| 大田昌秀(元県知事87歳) 本土復帰40年 明日の沖縄を信じて |
| 1972年 5/15 沖縄復帰 40年になる 大田さんは久米島出身 昭和20年3月から始まった沖縄戦では鉄血勤皇隊に遍入されて過酷な戦争体験を経験。 |
| 戦後はアメリカに留学 琉球大学の教授を歴任した後、県知事を2期務められました その後参議院議員を務め 現在は自ら開いた大田平和総合研究所で |
| 沖縄問題や国際平和問題を幅広く研究されています 「生涯を沖縄問題に賭けて」 というテーマで1回目をお話願います |
| やぎ料理が好きです。 山羊の皮がおいしい、昔から精気を養うと言われていた。 (最近はヤギを食べると血圧が高くなると言われる) |
| 平和行政の3本柱 1.平和記念資料館が小さくて不便なところに有り 移動して内容を拡充しようということ 2.沖縄戦で犠牲になったすべての土地の名前を刻む石をつくる |
| 3.国際平和研究所を作りたい、東南アジアのかなめの位置に有るので軍事基地ではなくて 国際平和を発信する平和研究所を作りたい |
| 3番目は時間切れで出来なかったので、県庁を去って2日後に個人で大田総合平和研究所を設立した ゆくゆくは国際平和研究所に衣替えしたいと思った。 |
| ノルウェーに世界的に有名な平和学者のヨハン・ガルトゥングがいて、この方を沖縄にお招きしてお話を 伺ったことがある。 |
| 私達の平和に関する考え方を改めさせるような、学問的な成果を上げた方で、どうして若い頃に 国際平和研究所を作られたのかと聞いたら、 |
| ナチに突然父が連れ去られて、其の時に父がこんな世の中で無いような世の中を作って欲しいと 言われて立ち上げたんだとおっしゃいました。 |
| 其れを聞いて感動した。単に戦争が無い事を平和と言うんじゃなくて、他の人間に対する差別とか 賃金格差の問題、男女差別とか、そう言ったものを構造的差別と呼んで、 |
| その構造的差別をなくすことが積極的な平和だとおっしゃっている。 |
| そういう問題に対応しようと平和研究所を立ち上げた。 その活動の一環として20年アメリカに 通って、沖縄戦の写真、フィルム、沖縄占領の資料を集めてきた。 |
| フィルムは重要で、1フィート運動を起こして県民の浄財を頼ってフィルムを買い取る運動を行っている 現在も続いている。 |
| 常設展示室を設けて沖縄の人達に見てもらったり、観光客に見てもらったりしている。 |
| 3Fに30~50名入れる部屋を作って平和大学を設けたいと思っている。 |
| 19歳のときに鉄血勤皇隊に入れられた。 22名の隊員からなる部署で大本営からニュースを受け取った。 情報を各地の部隊への情報伝達を行った。 |
| 大本営の情報に誇張とか事実に反している事があり、特に沖縄戦に関しては大本営が発表する 勝った、勝ったと言う事と一歩も出られないという現実 |
| との違いがあり、そのうち私達が嘘を言っていると言う事になってしまって 非常に厳しい状況に置かれてしまった。 |
| 私が戦場から出てきたのが10月23日ですが、将校がもう戦争は負けて降伏したからでてくるようにと 住民を救いだす役割の人がいた。 |
| 我々はそれを信用しなくて、天皇の終戦の詔書のコピーを持ってきて、それを読んでやっと出る決心をして 捕虜になった。 |
| 情報と見た現実と余りにも考えていた戦争と違っていて、この戦争とはいったい何なのだろうと 絶えず想い詰めて行った。 |
| 例えほんのわずかな食糧、飲み水を自分のものにする為に敗残兵同士がいとも簡単にお互いに 手榴弾で殺し合うのを毎日のように見ていた訳ですね。 |
| 人間が飢餓に陥ったらどうという事をするかと言う事を目の当たりに見せつけられた。 そう言ったことを見ているうちに、日本の軍隊とは一体どんなものだろうかと |
| 同時に、一番ショックを受けたのは幼い子供達、お年寄りが壕を掘って身を隠しているのを 兵隊がそこに入りこんで来て追い出して、みすみす砲弾の餌食にするのを殆ど毎日見ていたんですね。 |
| 何故こういう結果になったのかと、戦争についてアジアの解放、神聖なる戦争だと学校では 教え込まれていた。 |
| そのまま信じていた、軍国主義を叩き込まれた、如何に間違っていたかを思い知らされた。 民間人を守るために戦争が有ったと思っていた。 |
| そうじゃなくて民間人を犠牲にして兵隊が生き残ろうとする。 其れを見た時に一体この戦争とは何かを考えて、なぜ沖縄がこういう状態に置かれるのか |
| 一体沖縄とは何だろうかと、日本のなかで沖縄とは一体何だろうかと考えざるを得なかった。 其れが沖縄研究の一つになった。 |
| 本格的に眼を開かれたのはアメリカに行ってからですね。 |
| 英語との出合い→アメリカ兵がテントで行動している時に、敗残兵が手榴弾を投げるとアメリカ兵は逃げてゆくが、 食糧は敗残兵が持って行ってしまう。 残ったのは雑誌だとか新聞が有るのみであった。 |
| 同行していた東京の大学生の白石さんそれをスラスラ読んでいるのに吃驚した。 白石さんは中身について話してくれた。 |
| 日本はポツダム宣言を受諾したとの事、自分が英語を読めない無知さにショックを受け、 白石さんが英語を勉強したいのなら東京に出てきたらと言われる。 |
| その一言がきっかけとなり東京の大学の英語学科に入学して英語を体得してアメリカにも 行けるようになった。 英語を学んだことが私の人生を変えた。 |
| 1972年 琉球大学に勤めていた。 絶対教師にはならないと思っていたが、(戦争での経験から教師とは怖いものだと思っていた )米軍政府の文教部長から留学費用は我々が出したのだから、我々が就職口は決めると言われ、 琉球大学の学長の特別秘書を任されて琉球大学の案内所等を作っていたら、 |
| 、そのうち講師をやってほしいと言われ、やっているうちにいつの間にか教授職になってしまった。 |
| アメリカに行って本当の民主主義を知った。 沖縄は植民地的な状況だと知る様になる。 これを変えるのにはアメリカで得た知識を具体的に実施するしかないと思うようになる。 |
| 琉球大学では沖縄研究、及び沖縄タイムスが批判の解説をしていたので英字新聞を3年ほど発行した。 アメリカの人間も違う情報を得られて喜んでくれた。 |
| アメリカの軍人も民間人も沖縄の実情を知ることができた。(貴重な英文記録になった) 喜ばれる一方で反発、批判も有った。 |
| USIS 校正係を募集したが批判的なことを書くと、その校正係が文章をくしゃくしゃにしてしまうと 言うようなこともあったが、当然その人は首にした。 |
| 知事を2期務める。 知事になる気持ちは全くなくて、直ぐに断ったが4年経って又来た。 有る人(社会党委員長)が朝日新聞等に投稿して沖縄はこうあるべきだとか |
| こうなってほしいと書いてあるが、その様に思うのなら自分の発言に対して自分が責任を 持ってやるのが仕事じゃないかといって この一言に参ってしまって |
| 自分の言論に責任を持てと言われて、自分の言ったことは自らやるしかないと、受け入れて知事になった。 |
| 一番感じたのは軍事的植民地と言う位置付けが明確に成ってきたので、植民地から離脱するためには 基地を撤去することが一番重大な仕事だと見ていた。 |
| 1995年の9月に少女暴行事件が起こった。 その前にアメリカ国防次官補をしていたジョセフ・ナイさんが東アジア戦略報告を発表しまして |
| 今後30年~50年に10万人を常駐せしめると言ったので、こうなると沖縄は基地が恒久化してしまうと思った。 |
| 其の時から絶対の沖縄に基地を作らせないという決意を固めた訳なんですね。 |
| 翌年 基地返還アクションプログラムを作って2001年までに返しやすい10の基地を返してほしい、 2010年までに14の基地を返してほしいと、2015年までには |
| 嘉手納飛行場をはじめ17の基地を全部を返してほしいと、そうすると基地の無い平和な沖縄が 取り戻せると、アメリカ、日本の政策にしてほしいとお願いした。 |
| 1996年に橋本総理とクリントン大統領との首脳会談があるということで、橋本総理が最優先で 返してほしいのはどこかと問い合わせがあり、私は普天間ですと申し上げたわけです。 |
| 普天間の周辺は16の学校があるだけでなく市役所、病院があるので、2001年までに10の施設、 普天間を返還すると喜んだ。 |
| 後から11の施設のうち7つは県内に移設すると言う事が出てきた。 施設は老朽化してきており、移設するとコンクリートで作るので恒久化する恐れがあり |
| 到底移設は容認できないと言った。 グアムに立ち寄ることがありアンダーセンと言う航空基地がありB52の基地だったが 本国に移転してしまっておりがら空きだった。 |
| 普天間の13倍の大きさで、又アファラ湾に海軍基地があるが閉鎖されて、経済的に苦しいから 沖縄の海兵隊を引きうけたいと言ってくれた。 |
| あるアメリカの国会議員と一緒に沖縄も視察を行い、帰った後に最初3500人を引き受けましょうと 言ってきてくれた。 |
| 非常に喜んだ と言うのは普天間は2000人ぐらいしかいなかった。 その人(ロバート・アンダーウッドさん)にちょっかいを出す人がいたみたいで数字を出すのは |
| 止めたいとの話があった。 2006年になると日米再編に関する行程表が出されて8000人の海兵隊と 9000人の家族をグアムに移すと言う事を決定した。 |
| 決定の条件として普天間飛行場の基地を辺野古に作ることが必要だと言われる。 辺野古には設置できませんと3つの事を言った。 |
| 1.地域住民が戦争中に食べ物が無くて餓死寸前になっていた時に辺野古の海から魚を取って、 やっと命を繋いだ 。 その後 大浦湾から魚を取ってお金に変えて子供を学校に行かせて、 |
| 生活してゆく源になっていた。 生活の源になっている処です。 |
| 2.3年間かけて沖縄の環境調査した。 開発を認める所、一部開発を認めるところ 現状を保存して手を加えてはいけないところ、に全沖縄を区分けした。 |
| 大浦湾、辺野古は開発をしてはいけない場所に第一位にランクされている。 |
| 3.経済問題 沖縄は基地が無いと経済破綻すると本土の国会議員が言っているが、事実に反している。 1960年、基地から入るのは県民の総取得の52~53%だった。 |
| 当時基地で働いていた人は52000人~55000人いた。 復帰の1972年時点では20000人に減る。 総所得の15%に落ちちゃった。 現在は基地から入る所得は総所得の4.6%~5.4% |
| 基地に勤務する従業員は9000人そこそこ、何で賄っているかと言うと観光産業です。 |
| 大浦湾等はエコツーリズムのメッカになっている。 90歳になるお爺さんお婆さんが辺野古で、10年間も反対して座ったりしている。 |
| 沖縄は平和に対する想いが如何に強いかと言う事を学ばされました。 平和に関する新聞の切り抜きをしているが膨大になっており、内容も積極的で |
| 平和を沖縄から創り出してゆこうと行動の意識が感得出来る。 |
| 沖縄では15世紀~16世紀 尚 真王 武器の携帯を禁止した。 1609年に薩摩が琉球を侵略した時に、琉球の住民が反乱を起こすとまずいということで、 武器の携帯を禁止した。 ほぼ500年沖縄は武器が無い時代を過ごした。 素手で身を守るということで沖縄から空手が発達した地といわれる。 沖縄の平和録を学問的に取り組んでいる処です。 |
2012年5月15日火曜日
大田昌秀(元県知事87歳) ・本土復帰40年 明日の沖縄を信じて
2012年5月14日月曜日
斉藤稔(ヨットマン・冒険家78歳) ・単独航海に生涯をかけて
斉藤稔(ヨットマン・冒険家78歳) 単独航海に生涯をかけて
去年の9月ヨットによる単独世界一周を世界最高齢の77歳で達成して植村直己賞を受賞しました
この航海は困難な西回りで3年の歳月を必要としました
50歳で仕事を辞めて、ヨットレースに専念するようになった斉藤さんはこれまで8回の単独世界一周に 成功しています
この中には港に一回も寄港しない、無寄港単独世界一周も含まれています
少年の様なつぶらな瞳を持っていますが→ 夢を持って夢に邁進している人の目は鋭いし、綺麗だと思います
今はヨットの修理をやらなくてはいけない
2004年に廻った時のヨットがあり、この修理もパーフェクトに終わっていない
酒呑童子3世の修理(最後の行ったヨットの名称) 1986年に初めて自分のヨットを持った
(酒呑童子1世) 酒呑童子2世は良い船で早くて、持っていたい
いま横浜に置いてある 最近のヨットはコンポジットと言いまして、カーボン、ケブラー、マイラー、スペクトンを張り合わせてあるんです
本当はカーボンで出たんですけれども、カーボンだけだと波に叩かれると亀裂が生じてしまう 軽くて強い
39歳で本格的に取り組む 1967年のときに いつ どこでもいい どのコースを通ってもいいが 単独で世界一周したものにはゴ-ルデングラブ賞をやりますと、イギリスが企画した
ロビン・ノックス・ジョンストン卿が315日掛って記録を作って世界一になった
50万ポンドの賞金もでた その後危険だと言う事で止めてしまった
その後もう一度復活させたのが1982年 イギリスのBOCがスポンサーになり同時スタートで3か所の寄港が認められ、スタート地点に戻ることが前提に成った
その後4年ごとにおこなわれた その後4つ止まれるようになり、現在は7つ止まれるようになった危険軽減のため、単独無寄港レースは1992年が第一回目で上記レースの間に矢張り4年に一回開催される
私はストップする方に3回参加して三回完走している
これまで8回の単独世界一周に成功 この中には港に一回も寄港しない、無寄港単独世界一周も含む
無寄港はレースではなくて堀江さんの15日後に出航して抜いた 233日掛る
レースで船がボロボロに成って帰ってくる
その姿を初めて見た時にはとてもできないと思っていた(プロ中のプロが行うレース)
1月~3月がケープホーンを回れる時期 この時期が比較的海が大人しいがそれでも非常に厳しい
去年世界最高齢で単独世界一周を実現した
西回りで一周した人は当時世界に5人ぐらいいた
通常は東まわり 西回りは海流、風に対して逆に向かって船を操縦しなくてはいけない
私の予定では10カ月有れば帰って来られると予想していたが、(2008年10月時点 2009年10月には横浜開港150周年に間に合わせる)
まさかあんなに掛るとは思わなかった
第一は資金不足で希望したヨットがなかなか手に入らなかった
酒呑童子2世では流氷にぶつかって壊れてしまって無理
横浜→真っ直ぐ南に降りてゆく→オーストラリアの南端のタスマニアを西に廻る→どんどん西に進む→ホーン岬を廻る(難所中の難所本来なら3月中旬に廻る予定
2週間遅れて4/6に廻った 大潮になる 低気圧 天候が荒れる
ホーン岬は36時間掛り一睡もせずに眠らずに航海する
波は15m以上 波高は白く崩れる 風は風速30m~35m
廻り終ってから漂流する様な状態で船を止める(ブレーキを掛けた状態)
流氷がぶつかる音がしたが、2時間眠った
ロープが流されてしまって、引き上げたが青いロープが1本引き揚げられなかった
スクリューと舵に絡まっていたようだ(真っ暗で判らない中)
エンジンを掛けたが プツンと止まってしまう ようやくロープがからんでいるらしいことが判る 連絡してロープを切って貰おうとしたが 漁船が来て曳航されて、船を差し押さえられてしまう 10カ月とどめられる
記録を達成するためには曳航した時点まで戻れと言われる
もう一度ホーン岬を回る事になる)→マジェラン海峡を廻る→北上→バルデビア(サンチャゴの南
そこでチリの大地震に会う 船の修理をする 右腕を大けがする
治療に2か月)→赤道通過、北上→舵のオイルポンプがおかしいのでガラパゴスまで戻って直す 部品待ち→去年の9月に横浜に戻ることができる 3年掛る
途中であきらめない 事をなしかけて途中で諦めるのは大いなる罪だと思っている
これが私の信念 身体は余り強くはなかった
1988年の時のレースで心臓発作を起こしてオーストラリアのダーウィンの病院に担ぎ込まれてしまう(8/31) その後 世界一周レースに出ないかと誘われて、新艇をつくることになる 酒天童子2世 財産を全部つぎ込む
のめり込んでしまうのは自由であること 前に向かって進む事
何回も世界一周をして記録をつくった事 命懸けでやる 達成した時の想いは何とも言えない
北海が残っている 温暖化で閉ざされていた北極海にルートが出来た
今まで3人ほど挑戦しているが、皆失敗している
行きたいコースとしては シアトル、バンクーバ→アラスカ→ベーリング海峡→グリーンランド→ドーバー海峡→イギリス を廻ってみたい
資金を作り 挑戦したい 出来れば82歳から85歳で成し遂げたい
2012年5月13日日曜日
梅田純一(陶芸家) ・旅は学び舎 人生は不思議な出会い
梅田純一(陶芸家) 旅は学び舎 人生は不思議な出会い
1950年 駒込に生れる 22歳のときに自分を強くしたいと全国徒歩の旅に出掛ける
野宿など体験 出会いが縁で 徳島県海陽町(旧宍喰町)船津杭瀬に住み19年
試行錯誤を体験して独学で陶芸の道を歩みました
多くの人との出会いに支えられて、自分があると言います
ドナルド・キーンさんとの不思議な出会いと交流も梅田さんの創作活動の刺激となっています
「こぼれ梅」 作品集を出版した 梅は小さい頃に大きくなってゆく実にするために小さな実は落ちて行き大きくなる実を助ける 其れがこぼれ梅
18歳で父親(54歳)を亡くす 其の時に目が覚めた
陶芸の道に進むために京都に行く(修学旅行で行った経験から京都を選んだ)
家族の理解は有った 身よりも知り合いも無い中を京都に行った 駅で寝て仕事らしきものはないかと歩いて 最初は京都新聞の配達をした
絵つけをもして2年間過ごす 出会いの運のいい人だと自分自身思っている
食えない作家を応援してくれた
人を愛することによって自分をもっと強くしたいと思った
1日300円と決めて1年間歩いて旅をした
「線と線を結ぶような旅じゃなくて、点と点をつなげていって線にする、そんな旅がしたかった」 権威的な組織の中ではなく物つくりをしたいと思っている
クリエーティブな作品を作るなら生き方に於いても独自の生き方をしたいと思った
星野宏之(旅で出会った人で話の中で住む家を紹介すると約束してくれた人)
徳島県の廃校になった建屋を見付けてくれて住むところを紹介してくれた
ドナルド・キーンさんとの出会い 個展に出品した時に作品を買ってくれた(20数年前)
ドナルド・キーン文庫を作って今でも本を送ってくれている
昔土佐藩の若者23人が明治維新に向けて改革をしたいと嘆願するが、追手がかけられる 、同藩の人間と争いたくないので、山を越えて 生き死にを決めた
どの道を取るか かんの浦から船に乗って京都にでるのが目的だったけど船は来ないで追手が来た 徳島藩に名乗りを上げた
この決定をしたのが「船津」と言うところ そこに姥ユリが咲いていて私がそのユリのスケッチをしていた(そこが彼らの生き死にの場所だと後で知って)
この想いをユリの絵に託して 23士の絵を書こうと思って書いた
其れを彼に話したら 「ゆく夏や 別れを惜しむ ゆりの昼」という俳句を絵に書いてくれた
其れを陶板(1m×3m)に23のゆりを書いた その横にドナルド・キーンは後でわざわざ来てくれて 「ゆく夏や 別れを惜しむ ゆりの昼」と書いてくれた
其れを2人で相談して図書館に寄贈した
出会い 毎日何かに出会う(風景、物、人等) 人との出会いが私はしたい
究極は自分との出会い 自転車や車では駄目 歩くと言うのは考えると言うのとペースが近いし、人と直ぐ声を掛けられる だから山の中を歩くのではなく人家を歩く
出会い(道であう) 出合い(出会って話して親しくなって心が通じる)
「出合い」の出来る人は一時の「出会い」を大切にする
独学の道を選んだ理由?→何か人に教えて貰うより人生のページを毎日、本をめくる様にさあ次は何が出てくるのかなと思いながらめくってゆくのが楽しい事でしょう
子供達に言っているんですけれど、学校の先生になるのなら大学に行きなさい、アーティストを目指すなら一日も早く家を出て自分の道を探せと言っている
自分が人生を学ぶと言う事は誰も知らないことを一つ学ぶこと 皆が知っていることを沢山学ぶよりも皆が知らないことを一つ学ぶ方がそれだけで飯が食えると
一人は18歳でもう一人は20歳で家を出てそれぞれの道を探しました
一人はシルバーの作家(彫金) 弟は革 (革の財布とか アクセサリーとか) 家を出てゆきました
地域での活動 地方の百貨店と共同で個展をやっている
110回になる 30年掛ったが、3m×8m壁面に大皿を100枚 並べて夜桜の絵を書いた
皿の大きさは40cm~70cm 素焼1回本焼き一回 後絵が4~5回 合計6~7回
これを100枚、600回~700回 梯子を登ったり降りたりした
これからは毎年一作ずつ10年間やりたい これが夢です
次は鶴の千羽鶴 組絵皿、今は知識を教える 私は生きる知恵を教える
今は知恵を教える場が無い
私は女運がいい 特に母親 12年間母は植物人間状態だが母には感謝している
色んな意味での生きる力を示してくれている
2012年5月12日土曜日
酒井雄哉(延暦寺住職85歳) ・人生これ修行
| 酒井雄哉(ゆうさい)(延暦寺住職85歳) 人生これ修行 |
| (1926年(大正15年)9月5日 - ) は天台宗の僧侶。比叡山延暦寺 |
| 千日回峰行を2度万行しています 千日回峰行とは比叡山の山中等を7年の間に1000日間歩く修行で歩く距離は4万km 地球を一周する長さです。 |
| 比叡山修行の中でも最も過酷な修行と言われ、これを2度万行した僧侶は記録に残っているのは これまで3人だけと言われている |
| 堺さんは 戦後 ラーメン店や株の取引等様々な職を転々とし、妻(と成ったいとこ)が結婚2か月で 命を断つなど激動の人生を送り39歳で仏の道に入りました |
| 52歳のときと 60歳の時に千日回峰行を万行しました |
| 今でも毎朝滝に打たれる 子供の頃は泣き虫で落第生だった 予科練に入る 特攻基地にいた |
| 戦後 あるところから父親に就職の話が来たが、家の近所にいい勤め口があるため断る為に 父親の代わりに行ったら 私が父の代わりに勤めることになる |
| 学校に行ってないといったら 行くように紹介される 学校に入るのに成績証明書を貰わないといけない 成績表が悪く 法政大学に行かなくなった |
| 学校に行かない分の時間を東京都内をめぐり歩いた それを100日以上やっていた |
| 小刻みに考えると 疲れないので済む |
| 親戚が気を使って、従妹(いとこ)の女性と結婚をする 妻はガス自殺をする。 結婚して二ヶ月しての出来事だった |
| せめて49日はいてくれと、義父(叔父でもある)にせがまれ、妻の実家の鉄工所を手伝うことに 義母(叔母)が、気分を転換させようと比叡山に連れて行くことがあった |
| 比叡山に行くようになる 小林隆彰さんに出会う 来拝行(立ったり、座ったりする行) 朝、昼、夜 3回(1回に付き108回) やる事になる |
| けがれているから 滝に打たれてから 行をしなさいと言われる 滝に打たれるのはその都度行う |
| 一日やったら音をあげると思っていたらしかったが 、1週間やり通してしまった 一旦帰ることになり宿題をだされた |
| 答えが判ったら山へ来い 判らなかったら来るなと言われる メモを渡される 「東西日南北」 東から太陽が登る国 な(南) にし(西) きた(北) ? |
| (これは若い頃、二一枚の般若心経の写経をする時に、ズルをして、重ね書きがバレた時に 中心に「日」、上に「東」、) |
| (下に「西」、左に「北」、右に「南」を書いた紙を渡されたエピソードだ) |
| (このエピソードを考察してみたい。これは「一隅を照らす」という天台の根本の教えに通じる 師の諭しように思われる) |
| (「一隅を照らす」という思想は、全宇宙(東西南北)あるいは全世界を考察することにも通じる) |
| (つまり「東西南北」を考えることは、若い酒井師に比叡の一隅から全世界を考えて生き続けなさい 、という師の導きとも考えられる) |
| 判らなくて山に行かなかった 弟子にしてくれない 仲介有り叡山学院に行く 叡山学院を首席で卒業する 46歳だった |
| 20歳も若い人と一緒にやるので人よりも2倍やろうと思って 明け方 根本中尊までお参りに 行って 5時になると若い人と合流して釈迦堂でお勤めしたりした |
| 或る時に阿弥陀堂で琵琶湖の方を見たら空が茜色に成っていて 琵琶湖の水辺の青さが綺麗 だなあと思って 太陽と月に仏さんが有るのだなあと 思った |
| 太陽(日光菩薩)と月(月光菩薩)の間に自分があると感じた 仏は心の中に有るのだなあと思った |
| 常行三昧(仏立三昧)行う 90日の間お堂の中で阿弥陀仏の周りを歩きながら念仏をとなえる 食事も立って食べる ぐるぐる回りながらほぼ寝ないで念仏を唱える |
| 足も脚気みたいに成ってきて足が上がらなくなってくる バランスが崩れてしまう 歩きながら呼吸をして念仏を唱える 念念歩歩しょうしょうと言う人もいる |
| 心の中で仏さんを想い描きながら、呼吸をしながら念仏を唱えて身体を動かしてバランスが一つに なって初めてものが成就するということです |
| 千日回峰行は自然に行に入っていけた 出峯の時 じっと老僧が出てゆくところを見守ってくれた |
| 或る時雪が降った後に猪がきて正面衝突してしまった 落ちて雪が有ったから酷い怪我はなかったが足をぶつけてしまって親指がまりもみたいに膨らんで |
| 動き出したがどうにも動けなくなってしまって、足を切開しようと思って切ってしまった 一時失神していたようだった 回りは血の跡があった |
| 行者は「手巾(しゅきん)」(紐)(病気等をしてもうこれ以上行けなくなって駄目な時に自分で自分 を始末するロープ)を持っている 首をつって断つ |
| 刀と手巾 二つを持っている 手巾を裂いて包帯代わりにして縛って降りてきた |
| 千日回峰行は不退行 止めるときは自分で自分を始末しなさいということ |
| 人間 命が大切 次にお金 行をするにはお金をはたいて自分を育てた親だとか、 お坊さんだとか、学校の先生だとか 呼んでその人達にお食事を供与する |
| 生葬式 をする お別れ会をする 「お堂入り」の修行 9日間の間に水も飲まない、 食事もしない、横にもなれない 寝てもいけないと言う行をやって |
| その間に法華経8巻を全部読み終って 不動明王の真言を10万遍唱える 井戸に行って水を持ってきて供える (夜中) この時だけ堂の外に出られる |
| 誤魔化す これを知っているのは自分と仏さんだけ だまして修行を終えても重い荷物を背負って生きて行かなくてはいけない |
| 千日回峰行を2回やって得たものは?→何にも得てない ただ2000日ちゃんと動いたな と言うだけですね だから毎日生きているとう事以外何にもないと言う事です |
| 生きているから出来た事で生きていなかったら2000日歩けない だから感謝の気持ち ありがとうございました と仏様に |
| 坊さんに成ったのだから人様に迷惑をかけないで、人様の為に頑張ることを考えなければいけないよね その延長線だから 昨日は昨日だし、今日はこの自分だしね |
| 自然に逆らってもしょうがない 時期が来たら桜も散ってしまうし、咲いてくれといっても咲いては くれない |
| 暑いな暑いなと思っているうちに また冬に成って葉が茶色くなって枯れて落ちちゃって また3月頃になると花が咲いて その繰り返しじゃない ぐるぐるぐるぐる |
| 今日が終わって一日が終わって また次の一日がきて その繰り返しで人生が終わって 行くのじゃないのかなあと思います |
| 今を大切にしなさいと 一日 今以外に何もない |
| ここのお寺からわらじを履いてでて行くでしょう ずーっと山を登って又山を下りて帰ってくる そうするとわらじがボロボロに成ってしまって次の日に履こうと思っても履けない |
| 新しいわらじを履いてゆく 毎日毎日履いてやっていると草鞋のお陰で自分が回れることが できるんだと有り難い気持ちになったと同時に |
| 其れを人生と思ったら 今日の自分は今日でお終いで 明日は明日で新しいパワーで回れるという 発想で 一日が一生ではないでしょうか |
| 今以外に何もないから 今こうやっていても大地震がくるか、山津波が来るか判らない あっという間に一瞬のうちにお終い |
| 地球の上に居ると何が起きるか判らない 仏様から命を預かってきた自分達だから 其れを一日一日を大切にして なんか皆の為に尽くす ことを考えなければいけないと駄目だと思います |
| お茶で一期一会のようなもの |
| 大震災に有って苦しみ 不安等抱いている人達がいると思うが→いま生きていること自体 呼吸している事が感謝ではないか 酷な様だけど世の中は無常の世界 |
| いつ何が起きても当たり前 自然の中にいるのだから |
| こないだ東京で 地球の高山に無酸素(酸素吸入器具を使用せず)で登った人がいて その人と話を聞いたのですが 人間ていつ死ぬか判らない |
| 空気が無くなっちゃたらお終いだし 一歩ずつ進んで行って ある地点まで行ったときに自分が そこに立っていると言う事は生きていると言う事で |
| 凄く感謝の気持ちとか 空気の有り難さ そういう風なことを言っていた |
| 空気があって空気を吸わしてもらっている 感謝の気持ちをもう一遍 皆が関係ないと思うんじゃなくて考えてもらう必要があるんじゃないの |
| 生きると言う事は?→仏様から命を預かって お前ちょっと娑婆に行っていろんなことを勉強して きなさいと追い出されたんだから 生きている間に自分で |
| 帰ってゆく為に論文を書いているんじゃないかと 人生の論文を 自分の論文を |
| 其れを携えて お釈迦様の前で 閻魔様の前で その論文を見てもらって あっこれだったら 合格だ だったら来年はこういう事をしなさいとか |
| 駄目だったら もう一遍追い返して もう一遍人間になってやってこいとかなるんじゃないかと思う だから今一生懸命やっていること |
| これはやらなきゃあいけないとか 自分と言うものを懺悔の気持ちで持って 感謝の気持ちと ぶちあげて 死んだときに 堂々と仏様に報告ができるような論文 |
| を書くために 今を大切にしなければいけないんじゃないかな それが生きることとちがいますかなあ |
| いずれにしても自分はこの世の中になにしにやってきたのかな と言う事でしょうかな |
| それぞれ皆生き方が違うし いろんなことを言っているけれど やっぱり 何か やるべきじゃないの 人間として |
| 人生というのは全て 生きる行だからね 修行なんですよ |
2012年5月11日金曜日
黒田杏子(75歳俳人) ・名残の花をめぐる幸せ 2
黒田杏子(75歳俳人) ・名残の花をめぐる幸せ 2
還暦 一つの次へのステージ 自分を取り巻く時間が違ってきた
残花巡礼 花にはそれぞれ満開のときとかいろいろある様に人にもそれぞれのときがある
俳句をやっていると沢山のお歳をめした方がいるが、その人達で魅力的だなと思う方は加齢を逆にプラスにして生きている
花がほとんど無い様な場合でも 美しい 欠けている事に対して日本文化の美意識を感じる 「なお残る 花あびて座す 草の上」
名残りを 詠んだ句 それらを句集「花元草上」に纏める
「花元草上」は篠田桃紅先生が良く書で書かれる字
俳句作者 俳句撰者 として生活している
大震災後 投稿してくる作品をどう選ぶか 改めて選者を問われていると思った
福島民報が福島県と一緒に文学賞を設けてやって来られた
そこで俳句部門の選者としてエールを送ってほしいと頼まれる
原発及び津波の被害にあっている方々に対してどうこたえてよいか判らなかった
未曽有の災害に対して悲惨さを投稿してくれる人が沢山いると思われる
選句に私は全力を投入します
選句という形を通じて災害の復興にどこかで力になれるかもしれないのでそのことに力を入れますと 書いた
それが反響を呼んでくれた 先生の言葉に励まされて俳句を作ります とか手紙を貰った
其れが力を与えられたと思います
一句の脇に言葉書きがある俳句が多くあり 撰者にこの様に対して心を開いて自分の心をぶつけてくるんだなと驚きました
新しい作者が何人も出てきました
選者としても緊張したし、新たな勉強もした 正岡子規の本を読んでいたつもりであったが 「五月雨は 人の涙と 思うべし」
「さつき寒し 生き残りたるも 涙にて」 明治29年に正岡子規が読んだ句だった
当時病床にあったが 中村 不折(絵画師)を派遣して作った句であった
明治29年の三陸沖津浪のときの句
恥ずかしい事ですがそれまではこの様な句は知らなかった
残花巡礼は自分の人生をもう一度総括する様な機会であったと思う
思いもかけないような句をつくった ゆったりした時間 といろいろな人達との出会いがあった
「ふるさとの山 ふるさとの川 さくら」 この様な句は以前は決して作らなかった
俳句作者として自分をしっかりさせたい、発展させたいと思ったのは若い頃で 俳句作者として人生を貫けれればいい 会社の時間は限りがあるけれども
勤めを終わっても生きていける限り俳句を作ってゆく自分を維持したいと思ったんですけれども 理屈ではなくて 名残の花をめぐると言う事で、自分の時間が緩やかに成ったし、 生きかたのギアチェンジもできたし、人との関係 御縁というものの有り難さが 3/11の大震災を経てしみじみ身に迫った
そう言った人達の俳句を作られる句を毎週、毎日観られる生活が私に来ていると言う事は 名残の花をめぐり続け札所めぐりをしてきたことが多分 自分の生き方を作ってくれている と思う 幸せと言えるかどうかわからないが、本当に感謝したい ありがたい
良い意味で自然に年を取って、自然に老化してゆく そういう風に成りたいと思った
杖を持ったことによって お互いの気つかいが判ることができた 加賀千代女も長い杖をついていた(展示してある)
2012年5月10日木曜日
黒田杏子(75歳俳人) ・名残の花をめぐる幸せ
黒田杏子(75歳俳人) ・名残の花をめぐる幸せ
(1938年(昭和13年)8月10日 - )は日本の俳人 東京都本郷生まれ。1944年、栃木県に疎開、以後高校卒業まで栃木県内で過ごす
山口青邨に師事 現代俳句女流賞、蛇笏賞 等を受賞 NHK俳句番組、新聞雑誌の投稿の撰者としても活躍 日本列島桜花巡礼と名付けた満開の桜めぐりを30代の初めからおよそ30年間続けたことでも知られています
西国、坂東、秩父の百観音霊場巡礼や四国88か所の遍路も初め長年全国を巡る人生を送ってきました
60歳から始めた残花巡礼を続けておられます
残花は桜の花に限る 晩春 余花は初夏 桜 時系列的に花を待つ 初花 初桜 花三分 満開 花過ぎ 残花 余花
1日の中でも時間系列があって 朝桜 夕桜 夜桜 花かがり(かがり火の光で花を見る) 花冷え 遠山桜 表現する言葉が豊か
季語と親しくなると豊かになる
一番最近行ったのは滋賀県琵琶湖の周り 今年は随分咲いていた
今年ほど琵琶湖の周りに桜があるのを実感した事はない
寂庵での句会 28年目になっている 秩父34観音 4月7日に行く
日本百観音の結寺 水潜寺 金子兜太先生の生れた札所
西国 33ヶ所 坂東33ヶ所 合わせて66か所で秩父は百か所になるために34か所になっている
「月充ちて 花の秩父と成りにけり」 月と満月との係わり
俳句仲間と一緒に100観音をめぐる 53歳の時に始める 20年で100観音をめぐる
四国霊場88か所めぐり 桜花巡礼は30歳ときから始める
20~30年かければ出来るのではないかと始める 単独で満開の桜を目指して行くのは当時は情報も無かったので自分で調べて、国鉄のストもあり いろいろあった
40代までは投稿してはいなかった 当時は民間の広告会社博報堂に勤めていた
会社には定年があるが表現するのには定年はない 俳句で人生を貫く発心した
30代で再入門した 発心は自分との契約 人に言うものではない
体験 最初気負っていた 満開の桜に接する 淡墨桜 岐阜 新幹線で行き タクシーでゆくお金もかかる
帰ろうとしたら身体が硬直して動かない 1~2分で直ったが 桜の精みたいなものが 私が桜を見に来たので 咲いてる満開の桜なんだと
桜が私を諭したんだなんて思って 有るチャンスがあってエッセーに書きました
其れを読んで金剛福寺 38番札所の俳句をやる奥さんから投書があり 黒田さん其れは桜に悪い 桜はそういう木ではないと 指摘された
佐野さんは丸山公園の造園業者 ソメイヨシノと山桜の違いは 花ビラの重さが違う ソメイヨシノの花びらは木の下に散る 山桜の花びらは気流に乗って広がる
そういう違いを知っていないといけないと言われた
「花に問え 億千本の 花に問え」 「花に問え 私に問え 花に問え」(黒田)
「発心の 我を悲しむ 桜かな」 (黒田) 自力だけではなく 他力もあるのかなと 自分を見直す 自分なりの行を発心したことへの感謝
残花巡礼 桜が咲いていない時に(別の光景が見える) 別の季節に行ってみてもいいのかなあと思うようになった 散り始めた以降の光景見る
なんとも豊かな気持ちになれる 満開の時とは違って人のざわめきはない
2012年5月9日水曜日
柳生博(俳優 日本野鳥の会会長) ・世代を引き継ぐ者たちへ 2
柳生博(俳優 日本野鳥の会会長76歳) 世代を引き継ぐ者たちへ 2
一日300匹から400匹の虫を四十雀(シジュウカラ)は春になると捕り始める
40歳から木を植え始める
当時は雑木林にすることは金にならないので見られなかった
熊野古道は杉と瓦礫 沈黙の森
更新してゆくためには35年経っているので木を切ってゆかなければならない
里山 雑木林、灌漑用水路 田畑 がある
日本人と自然との係わりは世界でも特筆に値する 自然との折り合い
子供は遊ぶことが好きだが野良仕事をした方が喜ぶ又そこで褒めてやる
重ねてゆくうちに手伝いをするのは当たり前の事になる
叱ることも大事 危険な事をやる時に緊張させる事は大事
13歳の時に1か月の旅をしろと言われて 旅をして家に帰ってくると、祖父が頬を両手で挟んで「良い顔になった」と褒めてくれて感動した
花鳥風月 の事を祖父から教えてもらった
花、動物、農業との係わり ツバメが来たらどの作業をしたらいいのかとか 風が運んでくる季節感 闇の事 満月の灯
森と暮らす 森と学ぶ
19年前に書いたことが教科書にも有るが 75歳になって時々見直すと赤面してしまう事がある 歳を取ってちょっと違っていた事がある
感受性が歳を取ってくると敏感に成ってきている様な感じがする
どろがめ先生(高橋 延清) 東大教授 「森の話をしよう」の対談で話し合う
どろがめ先生は気に入るとあだ名を付ける
柳生君は森の世話人だと言われて嬉しかった
コウノトリの復活の応援団長もしている
懇親会をするのが好き
乾杯の時にいつも言う言葉「確かな未来は懐かしい風景の中に有ります」と言って乾杯をする 懐かしい風景をもう一度作ってゆく 懐かしい風景を持続させてゆく
生き物たちが機嫌良く住んでゆく
一日300匹から400匹の虫を四十雀(シジュウカラ)は春になると捕り始める
40歳から木を植え始める
当時は雑木林にすることは金にならないので見られなかった
熊野古道は杉と瓦礫 沈黙の森
更新してゆくためには35年経っているので木を切ってゆかなければならない
里山 雑木林、灌漑用水路 田畑 がある
日本人と自然との係わりは世界でも特筆に値する 自然との折り合い
子供は遊ぶことが好きだが野良仕事をした方が喜ぶ又そこで褒めてやる
重ねてゆくうちに手伝いをするのは当たり前の事になる
叱ることも大事 危険な事をやる時に緊張させる事は大事
13歳の時に1か月の旅をしろと言われて 旅をして家に帰ってくると、祖父が頬を両手で挟んで「良い顔になった」と褒めてくれて感動した
花鳥風月 の事を祖父から教えてもらった
花、動物、農業との係わり ツバメが来たらどの作業をしたらいいのかとか 風が運んでくる季節感 闇の事 満月の灯
森と暮らす 森と学ぶ
19年前に書いたことが教科書にも有るが 75歳になって時々見直すと赤面してしまう事がある 歳を取ってちょっと違っていた事がある
感受性が歳を取ってくると敏感に成ってきている様な感じがする
どろがめ先生(高橋 延清) 東大教授 「森の話をしよう」の対談で話し合う
どろがめ先生は気に入るとあだ名を付ける
柳生君は森の世話人だと言われて嬉しかった
コウノトリの復活の応援団長もしている
懇親会をするのが好き
乾杯の時にいつも言う言葉「確かな未来は懐かしい風景の中に有ります」と言って乾杯をする 懐かしい風景をもう一度作ってゆく 懐かしい風景を持続させてゆく
生き物たちが機嫌良く住んでゆく
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