再現してゆく作業があります。
皮付きの豚肉は東京だとなかなか手に入らないです。
中国、南米の方たちは皮をパリとさせて食べるとおいしいといいます。
郷土料理という事でおばあさんの時代の道具で作ったりするので、パスタを作るときにいろんな道具を持っています。
イスラム教の方はハラルで認定されているものを使います。
ヒンズーの方は牛肉は食べれないが、牛は私たちの神様よ、といった話を伺います。
イスラムのかたは豚肉を切ったことのあるキッチン、切っているキッチンでは料理することができない。
クリスマスは一番一年で華やかなシーズンですが、自分のクリスマスツリーを大切にするので、自分の国から運んできます。
雛飾りと同じような感覚があります。
タイの食事は右手にスプーン、左手にフォークを持って食べるのが一般的です。
マナーは厳格ではない。
イスラム教では食事では左手は使ってはいけない、不浄の手。
世界では手を使って食べる人たちは4割います。
手を使うことで香りを楽しめるし、手の方がおいしく感じることがあります。
先生はインターナショナルスクールのフードフェアーに行って、そこで料理上手な人を見つけてスカウトをしたり、料理好きそうな方を探してスーパーで声を掛けたりしています。
スターも誕生しています、ファン・インソンさんという韓国の料理研究家。
女性のようなかわいらしい方です。(奥さんが日本人)
キルギスの先生の教室が東京の羽村市にあり、羽村市が東京オリンピックのキルギスのホストタウンで、先生がその選手村の料理を作る事になりました。
2019年7月20日土曜日
山崎哲秀(犬ぞり北極探検家) ・極寒(ごっかん)の地にひかれて(2018・7・21)
山崎哲秀(犬ぞり北極探検家) ・極寒(ごっかん)の地にひかれて(2018・7・21)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.htmlをご覧ください。
2019年7月19日金曜日
川本三郎(評論家) ・【わが心の人】永井荷風(2019.4.19)
川本三郎(評論家) ・【わが心の人】永井荷風(2019.4.19)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/04/blog-post_37.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/04/blog-post_37.htmlをご覧ください。
2019年7月18日木曜日
江幡千代子(ブックカフェ実行委員会代表) ・移動ブックカフェで交流を
江幡千代子(ブックカフェ実行委員会代表) ・移動ブックカフェで交流を
キャンピングカーに絵本を積んで移動しながらブックカフェを開いでいるブックカフェ実行委員会の江幡さんに伺います。
江幡さんは1944年昭和19年仙台市生まれ、75歳。
32年前に横浜市の北部に広がる港北ニュータウンに移り住みました。
交通事情が不便で文化施設なども整備されていなかったため、皆でいろいろなイベントをして街作りをしたといいます。
本の好きな江幡さんは図書館ファンクラブや読み聞かせなどの活動をしながら、自宅には絵本を集めてふわり文庫という子供たちの居場所を作るなど本を通してコミュニティー作りに取り組みました。
長年街作り活動を作り続けて来た江幡さんが始めたのは、キャンピングカーによる移動ブックカフェでした。
移動ブックカフェ、どのような活動なんでしょうか。
人気絵本は300冊ぐらいブックカフェの車に乗ってしまっていまして、ふわり文庫には400~500冊になります。
おもちゃもたくさんあります。
本の読み聞かせは強制的にやっていました。
自治会主催で実現できて感激でした。
子供会の参加が素晴らしかったです。
ブックカフェは今年の4月にスタートしました。
トライアルを含めると13か所になります。
お寺の駐車場、保育園、畑の中でもやりました。
チャコ村、チャコさんと呼ばれたおばあさんのところで、おばあさんが亡くなったあともおばあさんがやっていたことを引き継いで、お孫さんが週に5日間も地域の拠点を運営しているところがあり、そこでもやりました。
中学生から小さな子供まで大勢いて、紙飛行機つくりなどやったり、チャコさんの友人のおばあさんたちが南京玉すだれをやったりしていました。
みんなで楽しんでいてこんな場所があるのかと思いました。
オレンジ色のキャンピングカーに本を積んで3時間で読める量として300冊の絵本を積んで停まったところにカフェを開いています。
車には15人ぐらいは入れるようになっていて、読み聞かせ、紙芝居などもやっています。
親御さんが読み聞かせをやったりもしています。
オレンジ色のキャンピングカーは小田原の町工場の川田さんと仲間の人たちがものつくりの面白さを伝えたいという事で、町工場を体験させたいとキャンピングカーを改造して「出張町工場」というのが正式な車の名前です。
川田さんとの出会いがありました。
町工場で働いている人は高齢者、外国の人、障害者とかの人たちでした。
そういう人たちこそそれぞれの力を発揮すると、素晴らしい会社になるんだという信念を持っている方です。
会社を経営している小澤さんという方がいて、地域が活性化してゆく活動をやっている方で、その場所をお借りして川田さんをお招きして物つくりの体験を地域の子どもにしていただくという事でキックオフの日に決めました。
その運動にはいろいろな方8人が集まり推進力になりました。
ほかにチョイボラ(ちょっとボランティアをしてくれている高齢者の人たち)の人にも助けられています。
欠かせない重要な要素になっています。
子どもが学校に行っている若いお母さんたちも集まってくれて、本にコーティングしてくれて雨でも安心できるようになりました。
夫にもいろいろ手伝ってもらっています。
テーブルのデザインなどもやってもらっています。
ほかにも周りからいろいろ手伝ってもらっています。
出身は仙台市で港北ニュータウンが出来てすぐに移り住みました。(32年前)
ふわり文庫は2017年の1月に開設しましたが、その1年前に3人目の孫を亡くしてしまいました。(3歳でした。)
絵本が大好きでした。
孫が生きた証として、孫の好きだった絵本を子どもたちに読んでもらう場所をつくりたいと思ってふわり文庫を作りました。
「ふわり]の「り」は亡くなった「りさ」の「り」の名前が入っています。
ある写真をインターネットで見つけて衝撃を受けました、その写真から移動して子供に本を読むように届けることができるんだと思いました。
図書館を応援する活動を20年ぐらいやってきました。
図書館が広げられたらいいという思いがありました。
鹿児島県指宿で移動図書館を作って、その車を作るお金を集めて実現したいという活動を見つけて、これだと思いました。(クラウドファンディング)
154人の方が140万円寄付してくださいまして、活動資金を得ました。
長い間地域の活動をやってきたので、そういったことが集約されたのかもしれません。
『まちの教室」の活動がユニークでした。
『街の音楽会」も毎年やっていました。
「ジグザグ散歩」も月1回やりました。
緑区の区役所の呼びかけもあり、緑区探検ウオーキングのイベントも行いました。
川辺のコンサートもやりましたが、「川風フェスタ」という大々的なフェスタ会場になりました。
そういった活動が面白いという事で横浜中の街作りが集まる「街作りフォーラム」がありそれに私も参加しました。(都築区になったばかりの頃)
「この街しっぽまでおいしいよ」というキャッチフレーズを作りました。
この街に住んでよかったなあ、この街いい街だなあと思うような街にしたいですよね。
街はみんなでいい街にしたいと思っていかないといい街になっていかないと思います。
課題はたくさんあります。
資金、本を置く場所、新しい拠点などありますが、きっとそれをなんとか協力してくれる人が現れるだろうなあと楽観しています。
幾つになってもできると思います。
自分一人ではできないが共感する人たちが増えてくれば、どんなことも可能になっていけるんだろうと思います。
絵本は本当にいろんなことを教えてくれる本当に幅の広い世界なので、たくさんの人たちに届けていきたいと思います。
いろんな出会いを楽しみたいと思います。
キャンピングカーに絵本を積んで移動しながらブックカフェを開いでいるブックカフェ実行委員会の江幡さんに伺います。
江幡さんは1944年昭和19年仙台市生まれ、75歳。
32年前に横浜市の北部に広がる港北ニュータウンに移り住みました。
交通事情が不便で文化施設なども整備されていなかったため、皆でいろいろなイベントをして街作りをしたといいます。
本の好きな江幡さんは図書館ファンクラブや読み聞かせなどの活動をしながら、自宅には絵本を集めてふわり文庫という子供たちの居場所を作るなど本を通してコミュニティー作りに取り組みました。
長年街作り活動を作り続けて来た江幡さんが始めたのは、キャンピングカーによる移動ブックカフェでした。
移動ブックカフェ、どのような活動なんでしょうか。
人気絵本は300冊ぐらいブックカフェの車に乗ってしまっていまして、ふわり文庫には400~500冊になります。
おもちゃもたくさんあります。
本の読み聞かせは強制的にやっていました。
自治会主催で実現できて感激でした。
子供会の参加が素晴らしかったです。
ブックカフェは今年の4月にスタートしました。
トライアルを含めると13か所になります。
お寺の駐車場、保育園、畑の中でもやりました。
チャコ村、チャコさんと呼ばれたおばあさんのところで、おばあさんが亡くなったあともおばあさんがやっていたことを引き継いで、お孫さんが週に5日間も地域の拠点を運営しているところがあり、そこでもやりました。
中学生から小さな子供まで大勢いて、紙飛行機つくりなどやったり、チャコさんの友人のおばあさんたちが南京玉すだれをやったりしていました。
みんなで楽しんでいてこんな場所があるのかと思いました。
オレンジ色のキャンピングカーに本を積んで3時間で読める量として300冊の絵本を積んで停まったところにカフェを開いています。
車には15人ぐらいは入れるようになっていて、読み聞かせ、紙芝居などもやっています。
親御さんが読み聞かせをやったりもしています。
オレンジ色のキャンピングカーは小田原の町工場の川田さんと仲間の人たちがものつくりの面白さを伝えたいという事で、町工場を体験させたいとキャンピングカーを改造して「出張町工場」というのが正式な車の名前です。
川田さんとの出会いがありました。
町工場で働いている人は高齢者、外国の人、障害者とかの人たちでした。
そういう人たちこそそれぞれの力を発揮すると、素晴らしい会社になるんだという信念を持っている方です。
会社を経営している小澤さんという方がいて、地域が活性化してゆく活動をやっている方で、その場所をお借りして川田さんをお招きして物つくりの体験を地域の子どもにしていただくという事でキックオフの日に決めました。
その運動にはいろいろな方8人が集まり推進力になりました。
ほかにチョイボラ(ちょっとボランティアをしてくれている高齢者の人たち)の人にも助けられています。
欠かせない重要な要素になっています。
子どもが学校に行っている若いお母さんたちも集まってくれて、本にコーティングしてくれて雨でも安心できるようになりました。
夫にもいろいろ手伝ってもらっています。
テーブルのデザインなどもやってもらっています。
ほかにも周りからいろいろ手伝ってもらっています。
出身は仙台市で港北ニュータウンが出来てすぐに移り住みました。(32年前)
ふわり文庫は2017年の1月に開設しましたが、その1年前に3人目の孫を亡くしてしまいました。(3歳でした。)
絵本が大好きでした。
孫が生きた証として、孫の好きだった絵本を子どもたちに読んでもらう場所をつくりたいと思ってふわり文庫を作りました。
「ふわり]の「り」は亡くなった「りさ」の「り」の名前が入っています。
ある写真をインターネットで見つけて衝撃を受けました、その写真から移動して子供に本を読むように届けることができるんだと思いました。
図書館を応援する活動を20年ぐらいやってきました。
図書館が広げられたらいいという思いがありました。
鹿児島県指宿で移動図書館を作って、その車を作るお金を集めて実現したいという活動を見つけて、これだと思いました。(クラウドファンディング)
154人の方が140万円寄付してくださいまして、活動資金を得ました。
長い間地域の活動をやってきたので、そういったことが集約されたのかもしれません。
『まちの教室」の活動がユニークでした。
『街の音楽会」も毎年やっていました。
「ジグザグ散歩」も月1回やりました。
緑区の区役所の呼びかけもあり、緑区探検ウオーキングのイベントも行いました。
川辺のコンサートもやりましたが、「川風フェスタ」という大々的なフェスタ会場になりました。
そういった活動が面白いという事で横浜中の街作りが集まる「街作りフォーラム」がありそれに私も参加しました。(都築区になったばかりの頃)
「この街しっぽまでおいしいよ」というキャッチフレーズを作りました。
この街に住んでよかったなあ、この街いい街だなあと思うような街にしたいですよね。
街はみんなでいい街にしたいと思っていかないといい街になっていかないと思います。
課題はたくさんあります。
資金、本を置く場所、新しい拠点などありますが、きっとそれをなんとか協力してくれる人が現れるだろうなあと楽観しています。
幾つになってもできると思います。
自分一人ではできないが共感する人たちが増えてくれば、どんなことも可能になっていけるんだろうと思います。
絵本は本当にいろんなことを教えてくれる本当に幅の広い世界なので、たくさんの人たちに届けていきたいと思います。
いろんな出会いを楽しみたいと思います。
2019年7月17日水曜日
河野匡(日本陸上競技連盟強化委員会ディレクター)・【スポーツ明日への伝言】酷暑と闘う!ランナーたちの挑戦
河野匡(日本陸上競技連盟強化委員会ディレクター)・【スポーツ明日への伝言】酷暑と闘う!ランナーたちの挑戦
今回のオリンピックの陸上競技、特にマラソンの長距離種目は暑さなどとの戦いが予想されます。
マラソングランドチャンピオンシップとはどんな大会なのか、選ばれた人たちは暑さをどう克服してゆくのか、河野さんに伺います。
2000年のシドニーに犬伏孝之が代表になったときは2000年の2月に東京マラソンで代表が決まりました。
2016年のリオデジャネイロオリンピックで伊藤舞が代表になったときには前年の世界陸上で入賞して早々と内定しました。
1年間の準備も経験したし、あっという間に準備しなければいけないというようなことも経験して、マラソンはオリンピックでは花形ですし、注目度が高い、相当プレッシャーがかかるという事はどちらの場合もありました。
年々マラソンを志して世界選手権、オリンピックで戦おうとか、戦えるというイメージがどんどんなくなってきているというのはあからさまに感じました。
メダルから遠ざかっているという現状でした。
2017年の夏から今年の4月30日までの指定されたマラソン大会に出場して条件をクリアするとその選手だけを集めてさらにレースを行って代表を決めていこうと、マラソングランドチャンピオンシップと呼んで9月15日に行うことになりました。
強化プロジェクトとしては瀬古氏がプロジェクトリーダーをやっています。
国内でも戦うイメージよりも選ばれるためのレースというようなイメージに変わってきて、シンプルに競争して勝ったものが行くんだという形を今回は東京オリンピックにもっていく、それで戦う意識が選手に育っていれば、可能性は見いだせるのではないかと思って仕組みを変えていこうと思いました。
何か変えないと日本のマラソンは変わらないという思いの共通認識はできたと思います。
男子が31人、女子は12人のレースが予定されている。
2時間11分が世界ランキング30位程度、世界で戦うには2時間8分30秒ぐらい、女子では2時間24分程度になるような仕組みを作っていけば、それを越えないと次のステージに行けないので、段階を追うという事が今の世代にはあっているのではないかと思いました。
ワイルドカード 国際陸連が世界記録を公認するような大会などに参加 マラソングランドチャンピオンシップの道にいろんな登り口を用意したかった。
しっかりとしたマラソンの経験値を持った選手をスタートラインに並べたいという意見もあったので、仕組みの中に取り入れていったというのがマラソングランドチャンピオンシップです。
2時間5分台の記録が出てきました。
2015年から1億円の報奨金を日本記録に出したのが強烈な飴だったと思います。
マラソングランドチャンピオンシップは鞭の部分でそれが合わさって良い記録が出てきたのではないかと思います。
9月15日はいい天気であってほしいとまず思います。
レースは誰もが予想できないマラソンレースになるのではないかと思います。
スタート1km地点からは本番とほぼ同じコースになっています。
女子は世界との距離にある程度の距離を維持していた。
日本記録は出ていないが世界とそんなに離れていない。
女子は早いレースになるのではないかと思います。
本番は女子が8月2日、男子が9日、暑さとの戦いもある。
①選ばれた選手が暑さに得意なのか、苦手なのか、個性をどう判断するか。(体質)
②暑さのなかでのコンディショニングをどうやれば疲労を残さず本番を迎えられるか。(トレーニング期)
③当日の天候にどう対応するのか。(本番)
2時間走る中で気温が30度を超えるとパフォーマンスが5%落ちる。
2時間3分で走る人が2時間9~10分のレベルになる。
今日本では2時間5分程度ですが、3%に抑えると2時間9~10分のレベルになる。
2~3%に抑えることができればメダルも見えてくると思います。
スタート時間が午前6時になりました。
温度もありますが一番敵なのは湿度なのかなあとも思っています。
今回のオリンピックの陸上競技、特にマラソンの長距離種目は暑さなどとの戦いが予想されます。
マラソングランドチャンピオンシップとはどんな大会なのか、選ばれた人たちは暑さをどう克服してゆくのか、河野さんに伺います。
2000年のシドニーに犬伏孝之が代表になったときは2000年の2月に東京マラソンで代表が決まりました。
2016年のリオデジャネイロオリンピックで伊藤舞が代表になったときには前年の世界陸上で入賞して早々と内定しました。
1年間の準備も経験したし、あっという間に準備しなければいけないというようなことも経験して、マラソンはオリンピックでは花形ですし、注目度が高い、相当プレッシャーがかかるという事はどちらの場合もありました。
年々マラソンを志して世界選手権、オリンピックで戦おうとか、戦えるというイメージがどんどんなくなってきているというのはあからさまに感じました。
メダルから遠ざかっているという現状でした。
2017年の夏から今年の4月30日までの指定されたマラソン大会に出場して条件をクリアするとその選手だけを集めてさらにレースを行って代表を決めていこうと、マラソングランドチャンピオンシップと呼んで9月15日に行うことになりました。
強化プロジェクトとしては瀬古氏がプロジェクトリーダーをやっています。
国内でも戦うイメージよりも選ばれるためのレースというようなイメージに変わってきて、シンプルに競争して勝ったものが行くんだという形を今回は東京オリンピックにもっていく、それで戦う意識が選手に育っていれば、可能性は見いだせるのではないかと思って仕組みを変えていこうと思いました。
何か変えないと日本のマラソンは変わらないという思いの共通認識はできたと思います。
男子が31人、女子は12人のレースが予定されている。
2時間11分が世界ランキング30位程度、世界で戦うには2時間8分30秒ぐらい、女子では2時間24分程度になるような仕組みを作っていけば、それを越えないと次のステージに行けないので、段階を追うという事が今の世代にはあっているのではないかと思いました。
ワイルドカード 国際陸連が世界記録を公認するような大会などに参加 マラソングランドチャンピオンシップの道にいろんな登り口を用意したかった。
しっかりとしたマラソンの経験値を持った選手をスタートラインに並べたいという意見もあったので、仕組みの中に取り入れていったというのがマラソングランドチャンピオンシップです。
2時間5分台の記録が出てきました。
2015年から1億円の報奨金を日本記録に出したのが強烈な飴だったと思います。
マラソングランドチャンピオンシップは鞭の部分でそれが合わさって良い記録が出てきたのではないかと思います。
9月15日はいい天気であってほしいとまず思います。
レースは誰もが予想できないマラソンレースになるのではないかと思います。
スタート1km地点からは本番とほぼ同じコースになっています。
女子は世界との距離にある程度の距離を維持していた。
日本記録は出ていないが世界とそんなに離れていない。
女子は早いレースになるのではないかと思います。
本番は女子が8月2日、男子が9日、暑さとの戦いもある。
①選ばれた選手が暑さに得意なのか、苦手なのか、個性をどう判断するか。(体質)
②暑さのなかでのコンディショニングをどうやれば疲労を残さず本番を迎えられるか。(トレーニング期)
③当日の天候にどう対応するのか。(本番)
2時間走る中で気温が30度を超えるとパフォーマンスが5%落ちる。
2時間3分で走る人が2時間9~10分のレベルになる。
今日本では2時間5分程度ですが、3%に抑えると2時間9~10分のレベルになる。
2~3%に抑えることができればメダルも見えてくると思います。
スタート時間が午前6時になりました。
温度もありますが一番敵なのは湿度なのかなあとも思っています。
2019年7月16日火曜日
石川九楊(書家・評論家) ・書は芸術なり!
石川九楊(書家・評論家) ・書は芸術なり!
福井県生まれ74歳、5歳から大人に混じって書道を習い始めました。
大学は子供のころから憧れていた弁護士を目指し、京都大学の法学部に入学しましたが、1か月でその思いが壊れ、大学の書道部で本格的に書道に向かうようになりました。
卒業後は化学会社に入社しましたが、その会社を11年務めて退社、その後は書道を中心に仕事をするようになりました。。
今の石川さんの作品は細かい線で描く幾何学模様のようだったり、四方八方に広がる緻密な線の表現だったりと、読めないといわれることことが多くあります。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開き、青年期の作品から古典や最近の作品等展示して多くの人にインパクトを与えました。
作家としても活躍し100冊を超える書物を書き、「書の終焉」でサントリー学芸賞
「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
来月は名古屋で展覧会を開くことが決まっています。
今、90×65cmに2400字ぐらいの作品を作っています。
相当小さい字になります。
今日で5日目になります。
体調、気持ちが萎えてくるとやめて(1時間半ぐらい書いて)散歩などして、墨をすりなおしてまた1時間半ぐらいしてこれ以上持たないという事になると翌日にやります。
墨は放っておくと少し分離するので新しくその都度すりなおします。
気持ちが油断するとそのまま形になって現れますので気を付けます。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開きましたが、見学者が多く僕も驚きました。
上野の森美術館の広さをうまく利用できました。
壁を作らずに広く見渡せるようにしました。
絵のような作品もあるが、自由に見ていただければいいと思います。
自分でもわからないところがありますので。
未意識に現れてきてしまうという、そこが表現の面白さだと思います。
83mにつないだ作品もありましたが、全部つなげたのは初めてでした。
1985年ぐらいからああいう風な形で書いてゆく段階に入りました。(40歳ごろ)
周りから読めないというように言われるようになりましたが。
書を見るうえで一番の失敗はなんて書いてあるかという風にアプローチする、そこから先が書の問題です。
「山」ならその人の山への理解、アプローチする角度、その人が使う意味とか、そういうものが全部出てきてしまうものだと思います。
作品が物語る、その作品の声を聴けばいいと思います。
例えば「言葉なんか覚えるんじゃなかった」という句があったときに、どういう風に書いたらその言葉と釣り合うようになるか、教わってきた上手に書けましたというようなものだとその言葉が逃げてしまうというか、辱めてしまうというか、それだったら活字でいい、どうやって「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というフレーズを書として書けるか、書けないか、自分が一番響いてる言葉をどう書くかという事に腐心して、それを少しずつちょっとずつ何かが見えてくるものがあって、それを積み上げていったら、ついに普通に言えば読めない字になったという事です。
大人に混じって5歳から始めました。
小学校中学年になると賞をもらったりしてそれを励みに書きました。
中学は書道部に入り、先生が僕に大きな影響を与えてくれました。
褒められて書が楽しくなりました。
高校時代は先生とはそりが合わなかった。
展覧会とかに対して価値を持たない先生でした。
数学研究部に入りました。(幾何学が好きでした)
大学は書道部に入りました。
書いていくうえで手ごたえがありました。
10歳ぐらいに鉄道のストライキをやっているところに警察が来て理不尽な行為をみて、権力側とは違う形で役に立とうとおもって弁護士になろうと思っていました。
法律は法律に過ぎない、人間には法律以前の広大なルールがあって、それの方がとてつもなく大きい、それを抜きに法律を解釈することはつまらないと思いました。
いろんな状況があるときにそれを変える力には法律はならない。
司法試験に向けてはもうやめようと思いました。(入学1か月後)
残っていたのは書でしたが、何か世の中に役に立つことはしたいとは思っていました。
1967年に京都の化学会社に就職する。
大学の時に婚約をして食べてゆくために仕事をやる必要がありました。
働きながら書道はやっていました。
学問的に書をやる人と書を表現するところと二つに分かれてやっていました。
定年まで描けるか2,3年悶々としていたが、1978年に辞めました。(会社は11年間務める)
編集の仕事を頼まれるようになりそれが忙しくて、書ができなくなってしまいました。
彼女も会社を辞めて、彼女がギャラリーをやる事になり、買い上げる作品を作るという仕組みになって、それから作品がたくさん生まれるようになりました。
妻の力が偉大だったが、亡くなって半年になります。
「エロイエロイラマサバクタニ」という作品とか「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」、「罪と罰」というところを書いてきました。
「エロイエロイラマサバクタニ」というのは350×240cmぐらいの作品です。
イエスが十字架にかかったときに「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(「我が神、我が神
どうして私を思捨てになったのですか」)と叫んだ言葉。
1968年から始まる世界の学生たちが世界を変えようとする運動が1970年ぐらいに収束するが、1970年の展覧会は100人も集まり本当に熱気がはらんで書について議論した。
1972年には一日誰も来ないという日もあり、ある種の空虚感が襲った。
その景色と重ねて「エロイエロイラマサバクタニ」を作った。
書いてゆくときに、こんな風な形になって現れて来るんだと、自分がその出来事のなかに入り込んでいきました。
「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」歴史的なもの、2001年にアメリカ同時多発テロ9・11、お台場原発爆発事件3・11などなども手掛けてきました。
歴史的なものの後に「罪と罰」などを経て評論を作品にしたものとして9・11、3・11へと向かいました。
文筆活動は100冊を越えました。
「書の終焉」でサントリー学芸賞、「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
妻にはいろいろ負担をかけたと思います。
福井県生まれ74歳、5歳から大人に混じって書道を習い始めました。
大学は子供のころから憧れていた弁護士を目指し、京都大学の法学部に入学しましたが、1か月でその思いが壊れ、大学の書道部で本格的に書道に向かうようになりました。
卒業後は化学会社に入社しましたが、その会社を11年務めて退社、その後は書道を中心に仕事をするようになりました。。
今の石川さんの作品は細かい線で描く幾何学模様のようだったり、四方八方に広がる緻密な線の表現だったりと、読めないといわれることことが多くあります。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開き、青年期の作品から古典や最近の作品等展示して多くの人にインパクトを与えました。
作家としても活躍し100冊を超える書物を書き、「書の終焉」でサントリー学芸賞
「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
来月は名古屋で展覧会を開くことが決まっています。
今、90×65cmに2400字ぐらいの作品を作っています。
相当小さい字になります。
今日で5日目になります。
体調、気持ちが萎えてくるとやめて(1時間半ぐらい書いて)散歩などして、墨をすりなおしてまた1時間半ぐらいしてこれ以上持たないという事になると翌日にやります。
墨は放っておくと少し分離するので新しくその都度すりなおします。
気持ちが油断するとそのまま形になって現れますので気を付けます。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開きましたが、見学者が多く僕も驚きました。
上野の森美術館の広さをうまく利用できました。
壁を作らずに広く見渡せるようにしました。
絵のような作品もあるが、自由に見ていただければいいと思います。
自分でもわからないところがありますので。
未意識に現れてきてしまうという、そこが表現の面白さだと思います。
83mにつないだ作品もありましたが、全部つなげたのは初めてでした。
1985年ぐらいからああいう風な形で書いてゆく段階に入りました。(40歳ごろ)
周りから読めないというように言われるようになりましたが。
書を見るうえで一番の失敗はなんて書いてあるかという風にアプローチする、そこから先が書の問題です。
「山」ならその人の山への理解、アプローチする角度、その人が使う意味とか、そういうものが全部出てきてしまうものだと思います。
作品が物語る、その作品の声を聴けばいいと思います。
例えば「言葉なんか覚えるんじゃなかった」という句があったときに、どういう風に書いたらその言葉と釣り合うようになるか、教わってきた上手に書けましたというようなものだとその言葉が逃げてしまうというか、辱めてしまうというか、それだったら活字でいい、どうやって「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というフレーズを書として書けるか、書けないか、自分が一番響いてる言葉をどう書くかという事に腐心して、それを少しずつちょっとずつ何かが見えてくるものがあって、それを積み上げていったら、ついに普通に言えば読めない字になったという事です。
大人に混じって5歳から始めました。
小学校中学年になると賞をもらったりしてそれを励みに書きました。
中学は書道部に入り、先生が僕に大きな影響を与えてくれました。
褒められて書が楽しくなりました。
高校時代は先生とはそりが合わなかった。
展覧会とかに対して価値を持たない先生でした。
数学研究部に入りました。(幾何学が好きでした)
大学は書道部に入りました。
書いていくうえで手ごたえがありました。
10歳ぐらいに鉄道のストライキをやっているところに警察が来て理不尽な行為をみて、権力側とは違う形で役に立とうとおもって弁護士になろうと思っていました。
法律は法律に過ぎない、人間には法律以前の広大なルールがあって、それの方がとてつもなく大きい、それを抜きに法律を解釈することはつまらないと思いました。
いろんな状況があるときにそれを変える力には法律はならない。
司法試験に向けてはもうやめようと思いました。(入学1か月後)
残っていたのは書でしたが、何か世の中に役に立つことはしたいとは思っていました。
1967年に京都の化学会社に就職する。
大学の時に婚約をして食べてゆくために仕事をやる必要がありました。
働きながら書道はやっていました。
学問的に書をやる人と書を表現するところと二つに分かれてやっていました。
定年まで描けるか2,3年悶々としていたが、1978年に辞めました。(会社は11年間務める)
編集の仕事を頼まれるようになりそれが忙しくて、書ができなくなってしまいました。
彼女も会社を辞めて、彼女がギャラリーをやる事になり、買い上げる作品を作るという仕組みになって、それから作品がたくさん生まれるようになりました。
妻の力が偉大だったが、亡くなって半年になります。
「エロイエロイラマサバクタニ」という作品とか「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」、「罪と罰」というところを書いてきました。
「エロイエロイラマサバクタニ」というのは350×240cmぐらいの作品です。
イエスが十字架にかかったときに「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(「我が神、我が神
どうして私を思捨てになったのですか」)と叫んだ言葉。
1968年から始まる世界の学生たちが世界を変えようとする運動が1970年ぐらいに収束するが、1970年の展覧会は100人も集まり本当に熱気がはらんで書について議論した。
1972年には一日誰も来ないという日もあり、ある種の空虚感が襲った。
その景色と重ねて「エロイエロイラマサバクタニ」を作った。
書いてゆくときに、こんな風な形になって現れて来るんだと、自分がその出来事のなかに入り込んでいきました。
「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」歴史的なもの、2001年にアメリカ同時多発テロ9・11、お台場原発爆発事件3・11などなども手掛けてきました。
歴史的なものの後に「罪と罰」などを経て評論を作品にしたものとして9・11、3・11へと向かいました。
文筆活動は100冊を越えました。
「書の終焉」でサントリー学芸賞、「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
妻にはいろいろ負担をかけたと思います。
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