2019年7月15日月曜日

太田義昭(太田雄貴の父)         ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト

太田義昭(太田雄貴の父)   ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト
2か月に一回ぐらい雄貴と会って食事などしています。
日本フェシング協会会長として現在活躍中。
自分の工夫とアイディアをだしながら進化させるのが好きなようです。
フェンシングを通していろんな方と出会う中でそういったものが培われたのかなと思います。
3人兄弟の末っ子で、いろんな運動が大好きでやっていました。
負けず嫌いなところもありました。
私が高校の時にやっていたので、フェンシングをやってみないかといいました。
私も妻も小学校の教員をやっています。
子どもの笑顔が素敵なので子どもがにこにこしている状態を常に作りたかった。
子どもの気持ちになって考えるという事はしていました。
雄貴は小学校3年生ぐらいからフェンシングを始めました。
やっているとそれなりに結果が出てきました。
初めて6か月ぐらいで3,4年生の部で3年ぐらいやっている子に勝って優勝してしまいました。
そこから突っ走っていったように思います。
本当に自分の好きなところで成長してくれる一つになってくれればいいなあと思いました。

小さいときには僕が教えていましたが、クラブチームにも所属していて、そこのコーチにもしてもらって4年生の後半ぐらいからは、東京のほうに行って教えてもらうようにもなりました。
怪我した時もテーピングして練習したり、熱を出した時にも頭にぬれたタオルを巻いて形だけでもやろうという事でやったりしていました。
小学校3年生の5月1日から4300日休まずに練習してきました。
ドイツに短期留学して、ドイツでは練習しない時をきちっとして、メリハリをつけるという事でそれからしばらく練習を休むという事にしました。
3年続けると本物になっていくと思います。
そうなるともったいないあという事になり続けてきました。

2008年の北京オリンピックで銀メダル、2012年ロンドンオリンピックでの団体銀メダル獲得という事になりました。
高校ぐらいからは当人が一生懸命やりました。
自分が納得できないことはしない、どうしたらいいかを的確に考えてやった結果だと思います。
海外に行くと経費が掛かったし、勉強の時間も取れなくなるので、妻はフェンシングだけやっていていいのかという風な思いもあったようですが、フェンシングを通して人間を作れて海外にも行って、自分と力をいろんな人と比べながら暮らすのもいいのかなあと思って、その場を濁らしたこともありました。
妻はもっと勉強もという思いはあったようです。
高校インターハイを3連覇して、それを妻は見て感動しました。
以後は子供の活動を楽しみにするようになりました。

子育てをやるなかですこしずつ料理をやるようになって、うまいといわれるようになって私がつくるようになってきて、妻のおかげでできるようになりました。
フェンシング以外に注意したのが食事です。
一食10品ぐらい、自分のできる物をうまく組み合わせて料理していきました。
5秒で作る卵焼きを雄貴の奥さんに伝授しました。
子どもの才能を伸ばすためには、早咲き遅咲きがあるので、いろんなことを仕掛けてゆくことは必要かと思います。
子どもの反応をメモしていく。
まず3日やってみる、そうすると1週間は何とかなるが、1か月はちょっと難しいが、1か月過ぎたら大体向いているかどうかがわかる。
褒めることは大事だと思います。
小学校3年生は褒めると勘違いすることもあり、それも方向付けには大事です。
私のレベルは低くて、サービスばっかりしています。
子どもともに活動することで成長する姿を見るのは楽しいと思うので、自分自身を高めるチャレンジをしてもらうことで、子どもも成長させていただければと思います。

















2019年7月14日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
ブスタフ・マーラー作曲 交響曲第5番 第4楽章 「アダージェット」 
ブルーノワルター指揮  ウイーンフィル管弦楽団演奏 1931年の録音。
作曲された時期はウイーン時代の「絶頂期」ともみられる期間に当たっている。
マーラーがなくなってから20年後。(マーラーを直接知っていた人たちの演奏)
ハープ弦楽器による第4楽章アダージェットは、ルキノ・ヴィスコンティ監督による1971年の映画ベニスに死す』(トーマス・マン原作)で使われ、ブームの火付け役を果たしただけでなく、マーラーの音楽の代名詞的存在ともなっている。

19世紀末のウイーンの遺伝子息吹は作曲家にどんな風に伝わて行ったのか?
世紀末 爛熟期が終わりそこから離れてゆく、そういったものを嫌う雰囲気であったり、退廃的な独特な形式美みたいなものが美術の世界でも生まれる。
世紀末 美術界では クリムト 分離派の代表。
1897年はブラームス(63歳)が亡くなりクリムトが分離派を宣言する。(時代の節目)
同年5月ブスタフ・マーラー(36歳)が指揮者としてウイーン宮廷歌劇場にデビューする。(指揮者として頂点に立つ)

*交響曲第3番から第3楽章 ブラームス作曲(50歳) 
映画『さよならをもう一度』で有名。
ブラームスはヨハン・シュトラウスと親交があった。

ヨハン・シュトラウス作曲 ウエーベルン編曲 「宝石のワルツ」
当時としてはインパクトのある編曲だったが、今では古き良き時代のウインナワルツ。

フランツ・レハール作曲 (世紀転換期の作曲家)「メリー・ウイドウ」ヴィリアの歌
「銀の時代」とよばれたウィンナ・オペレッタの第二黄金期を代表する作曲家となった。
世紀転換期における、レハールには響きに独特の哀愁、かげりがある。

ヘルメス・ベルガー ヴァイオリンの名手、コンサートマスター。
*バレエ 「イベリアの真珠」から「ロマの踊り」

クライスラーの「ウイーン風小行進曲」

ブスタフ・マーラー作曲 交響曲第6番 第1楽章



2019年7月13日土曜日

谷口美保子(実行委員会 委員長)     ・【人ありて、街は生き】都賀川で流された子らを忘れない

谷口美保子(「7月28日を『子どもの命を守る日』に」実行委員会 委員長) ・【人ありて、街は生き】都賀川で流された子らを忘れない
10年前2008年7月28日、神戸市灘区を流れる都賀川が、急な雨で増水し5人が流されて亡くなりました。
極地的に降った大雨でわずか10分ほどの間に川の水位が1m30cmあまり上昇し、川のほとりの親水公園にいた市民に激流が襲いました。
民間の学童保育の指導員に引率された小学生2人、帰宅途中だった20代の女性と保育園児の姪、30代のアルバイト男性の合わせて5人の命が失われました。

7月上月上旬、10周年の忍ぶ会を3週間後に迎えて準備が行われていました。
7月28日 当日いい天気でした。
天気予報では大雨とのことだった。
2時ごろ雨が降ってきた。
その後ニュースで子供が流されていることが放送されていた。

亡くなった2人と同じ学童保育に3うちの人ともお世話になっていました。
神戸市灘区の住宅街を南北にを流れる都賀川でした。
六甲山に降った雨を集めて海に一直線に流すような川です。
傾斜が急で長さも1,8kmと短いコンクリートで固められた川です。
雨が降らないときには遊歩道も作られています。
2008年7月28日(月)の朝はとても天気が良かったです。
午後から急に暗くなってそのうちに雷が鳴りだしました。
午後1時55分に大雨洪水警報が出される。
2時20分ごろから雨が降り始め、2時30分過ぎに、52人の人が親水公園で水遊びやバーベキューを楽しんでいた。
突然の豪雨で川が増水、16人が流されたり取り残されたりして、11人は助かったが、民間の学童保育の指導員に引率された小学生2人、帰宅途中だった20代の女性と保育園児の姪、30代のアルバイト男性の合わせて5人の命が失われました。

小学生のふたりは特別支援学級に通ってる児童でサポートのいるお子さんで水遊びに来ていた。
児童生徒は19人、大人は3人という体制だった。
大学生が小学生3人を引率して川下に行きました。
16人を2人の女性(60代と40代)が引率する形になりました。
とりあえず橋の下で雷を避けていたが、危ないので上がろうという事になった。
上がる階段が少なくてそこを目指してゆく。(上流70m先)
そこにたくさんの水が流れてきた。
2人が下流に流される。
一人の指導員が下流に走ったが、大学生は自分の判断で子どもたちを上げた。
大学生は携帯を持っていて上がる旨連絡しようとしたが、二人の指導員は学童保育所に置いて来ていたので連絡は取れなかった。

事故の検証をしたいという事で検証報告ができている。
関西学院大学の室崎教授が担当する。
指摘事項が3つあった。
①堤防の上へ避難する行動開始が遅れた。
行動を開始してから濁流に遭遇するまで2分前後ととても短かった。
②激流が向かってきた時点で16人を引率する指導員が一人しかいなかった。
③子供たちが激流に巻き込まれた時点で救助活動をしたが、力が及ばなかった。

雨が降った時の都賀川の危険性についての認識が指導員にかけていた。
人から警報が出ているといっていただいたのに軽視していたり、真っ黒い雲、雷などの前兆があったにも関わらず見逃していた。
危機意識が弱かった。
自然の危険についての保育所としての学習不足も反省材料であると報告されている。
上流と下流の複数のグループに分かれてしまった。
指導員相互の連絡を携帯電話でせずに隊列を離れたこと、避難時に一人体制になってしまった。
マニュアルがなかった。
検証報告で提示された課題をきちっとこれからやってゆくのが学童の責任ではないかと思います。
自分たちの検証を出してゆくのが亡くなられた家族などに対してできる誠意ではないかと思います。


翌年「7月28日を『子どもの命を守る日』に」という実行委員会を立ち上げる。
体験談、目撃談を集めたり、防災、地質学の専門家を招いて勉強会を開いたり、毎年小冊子にまとめてきました。
親水公園の整備自体に問題を投げかけた専門家もいました。
都会の中を一気に水を流し込む水路に、後から親水公園にして、増水時の警報も設置されていなかった。
取り残されるという事故がその前にもいくつか発生していた。
昭和13年には阪神大水害があり都賀川を含めて氾濫して、約700名の方がなくなっている。
昭和42年にも亡くなった方が84人という水害がありました。

天気のいい時には本当に穏やかな川に見えてしまう。
阪神淡路大震災の時にその水を使ったという身近な川というふうに感じられた。
この二つが恐怖を抱かなくなった要因かと思います。
ユニークな警報装置、注意書き設置、上がれるような場所、はしごなども作られました。
危険が高まってるというアンテナ、想像する力というものを身につけないといけないと思います。















2019年7月12日金曜日

原田泰治(画家)             ・にっぽんのふるさとを描く

原田泰治(画家)             ・にっぽんのふるさとを描く
1940年長野県諏訪市生まれ79歳、1歳の時に小児まひにかかり両足が不自由になります。
大学卒業後は故郷諏訪市でグラフィックデザイナーとして仕事をする傍ら、少年時代を過ごした田舎をテーマに絵を描き始めます。
全国各地を取材した詩情豊かな作品は、1982年4月から2年半に渡り全国紙の新聞に掲載されました。
日本から失われつつある故郷の風景や祭り、風物史など後世に残しておきたい風景を描き続ける原田さんに伺います。

諏訪市の看板屋さんの家に生まれる。
兄弟4人で一番下です。
諏訪市から飯田(伊賀良村)に疎開して開拓農民として父は仕事をする。
母親(38歳)は2歳の時に看病疲れで亡くなる。
僕のことを考えてくれたのか、足の悪い新し母親と一緒に飯田で過ごすことになる。
4,5歳のころ動けないので高台の家から風景を眺めていましたが、それが原点になったと思います。(鳥のような俯瞰的な目)
遊び場へ友達に背負ってもらっていったが、動けないので自分で一人で草花など見て遊んでいました。(虫のような目)
見ていていろいろ発見がありました。
四季の移ろいの風景を飽きずに見ることができました。
その後また諏訪に戻ってきて、中学、高校は諏訪で過ごすことになる。
中学では空を描いていて、先生からはあまり描かなくていいから要領がいいと言われて、自信を失い絵は駄目でした。

父の兄弟は12人いて4人は芸術家でした。
叔父さんが銀座でデザインスタジオを20人ぐらい使ってやっていたのでそこへ行けばいいと思っていましたが、もう時代が違うから高校大学に行くべきだと諭されました。
それまで勉強は何にもやっていなかったので、定時制の高校に行くことになりました。
経済的な理由で定時制に来ている人が多くいて優秀でした。
いとこが絵を描いていたので、自分でもやろうと思って定時制に行きながら昼間は絵を描いていたりしました。
全国高校生ポスター募集コンクールがあり、愛鳥週間のポスターで佳作に入って自信がつきました。
6か月後に林野庁の募集があり、全国で2位になりました。(応募は4000点ぐらい)
副賞としてスチール製の本箱が届きました。
美術の道に進もうと決心しました。

デザインは落ちてしまって、油絵をやっていたので洋画へ入ることになりました。
デザインに入りたくてその授業に行きましたが、先生から文句を言われてしまいました。
もう一度デザインの基礎から一生懸命勉強し、いい成績で卒業出来ました。
おじさんの会社に入るわけですが、5か月でやめることになりました。
足が悪いのでラッシュアワーの通勤が厳しかった。
諏訪に戻ることにしましたが、デザインの仕事は何もありませんでした。
23,4歳で結婚して、地方の集落を回って展覧会のPRをしたりしていました。
飯田、諏訪の町から仕事が来るようになって食べていけるようになりました。
新聞にクロアチアの素朴画というものがあり、イワン・ラツコビッチという作家が自分の故郷をこよなく愛して、故郷のために描いている画家いるという事が書いてありました。

自分も故郷を描こうかなあと思って、それが発端で仕事の合間に描くようになりました。
最初は伊賀良村を描きました。
40歳で小学館絵画賞を受賞、故郷を描いたもの。
絵とデザインの両輪で生きて行こうと思いました。
2年後に全国紙の日曜版に紙面の半分を使って絵を掲載する仕事が舞い込んできました。
その後全国を歩いてやってほしいといわれ、文章も書いてほしいといわれました。
最初は文章を書くのが大変でした。
ファンレターが来て、その中に80歳のおばあさんから楽しみにしていますという手紙が来て、そのおばあちゃんのために書こうと書き始めたら文章が良くなってきました。
NHKの「明るい農村」もとても参考になりました。
幼児体験もあり、何でもないようなところを描いていました。
毎週の掲載なので当時睡眠時間は3、4時間ぐらいでした。
写真もたくさん撮りました。
今でも空から描き、その上に段々絵を乗っけていきます。(遠い所から描きます。)
人物には目鼻は描きませんでした。
1年で終わるつもりでしたが、2年やることになり、最終的には2年半になりました。
1998年に原田泰司美術館ができました。
日本っていいなあ、日本の四季はいいなあと思っています。
観光地だけではなくちょっとした集落へ寄ってみるとか、自分で旅を発見する時代になってきているのではないかと思います。
自分の故郷を描く絵画コンクールをやっています。
自分の目には伊賀良村というフィルターがあり、それを通しながら見ているかもしれない。
足が悪いためのそのおかげで限定した世界を見つめ、それでヨーロッパの絵を描いても伊賀良村が出てきます。
人間は掘り下げた故郷の見方をしてゆくと結構絵に忠実にでてくると思います。
自分の故郷を描いているのは少ないと思うので、長野県の合併前の故郷(○○村)を描き残したいという事と、子供たちに絵の楽しさを伝えたいし、障害者のためにバリアーフリーの運動も始めました。











2019年7月11日木曜日

佐野公俊(脳神経外科医)         ・目と手で生命(いのち)を吹き込む

佐野公俊(脳神経外科医)         ・目と手で生命(いのち)を吹き込む
1945年東京生まれ、母方の祖父と身近にいた叔父がともに医師であったため、子供心に医師へのあこがれを持っていました。
都立戸山高校から慶応義塾大学医学部に進み、脳神経外科を専攻しました。
卒業後1976年に愛知県にある藤田保健衛生大学(現在の藤田医科大学)に赴任し、顕微鏡とCTを用いて数多くの手術を手がけました。
血管の中にできたこぶを取り除く脳動脈瘤手術が4300例、動脈や静脈の奇形を治す手術は300例に上ると言われます。
2010年に藤田医科大学を定年退職した後は、神奈川県にある新川橋病院の副院長に就任し名古屋市と川崎市を行き来しながら、脳外科の手術や外来患者の診察にあたっています。
長年にわたって数多くの手術を手がけてきた佐野さんは手術に向かう時の自分なりの境地に達したといいます。

名古屋に住んでいますが、日曜日の夜名古屋から川崎にきます。
もっと手術を広げようと関東でも仕事をすることを選びました。
川崎では月、火で手術をして水曜は外来を診ます。
外来が終わったら名古屋に戻り、木曜が外来、夕方テニスをして、金曜日が違う病院で外来、午後はいくつかの病院で手術を入れていたところで手術をして、土曜日も病院に行って日曜日はフリーで午後テニスをして夜には川崎に向かいます。
最初は新幹線でしたが荷物が多くて最近は車にしています。
運動をやらないで、仕事をやっていると精神的にも参ってしまいますから。
7月にはブラジルとメキシコの学会に呼ばれて講演を30分ぐらいずつやる事になっています。
藤田保健衛生大学にいたころインドから研修生が来ていて、それがもとでインドとの付き合いが始まりました。
カルカッタで佐野動脈瘤手術学校を作ることになり、ライブで手術を見せて終わった後解説してという事を年に3,4回やっています。
クモ膜下出血になると70%が寝たきりまたは死亡で、30%が軽い後遺症または正常ですので、くも膜下出血になってしまうときついので脳ドックを行うといいと思います。
顕微鏡は持っていけませんが、手術道具は自分の使い慣れたものは持っていきます。
なにはともあれ安全第一で、次に美しい手術を心掛けています。

昭和20年生まれ、前日は東京大空襲だった。
母親の実家が開業医で叔父が医者で、自分自身も医者という職業に憧れていました。
手が器用だったので外科医になりたいと思っていました。
千葉大学と慶應義塾大学に受かったが、慶応義塾大学に行くことにしました。
神経学があり面白いと思って、脳神経外科を選んで、耳鼻科の手術で顕微鏡を使っているのを見て自分が日本で初めての脳神経外科として取り込もうと思っていたら、卒業するころには日本にも用いられるようになりました。
菊池晴彦先生が顕微鏡を持ち込んだ方でした。
携帯の顕微鏡を自費で購入して手術の実力をつけていきました。
藤田保健衛生大学に行くことになりました。
新しくCTが導入され、脳の中が実際に見えることは革命的でした。
昭和50年代は診断、手術も全部スタートラインに全員が立ちました。
手術の回数が圧倒的に増えていきました。
脳動脈瘤手術が4300例を数えることになりました。
年に100回手術をしても45年近くかかる勘定になります。

新しい病院だったので自由に活動できました。
35歳で助教授になり、すごい早かったです。
ギネスにも脳動脈瘤手術の回数で載りました。
当時30時間寝たこともないこともありました。
絵を描くようにしています、写真はある一面しか描けないが絵は裏側も描けます。
注意書き、要点なども書き入れていますが、それを後輩たちが見てくれると継承してくれると思っています。
手術前と手術後を描いています。
予定と結果が同じになっていることが大切です。
手術で脳の血管を止めていないといけないが、15分が限度でそれ以上だと脳が死んでしまうのでクリップを使って、脳に障害を残さないようにします。

以前手術をする時間に遅れそうになってジープで近道を急いだ時に、左前輪を土手のバンクに落としてしまいハンドルを切ると転倒するので、そのまま降りて行ってしまえと思っていたら、一番下に小さいどぶ川があり、乗り越えたが田んぼに突っ込んでしまったが、その直前の瞬間にハンドルのスペースに潜り込んだ。
奇跡的に助かることになりました。
病院に急いで泥だらけの衣服を着替えて、子どもの脳の手術を無事こなしました。
ある時に大量な下血があり、胃を検査したらでかい腫瘍が見つかりました。
腹腔鏡手術が出始めたころだったが、切開して胃を取りだして切り取って縫う方法で行って4日で帰ってきて、そのまま仕事をして、3週間後にはテニスをしました。
自分は守られているというか、神がかり的なこともありました。
神様に、僕の手に乗り移ってくださいという気持ちでやっています。
自分がやってきて得たものを次の世代にバトンタッチするために残しておけば、必ず若者は越えていけると思うので、人類のためには巨象が出てきてほしいので、手や目がしっかりしている間に残していきたい。
「術前に悩むも、術中に迷うことなく、かん?にて6分、けん?にてひぶ?に見極め、手自由にして手に道具合うを忘れ、道具手に合うを知らず、心常にして空、独座大雄峰なり」
という境地ではないかと思います。
独座大雄峰 座禅を組めば雄大な山のごとくになる、顕微鏡の前に座ってそに没頭して雑念がなくなって、自分と手術の中に埋没してその中で自然と手を動かしている、そうしているとそれが一番綺麗な手術に結果的になっている、そういう意味です。














2019年7月10日水曜日

安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(2)

安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(2)
1979年からアニメ専門誌で5年連続アニメーター部門 1位があったが、1989年漫画専業となる。
アニメ界が1980年代で随分変わりました。
この世界でやっていけないとかなりはっきり見えてきて、いつかやめようと思って1989年に作った映画を最後にやめました。
メディアがリードして作っていくような空気がうまれました。
一つはオタク化(超マニア的な)、気持ちが悪かった。
もう一つは宮崎アニメが代表すると思うが、メディアが主導して発展してゆく。
「風の谷のナウシカ」1984年に作られて非常にいい作品でした。
宮崎駿高畑勲氏などは正統派だった。
私の場合はどちらでもなかった。
居心地が悪くなり漫画に転向しました。

古代史にちょっとしたきっかけで興味を持ちました。
ノンフィクションのほうが面白いのではないかと思いました。
印税入ってくる漫画の方がギャラも全然よかった。
「ナムジ」、オオクニヌシノミコトなど日本の国の成り立ちを探る漫画でした。
出雲にも何度も行きました。
同じように「神武」も書きました。
古事記、日本書紀については戦前と戦後では評価ががらりと変わります。
戦前は神話で書いてあることをあたかも歴史のように教わって、信じさせられて、戦後は信用してはいけない、歴史とは全然縁のないものだといわれるようになって、歴史を考えるうえで素材として排除されるが、僕としては両方おかしいのではないかと思います。
何かそれに近い史実があったのではないかと思います。
日本近代史3部作については、現代史は戦争の歴史ですから、古代の神話と現代の戦争を中心にした歴史が物凄く密接に結びついちゃっているという、非常に日本の不思議な形を考えてみたいと思いました。

相変わらず古代の歴史は判らない、天皇陵も調べることができない。
現代史にかかわる事なので両方から攻めてみたいというのがありました。
日清戦争、松本健一さんという思想家で北一輝の研究で有名な方ですが、民主党政権の時に内閣官房参与になって亡くなられましたが、その方にいろいろ教えていただきました。
日本はどこで間違ったのかその方に聞いたら、対華21か条の要求をしたのが、第一次世界大戦中にやったが、これが決定的に間違いのもとだとおっしゃいました。
そこに至る経緯もあっただろうと思いました。
日清戦争あたりからおかしいのではないかと思いました。
勝海舟、明治天皇も反対しましたが、全体としてはいけいけという事で戦争になりそれから間違いだらけのような気がします。
中国と日本が朝鮮を取り合うわけで、その構図も今につながるなあと思います。
日清戦争は非常に大きな対象なのではないかと思いました。

日露戦争から日韓併合あたりまでの日本のありようを書いたのが「天の血脈」です。
ロシアと日本が朝鮮を取り合う構造で、いかに朝鮮という問題が日本にとって大きいか、という事がそこからわかると思います。
古代にさかのぼると、三韓征伐と言われている神話上の事件があります。
これも何かあったのではないかと考えました。
神功皇后(息長帯比売命)が渡来系の部族の出で、神功皇后が海の向こうに国があるから行こうというので、率先して行われるものが三韓征伐というものです。
神功皇后が帰ってきてお子さんを生むが記紀の神話でも月数が合わないと書いてある。
今生むわけにはいかないという事で腹帯を締めて、出産を遅らせて帰ってきてから生んだという非常に面白い表現を神話がしている。
仲哀天皇は遠征前に死んでしまっているので、そこから数えて勘定が合わない。
そういうきわどいことを神話にして昔の人は伝えた。
普通に考えるとお父さんは仲哀天皇ではないと疑うが、昔の人も疑ったんですね、だから腹帯をしめたとかいろいといって、日韓関係が微妙なものだという象徴じゃないかと思っています。

これと日韓併合を結び付けて書くというのは、問題提起になる。
伊藤博文を暗殺した安重根なども出てきます。(暗殺する前の状態ですが)
日本では暗殺者、韓国では英雄となっていますが、決して美化したりはしていません。
テロリストでもなく英雄でもなく描いています。
そういう人が劣情にかられる時代状況があり、その時に間違ったことを日本はしてしまったという事だと思います。
安重根も日本に憧れて日本のように朝鮮を近代化しようと一生懸命頑張った人で、日本に裏切られたと思ってテロに走るわけですから。
おっちょこちょいのところもあり勘違いもしている、皇帝を毒殺したのは伊藤だという風に勘違いもしている。
「虹色のトロツキー」 満州国を舞台にした作品。
日蒙ハーフの主人公 ウムボルト 満州建国大学の学生。
1991年ごろから書き始めました。
満州建国大学へかつていった人たちに取材に行ったときには警戒されましたが、優秀な人たちでした。
「五族協和、王道楽土」新しい国を作るんだという熱意に駆られてで行くわけですが、行ってみると違うという事である種のストライキもするわけです。
彼らの問題意識には打たれるものがあります。
日本では発禁で読めない本も読めるという事で行った人もいたようです。
満州建国大学に行って人生が狂った人もいたが、みんな満州建国大学に行ったことを誇りに思っています。
OBの方もほとんどなくなりましたが、感銘を受けました。

スターリンにトロツキーは暗殺されるが、ガンジーと一緒に満州建国大学の教授に招聘しようとしたらしい。
石原莞爾が創設のきっかけをつくるが、そういうことを考えたらしい。
主人公は「五族協和、王道楽土」の建設を信じて必死に生きていくが大きな歴史の流れに抵抗できなくて埋もれて流されてしまう。
満州国は歴史上の汚点で、侵略的な傀儡国家を作って潰れてしまって、入植者,邦人はたくさんの人がひどい目にあって死んでいって、そう言う間違ったことはしてはいけないという負の歴史一面だけで語られていて、それでは満州で生きた人は浮かばれないのではないか、理想に憧れて実現しようとした人たちの人生があったわけで、肯定的になる必要もないが、その時代に生きた人たちの思いは何だったのかなあという事を考えることはとても大事なことだと思います。
昔の人は間違えて馬鹿だったねというのは違うんで、我々よりもずーっと賢明だったのに間違えた、だからわれわれも十分に間違えるよと思わないといけないという気がします。

「乾と巽」シベリア出兵の話、去年書き始めました。
1918年 100年前にあったこととしてスタートしています。
約100年前に起きたシベリア出兵を舞台に、砲撃の名手である陸軍軍曹・乾と、気鋭の新聞記者・巽という2人の青年を通し、ロシアの戦場を駆け抜けた男たちの生き様が描かれる。
低い目線でその時代にちょっと参加した気分になりたい気がして書き始めました。
これを書ききれれば自分なりに近現代史を書ききれることになります。
歴史は大きな歯車で個人は非常にちいさなもので、それ自体ドラマのような気がします。
大きなうねりと小さな個人は大きなうねりと全く関係ないんじゃなくて、うねり自体は人間が生み出しているもので、それに人間が翻弄される。
人間のかかわりの問題だと思います。

ペンではなく毛筆で描いています。
中国の削用筆を使っています。
アシスタントは次男がやっています。
時代に絡んでゆく、そういう問題意識はどこかでもっていてほしい。








2019年7月9日火曜日

安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(1)

安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(1)
北海道遠軽町出身71歳、今年放送開始40周年を迎えた「機動戦士ガンダム」の生みの親の一人です。
1979年に放送が始まった「機動戦士ガンダム」、様々なシリーズや劇場用映画がつくられ膨大な数のグッズを含め、日本を代表するコンテンツつの一つになっています。
安彦さんはアニメーターとして人気絶頂の時に漫画家に転身しました。
日本の近代史を検証する作品や日本の古代史の謎に挑む歴史漫画などを数多く描き、その流麗なタッチと抜群の構成力が高く評価されています。

「機動戦士ガンダム」のストーリーは、人口が増えて人類の半数が宇宙に移住した未来が舞台で、宇宙植民地スペースコロニーに住んで独立を求めるジオン公国と地球連邦軍との戦いを描いていて、戦いに巻き込まれて成長してゆく少年少女たちの物語。
安彦さんはキャラクターデザイン、アニメーションディレクターを担当する。
キャラクターデザインはロボット、船などをデザインした人は別で、僕がデザインしたのは人物のキャラクターです。
アニメーションディレクターは作画監督と日本語に訳してもいいです。
作画をする人は何人もいて、統一感を持たせなくては行けなくて、あとで直しを行います。
シナリオがつまらなかったらケチをつけたりするなど幅があります。
1979年4月から放送が始まり、劇場用映画、新シリーズなどが制作され、関連商品の売り上げが年間700~800億円と一つの産業になっている。
放送が始まってすぐに一部の若い年代層から反応がありました。
放送時間が5時30分からで視聴率は惨憺たるものでした。
52話のシリーズが43話で中止になりました。
監督などはがっかりしていましたが、現場は一杯一杯だったので僕はよかったと思いました。
中止が決まったちょっとあとにダウンして入院してしまいました。
肋膜の病気で半年入院しました、過労だったと思います。
突然発作が起きて呼吸ができなくなり、それが繰り返され、死ぬんじゃないかと思いました。

「機動戦士ガンダム」は物語が従来と違ってかなりリアルにできています。
戦争で主人公たちは一般の青少年、一般の市民の設定であり当時としてはちょっと考えられなかった。
主人公のアムロ・」レイは内向的で友達付き合いもうまくなくて喧嘩すると弱いとか設定が従来と違っていた。
古谷徹さんが声優としてオーディションを受けたそうです。
輸送船を設定、難民も収容する。
テーマはと聞かれたらありませんと言っていたが、なぜ戦争ってしてしまうのだろうと思って、人間って分かり合えたほうがいいよなあと後で考えたことですね。
1989年に漫画家に転向。
30年近くたって機動戦士ガンダムの総監督になる。
1991年からガンダムを漫画で描きなおす作業を3年と思っていたが10年かかりました。
ジオン公国の過去、どうして戦争になってしまったんだろうと思って、過去編を書かなければいけないと思ったりして10年かかってしまいました。
過去編の部分だけでも映像化しようとなったのは2013,4年のころでした。
その関係で総監督になることになりました。

生まれは北海道の遠軽町です。
当時人口は2万人ぐらいで大きかった。(大合併してもいまは2万人です)
はっかを作る農家の子どもでした。
よそのこと遊ぶのは苦手で絵を描くのは好きでした。
古いマンガ本を郵便屋さんを介してもらって読むのがうれしかったです。
将来は漫画家に成れたらいいなあと思っていました。(中学時代)
高校は遠軽高校で人前ではしゃべる事ができなかったが、ひょんなことで生徒会長などもやりました。
高校3年の時に政治的な問題に見ざめてベトナム戦争が拡大していった時期でした。
小人数のグループで紙に書いて文化祭に貼り出したりしました。
ノートに2冊分の漫画があり、スペイン内戦を描いたものでした。(高校3年の時)
大学は弘前大学に行きました。(内地にいきたいという思いがありました。)
全共闘的な組織を先頭に立って立ち上ようという流れになりました。
ヘルメットをかぶってとか、演説などもやりませんでした。
当時学生は3000人ぐらいでしたが、全共闘派の活動家は50人もいなかったと思います。
1969年の秋に大学本部の封鎖をやって1か月もしないで機動隊が解除しましたが、その首謀者という事で除籍処分という事になりました、5人退学になりその一人になりました。

あてもなく東京に出てきました。
挫折していたので労働者にもなれなかった。
最初は写植屋さんをやりましたが、新聞に虫プロの求人広告があり、受けてみたら受かることができました。
大学ノート2冊に描いたものを持っていったらそれが良かったのかもしれません。
入社当時社員は300人ぐらいいましたが73年ぐらいに倒産しました。
残党が散らばって、演出家、アニネーターがつくったグループと、中間管理者のグループがありそこの会社に仕事をもらいに行ってそれから付き合いが続いています。
「宇宙戦艦ヤマト」の絵コンテを描いてほしいとの要請がありました。
「宇宙戦艦ヤマト」の半分ぐらいをやりました。
映画版の「さらば宇宙戦艦ヤマト」の絵コンテをやって、あといろいろやりました。
仕事はすごく混んでいました。
1989年漫画家になる。