2011年6月19日日曜日

福島立實(山岳ガイド)       ・我が学び舎は乗鞍岳


福島立實        我が学び舎は乗鞍岳
6月は登山シーズン 2700m 畳平まで車で行ける
ペンション経営、北アルプス山岳ガイド、全日本スキー連盟公認指導員 自然公園指導員 
釣り協会その他
父は福島達吉 15年以上前に亡くなる(94歳) 私は13番目の末っ子
父と山歩きを一杯やった 父親のやっていることは全てやっている 
父親の影響が大きかった 全て自然が先生みたいなものだった

何をやっても面白い 興味を持つとどんどん面白くなる 
地形、地質、によって好んで育つ場所があって取れるもの全部場所をおぼえていった
一時、都会に就職するが、父に呼ばれ、山に戻る  
きこりになりたかった→山では超エリート(高収入、技術等) 
木の倒し方が難しい 
枝がどのように挙動するか、状況により枝で怪我したり、亡くなったりする場合がある
木を倒す時には何回も何回も周りの状況を確認する

お客と話をするのが楽しみだった→ペンション経営へ  類は友を呼ぶ  
いわな釣りはお客の分だけ釣る
山菜も標高によって味が違う 1500mが限界 その場所での山菜が一番美味い 
寒さに耐える為にでんぷん質を貯める
耐えるってことが美味さに繋がる マツタケもとれる 
ツガタケという(乗鞍のマツタケ) 幻のマツタケといわれる
味が違う→味が高尚  山菜は雪が解けると必ず出るが、キノコは難しい  出ない年もある
気温と雨と風 適度な数値になることが必要である  
見つけ方難しい→葉が落ちて一枚だけ微妙に違うのがある(自然ではない違い) 
そこにマツタケがある (マツタケが葉を動かす) 長年見ていないと判らない
ある案内をした時 ガスって何も見えない こっちの方に行けば大丈夫という自信があった 
目印はない どういう歩き方をすれば大丈夫か
自分の体の力を抜いて歩けば最大傾斜線になる 逆らってしまうとどこかに行ってしまう 
目標(トイレの場所)は逆らってはいけない場所にあった

ガイドはどんなことがあっても生還しなくてはいけない 
自分の過失でお客さんをなくしてしまった場合、これはガイドとは云えない
意外と登山する人で出来ないのが火を焚くという事 (火は命)
今までの遭難でも火がたけなかった為に亡くなったということが、結構あった
火を焚けば、暖をとれる 火さえ焚けば煙が出るから発見してそこに食糧も落とせるし、電話がなければ携帯電話も落とせるし、全てが出来る
冬の生の小枝は燃える 夏は燃えない(水分を吸っているので) 枯れている木は力がない
生の木の方が火力はある
こちらでは「山で火がたけないようであれば婿に行けない」ということわざがある

火を焚くコツ→木の種類を見る(桐、柳、ななかまど等は燃えない) 
燃える木を探す いっぺんにパッっと燃えるような燃やし方をしない
本当にマッチ一本から少しずつ少しずつ燃やすようなやり方をしないと駄目
最近特に温暖化が目につくようになった
蛇→最近は絶対この場所ではいないと思っていた所に蛇を見かけるようになった
土の温度が上昇している(蛇は変温動物)  動物たちが山の上の方に来るようになった
山に熊が食べる餌がなくなった 熊、たぬき等ずっと人間の営みのなかで生きてきた 
人間の営みが変わってしまった

木を切らなくなった 実のなるものは全て花が咲く 森林化すると、鬱蒼としてきて、光が入らず花が咲かなくなる 下草が育たない
熊はうど等を好んで食べる よぶすま草、えぞ山あかり・・・ むだなものは食べない 
蟻も好きだが蟻もいなくなる
日を当てないと花を咲かせられない(実がならない)→木を間引く必要がある  
手を掛けなくてはいけない
彼らの住みやすい環境を作ってやる必要がある

2011年6月18日土曜日

永留久恵(90歳)        ・アジアの中の対馬

永留久恵(90歳)
対馬国史全3巻を出版  古代から現在までの対馬史
対馬には上県(あがた 北)と下県(南)がある 
魏志倭人伝に対馬は森林多く 良田なく 海のものをくらって自活し 船に乗って南北にシテキする 
シテキとは商売すること
中国の後漢の頃 鏡が出てくる
14歳で師範学校にゆき 後に先生になる(それしか道はなかった) 学費の高い学校にはゆけない
 兄にお世話になった

20歳 1941年 佐世保海兵団の一員になる 最初戦艦「霧島」次に航空母艦「飛龍」→
ミッドウエー開戦にゆく 飛龍はなくなったが助かって帰ることが出来た
その時艦長が生存者を集め、訓示をする  総員の退艦を命ずる 
僕らに生きる誇りを持たしてくれた
艦長は船と運命を共にした 
お前たちはもう一度国の為に働け 責任は俺一人で取る  今でもそれを誇りにして生きている  
艦長から生命を授かったようなもの
戦後は対馬でずっと先生をすると同時に 歴史研究を続けている 
 
1921年 東西考古学会というのがあった 
対馬は軍の要塞のため、考古学の調査が出来なかった 
その先生たちが戦後対馬研究の為に島に来る その対応をしていて興味を持つように 
アジアからみたつしまというものを書きたいし、対馬から見た中国朝鮮との関係を書きたいので本を
作った 日本自費出版大賞になった
漢式土器 が僕の古里から出てくる 銅剣や銅鉾等も出ている  
弥生前期によく漢式土器が出てくる対馬から出土したものと全く同じものがピョンヤンの博物館にある
楽浪郡済州島に4回、5回と行っている

縄文前期のころはみんな対馬を通ってゆく 九州 松浦にゆく 
縄文後期になると、宗方へのルートもできる このルートがだんだん強くなる 
種子島の赤米は背が高い・・・東南アジア系  対馬の赤米は朝鮮系 
文化人類学の先生たちは北を回ったのではなく、江南から直接渡ったんじゃないかというのが多い 
日本列島に稲がどこから来たのか
正確には判らないが、古代の遺跡が物語るもの
中世になると朝鮮系の仏像が対馬に沢山ある  
室町時代は国境が有ってないようなもの、自由な交易ができた
朝鮮は青銅器文化が盛んなところ 高麗王朝が滅んで、朝鮮王朝が出来た時 廃仏毀釈をする  
朝鮮は儒教文化であるので手や足のとれた仏像が沢山出てくる

仲よくしなければ良い商売はできない 
隣国と仲良くするという事がいかに大事かということを日本史は教えた
徳川時代の260年は日本は全く戦争をしていない 
朝とは通信使を使わしてなかよくした
徳川時代が終わり、通信使がなくなると日本に征韓論がでてくる
その後日本は一杯戦争をやる様になる  
隣国を大事にするということは国防上大事な事
雨森芳州1668年生まれ 1755年亡くなる かれは子供の時から京都で育っている 
父母や兄弟たちの墓も京都にある 

雨森芳州は元禄の初めごろ対馬に来る 幕府の儒官になりたかったらしい 叶わなかった 
朝鮮方 外交交渉は対馬藩が行う
外交 雨森は通訳も兼ねる  誠信の交わり
豊臣秀吉の時代は朝鮮出兵がある 対馬の部隊が一番先頭
(相手の事を一番知っているのが一番先頭)
宗 義智(そう よしとし) 対馬領主宗氏の20代当主。対馬府中藩の初代藩主
義智は5,000人の軍勢を率いて天正20年(1592年)4月12日に対馬北端の大浦を出港し釜山に上る
中世 朝鮮半島南に多くの倭人が居留していた 朝鮮国はこうきょうわと称していた
それは海賊です 朝鮮王朝 初代王朝 李せいけいが海賊というけれど 彼らは貿易商人である
国が乱れて貿易が出来ないから海賊にならざるを得なかった 
土地を提供するから住んでもいいよ
 と飼いならす

向うに住んだ人を「こうきょうわ」という  両方に住まいを持っている(行ったり来たりの生活)  
対馬、松浦、壱岐等
朝鮮の役にたった人は官職になった人もいる
明治以降 下関から釜山に直接行くようになって 対馬にはよらず取り残された
今後は 国際観光地として観光産業を開くしかないのではないか 済州島も同じ 
済州島は見事にそれをやる
済州島:韓国の最南端(高知県や福岡県と同緯度)に位置する島
アジアを旅行して記憶に一番のこるのはシルクロードである  半農半牧である 
対馬は半農半漁なので何か通じるものがある
最近中国は都市化が進んでいるが 田舎の方が中国らしい  
物事を頼んでも良くやってくれる

2011年6月15日水曜日

千賀原公彦(NPO法人Dコレクティブ) ・被災地ボランティアの司令塔として

千賀原公彦(NPO法人Dコレクティブ) 被災地ボランティアの司令塔として  
山形県と「山形県災害支援ネットワーク運営連絡会  3/11より以前からお互いに情報交換
工場のヘドロの除去依頼
床下のヘドロは臭い 虫、カビ等 これからの季節 気を付けないといけない 宮城県塩釜市 被害甚大 被害状況のチェック 人手が不足  
4つぐらいのNPOと協力し合いながら5~6名でやっている  
被害の状況がどうなのか 写真や動画に収めたり話を聞いて約1週間掛って行う
支援活動の把握  死体がごろごろ転がっており人々がとぼとぼと歩いており 自分はいったいここで何が出来るのだろうと想像がつかない状態
一時間ぐらい涙が止まらなかった記憶がある
今は情報収集から第二ステップに入っている

秋田が岩手を 山形が宮城を、新潟が福島を支援する役割り分担が決まっている
外部支援が(関東、関西)引き揚げた後 如何するか 
今まで漠然と行政がやるものと思っていたが 矢張り 行政も被害者になってしまうので 行政、民間、NPO、社会福祉協議会等といろいろな連携対応があって復興支援に当たっているというのを見て 仕組み作りをする団体が必要であろうと、2003年に資格をとって細々と活動を始める  
同じ震災でも対処の方法が違う

そこに住んでいる人達や、被害の状況、住民の人達がどんな思いかをちゃんと向き合って あの時のあの方法が合うかな とかさりげなく支援してゆくことが、10年ぐらいで見えてきた  
今回 応援要請があれば動けない  複数県にまたがって被災するというのは想定外
この三カ月を経過して 今までの災害であれば三カ月で復旧期を終え これから復興計画にはいる段階なのだが、そこまでまだまだいっていない
外部支援がまだ行っていない場所がある
漁業、港をどうするか、畑をどうするか 支援、商店街 コミュニティービジネス等 再生にボランティアが関わっていかないと 今回の東北の復興は、成り立ってゆかないのでは 
(本来ボランティアは営利に係わるところには入ってゆかない)  
息の長い支援になりそう
 
一店でも二店でも店が出来るように支援が大事(地元のベースとなる)
「ありがとう」と言わせ続けないような対応が必要と思う
毎日いろいろな人が来て声を掛けてくれるのだが、責任者はいったい誰なのかと云われた・・・配慮が必要
ボランティア→作業するのが目的になってしまい 住民と一緒になって住民の思いを考えながら作業して 自立につながる手伝いをするというのが本来の目的
ガソリンがないことにより 物資が届かないという 新たな隙間も見えてきた  
社会構造を見直して ゆく機会になるのでは
頼りになるのはラジオ 一番早く教えてくれた 避難所もラジオ
被災地に寄り添うことが必要 孤独死等 永い対応が必要  
災害支援のキーワードは継続
社会のシステムのなかで途切れさせないような仕組みが大事

2011年6月14日火曜日

坂本眞人(南町商店街青年部)   ・復興は青空市とコロッケから

 坂本眞人(南町商店街青年部) 復興は青空市とコロッケから 小野寺和雄  
南町商店街は9割が倒壊した  翌日歩く道がなくがれきを登って動いた 
200m 四方に130店舗在り飲み屋が多い 1~2軒しか残らない 家の中はがれきだらけで自分で出した  
青年会でチームを組み順番にかたずけた(20名程度)  
まだ信号がつかない状況  気仙沼市役所が情報源になっていた  
何一つ情報がはいってこなかった
避難所をむらさい神社に設ける  (年/一回 9月にかぼちゃ祭りを神社でやっていた) 

各自治会長が避難所に避難
食べ物、毛布等 集める 10日間は支援物資途等 全然来なかった  
青年会みんなで役割分担して水、食糧、ガソリン等を集めた 自家発電 ガソリンが7日目に入り、電気が点灯した   
青空市場を開催→下着販売(みんなで話し)、コロッケ(北海道の冷凍コロッケを一関まで送ってもらい)、靴、弁当、キムチ等々  
月曜~金曜 10時~2時まで営業した
何かやらねば駄目と青年会が立ちあがる
ライフラインがまだ、電気、水が来れば住みたいという人いる  
木造建築は全て破壊された

仮設店舗はできないか、中小建設会社に相談 土地を確保してもらえればOKとの返事  
土地を確保、し整地中
二階建て、四棟を計画 南町商店街の核としたい  
ボランティアに助けてもらって励みになった
子供たちは父母が頑張っているので対応してくれている 今一番必要なもの・・・時間がほしい  
一日を長くして一日でも早く仮設店舗を立ち上げたい

2011年6月13日月曜日

畠山重篤 (NPO法人代表)    ・森は海の恋人


畠山重篤 (NPO法人代表)   森は海の恋人
 NPO法人「森は海の恋人」の代表
1989年に牡蠣の森を慕う会を結成 →漁民による植林活動を続けてきた→3/11大震災で牡蠣の養殖施設などを失う
父の代からカキ養殖を始める 三代目の息子たちが後を継いでいる 私も50年やっている
牡蠣も種が必要 カキは真夏に産卵する→3週間プランクトン生活をする(ものにくっ付く性質がある)→ホタテの貝殻に穴をあけて70枚(一連)海にぶら下げる
そこに牡蠣の赤ちゃんがくっ付く(そのままだと脱落したりする)→万石浦(干潟)の干満潮にさらす→しっかりとホタテの殻にくっ付く(水からあげて、2週間ぐらいの輸送に耐えられる)→柔らかくなった縄の間に殻を挟み込む→それをいかだに下げておけばプランクトンを食べて成長する  
早ければ翌正月から春には売り物になる(昔) いまは1年から2年必要 

カキ養殖 広島は大田川という広い川がある 宮城県は北上川が注いでいる 
川と海の混じっている領域をきっすい域と言うが、きっすい域でないとカキ養殖はできない  
養分は段々川の上流から来ることが判ってきた ・・・それは森は海の恋人ではないかと判った  
平成元年から気仙沼湾の養殖している漁民が中心となって落葉広葉樹(ブナ、ナラとか)の植林を展開する→森を作る運動を展開
毎年葉っぱが落ちる→腐葉土が出来る・・・森でも一杯生き物がいる森は良い森→海にとってもいい森、杉とかひのきの手の入らない山は暗い 
生き物がいない・・・悪い森→海にとっても良くない
 
一番いいのは東京湾と鹿児島湾を比べればいい(ほぼ同等面積) 
東京湾には16本の川(武蔵野の雑木林)が流れ込む (2年で真水になるぐらいの量)
 →鹿児島湾より30倍の魚介類が取れている(本来なら汚い海)

鹿児島湾は大きな川がない(火山の爆発で出来た湾 綺麗な海)
3月11日 地震発生 この4~5年地震が多い 
7年前 三陸はるか沖地震の時の方が揺れは大きかった
大津波警報が発令→チリ地震津波を想定で対応(去年も大津波警報出たが大したことなかった)→潮がひく(直感 異様な感じ)
25mの高台自分の家から見る→第一波 静かに海面が盛り上がる 
動いてくる 5~6m →第二波 10m以上 あらゆるものが第二波でやられる
放心状態 引き波 早い 時速40km? チリ地震の比ではない さらに裏山に逃げる 
93歳の母親を亡くす 家は助かるが生産設備等全て失う

大きな家の屋根がどんどん流れてゆく 
三男が湾の外へ船を脱出させようとしたが、出遅れてしまった 灯台がしたに見えた 
島の近くに流されてきた浮輪を体に付け何とか泳ぎついた
この津波はでか過ぎた 弥生時代 貞観時代 今回 1000年に一度の大地震・大津波
復興への気持ち    日本は地震と津波は免れない  
船もない、全国から支援があって、大阪から船をトラックに乗せて2艘もってきてくれた
(環境調査をしていた方)

その人が海底調査をしてくれる→海底は思ったより被害は少なそう
岩場には海藻が在り アワビ、ウニがいる、プランクトン( 牡蠣に必要なキートセロス)がびっしりといる 酸素量も問題なし・・・海は壊れてなかった
ガレキ、木等を除けばいかだを浮かべる条件は揃う  牡蠣の種も残っていた
30人で杉の木を山から切って降ろす(いかだ用木材)一気に出来ないが一歩一歩進めてゆく
大分県から竹を一万本寄附してくれる(いかだ用) 
アンケートをとってみると、最初は戻りたくない→小高い丘に家を建てうみの見えるところに住みたい・・・海の恵みを受けている
小舟を浮かべて魚を採ったりアワビを採ったりする生活をしたい  
だれも海を怨んではいない
植樹祭→こういう時こそやらなければならない(6/5実施)
海は塩分だけではプランクトンは育たない 森の養分 鉄分が特に大事  
川と森は健全・・・もっと良くしてゆく 

十何万世帯の家を建てなければならない→木が必要→杉、ひのきが山ほどある →手を入れる絶好のチャンス→森に手を入れる→家を建てる→    森が明るくなる→光合成が活発になる→Co2を吸収→川が良くなる→結果として海が良くなる事に繋がる  
この仕組みをどう作るか今動いている   
この循環がうまくいけば十分再生はきく
震災での家を建てる木材を国産材の地元の木をどうやって使うか、ここがキーワードの様な気がする雇用も生まれる、経済も回るんじゃないかと思う

2011年6月12日日曜日

菅波 茂(64歳)        ・救える命があればどこへでも

菅波 茂 救える命があればどこへでも
<概要>
1946年生まれ 岡山大學医学部 
広島県深安郡神辺町(現・福山市)出身の医学博士、医師、福祉事業家。国際医療ボランティア
AMDA創設者、理事長。医療法人アスカ会・創設者、元理事長
特定非営利活動法人アムダ(AMDA、Association of Medical Doctors of Asia )は、1984年に設立
し岡山県岡山市北区伊福町に本部を置くNGO・国際医療ボランティア組織
アジア、アフリカ、中南米において戦争・自然災害・貧困等により社会的・経済的に恵まれず、
社会から取り残されている人々への医療救援
と、生活状態改善のための支援を実施している    国際医療ボランティアAMDA創設者、理事長
タイ、ネパール、インド等に医学調査隊派遣
27年前にアムダ設立 世界30カ国と連携し、活動している・・・岡山県に本部く
インド、ブッタガヤと言うお釈迦様が悟りを開いたところで大震災の情報を得て、翌12日には医師2名
ナース1名が緊急に入る 述べ150名が派遣されている
本当の情報は被災地に入らないと、本当になにが必要なのか判らない
津波に対する医療は地震とは大変違う 津波で建物ごとやられる  地震はスポット、津波は面でやられる 
被災者は絶望の淵にある 見放されていないんだと思ってもらえるような支援が必要・・・
より早く現場に入る なにをしたらよいか
40年前 岡山大學医学部 タイ、ミャンマー 医学医療チーム出す 寄生虫調査が最初 海外に出て行って
やろう

NGO 非政府組織 国連に対して提案権を持つ 国連が資格を出す 
①国連の会議に参加出来る
②専門的な分野からコメントが出せる
③政策提言が出来る(2006年医療団体として国連に政策提言が出来るようになる)
避難所で医療活動 現地開業医のサポート  
今回 ガソリンがない為にたくさん団体が入れない 被災者も外へ動けない
被災地の事は被災地の人に聞け(見捨ててない 私達はあなたたちが必要なのです・・・という
メーッセージが必要)
奨学金制度 アダム国際奨学金 次の世代の高校生に希望を持ってもらう 医療従事者になって
もらいたい

今回の大災害の海外の注目点  
①原発被害は日本全体を覆っていたのではないのか
②何故避難所で暴動が起こらないのか・・・海外の人達に町内会の組織 を見てもらいたかった  
人柄で選ばれた人達が運営
   日本の被災者同士が協力している姿が日本人に対する尊敬の念を抱た
  無償のボランティアが支える
阪神大震災の時 フランス医療団が来て吃驚した →フランスでは被災者の登録をして被災者の一人
当たりの居住面積とか飲み水とかが 
 判るのに日本では登録もしないに秩序立って物事が進む ・・・町内会の働き ・・・外国にはこの様
な機能はない・・・説明しても判らない
究極の困難になった時にこのことが実力として出てくる
高校二年の時に 遠浅の海で顔半分うずめて死んでいる写真を見て、何故同じ年ごろの人が遠い国
で、こんな死に方をしているのか
ということが、非常に印象に残ったし、その後の私の活動に対して、非常に影響を及ぼた
日本は世界で孤立してはいけない 
 
宗教、文化、民族ちがっても尊敬と信頼との人間関係が 
物事の考え方が違う人とどうやったらうまく
やってゆけるかできたらやってゆける
それには困難を共にするしかない 困難を解決するなかで、自分の中にない物が相手に発見出来た
ら、尊敬と言う念になる
どんなに困難がきびしくても相手が決して逃げないことが判れば信頼の念が起きる
尊敬と信頼と言う新しい人間関係が出来た時に、はじめて双方のバックグラウンド、宗教、文化等の
違いを克服することが出来る
アジアは多様性に富んでいる
ハイチで米軍が首都の空港を閉鎖した どうやって援助チームが入るか 市民に武器を配っていた 
刑務所も壊されて、1000人の囚人が武器を持って散った
武器回収の為 ブラジル陸軍を主体とした国連ハイチ安定化ミッションを設ける
治安が悪い中 アムダが活動できるか懸念された アムダ・カナダ支部から現地の人を紹介してくれる→
ドミニカから入る

カナダ、コロンビア、ボリビア、ペルー、インド、ネパール、日本の7カ国35名の医療チームを編成 
普通2週間が2か月にわたる
薬が不足し、本来薬があれば切断しなくてもいい足を多く切断せざるを得ない状況となる(4000名)
足の切断の対応 国連が復興支援8項目の一つ 義足のプログラム チームを作りする
市民参加型人道支援外交作る
外交となにか・・・日本が太平洋戦争の時に世界から孤立した →政府だけでやる外交には限界が
あるんじゃないか
もっと市民レベルで尊敬と信頼という絆を世界に作るべきではないか 国政レベルでは断交している
国同士がある 
(ミャンマーは日本人が大好きだが、国政としては交流していない →市民レベルの環境で助け合う、
市民同士でお互い尊敬と信頼を持つ)

困った時はお互い様・・・相互援助をすることによってお互い尊敬と信頼により日本も孤立しないで
済むんじゃないか→市民参加型支援活動
中国四川省の大地震の時 医療チームの支援要請在り→条件として中国語が話せる 中国の医師免許
を持っている人 外科医を送ってくれ
3条件に答えられる日本医療チームはない→台湾と日本アムダは連携してアムダの名のもとに40名の
医療チームを送ることが出来た
台湾は中国とは国交ないので、国としては支援できないが、アムダの名のもとに支援が可能となった
インドネシアでも地震があり、後でのスピーチで日本も阪神大震災の時のように困る時がありますから、
その時にはあなたがたが助けに来てくださいと云う
県知事がスピーチ→いろいろな国から助けてもらったが、自分たちが困った時には助けて下さいと言った
のは貴方がたが初めてだとの事
私はアムダが大好きだ →援助を受ける側にもプライドがある
プライドとは何か→自分も人に役立ちたい、自分も社会に必要とされたい

平和への強い思い
平和とは何か→戦争がないから平和じゃなくて、もっと積極的な意味を持っているだろう
家族の今日の生活と、家族の明日への希望が実現できる状況が平和なんだ
家族の今日の生活→食べれて健康であること   家族の明日への希望が実現できる状況子供に教育を与えること  
これらが阻害される時が問題 ①戦争(紛争)  ②災害  ③貧困
こういうものが解決されたときに、人間の本質的な条件が実現される→それが平和
アムダは平和を阻害する 紛争(戦争)、災害、貧困に対してプログラムを作り、行っている
普通の状況の時には皆さん拒否する 世界の8割は血縁共同体である 日本は血縁共同体ではない
日本は特殊な国と思わないといけない
人間、人と付き合う時に一番怖いことは、裏切られるということ   
この人は裏切らないだろうという尺度をみんな求めたい
その時に血がつながっているということが、一番尺度として大切なんだというのが世界で8割 
これを血でつながっている血縁共同体という

血縁共同体の内部ではおたがいに助け合いをする→違った共同体との助け合いがない
唯一この共同体が外部に対して門戸を開く時がある→それは血のつながりよりもむしろ自分たちの
存在自体が存亡の危機に瀕した時は其の扉は開く
それが戦争の時、とか大災害の時である その時外部を入れる  困った時が真の友という状況に
なる そこにアムダ多国籍師団が入ってくる
向こうが受け入れてくれる  よその団体が一緒に行きましょうと誘うと一緒に行動する 
まさかの時が真の友でアムダが入る 
アムダは本当に困っている時来てくれたから 真の友と思ってくれる そのアムダが違ったところで、
困っている人々がいるから一緒に行きませんか
と誘うと、援助をうけた側にもプライドがある →自分たちも役に立ちたい気持ちを持っている  
そうすると参加してくる
それがアムダ多国籍支援参加国が増えてきた一番の理由

アジア医療支援が世界に広がってきた
「信頼とは何か」→一言で言えば電話一本で動いてくれるということ
アムダは信頼に基づいた多国籍医療チームだという事がいえる
運営資金は・・・災害支援は募金で行う 
①税金を使うという手もあるが税金を使うという事は決定が遅れてくる
②困った時に来てくれるかどうかという問題・・・行ったり行かなかったりするのが一番問題  
 必ず行くという時税金は使いにくい
 (税金の場合 どの規模だったら行くとか どの規模だったら行かないとか と言う様な問題
 が必ず出てくる)
募金額が少なければ、少ないなりの体制を作ればよい(足りなければ自腹を切ればよい)  
絶対に行くという姿勢を崩してはいけない
死んだ人をどうするかと言う問題がある →NGOは関与しない 宗教の問題があるから対象にしない→
国際社会は宗教なしには語れない
死者に対して合同慰霊をする事でこちらを信頼する →血縁共同体では死者をどう敬意を表するかが
一番大切 

アムダは多国籍だから死なれた方に必ず敬意を払う慰霊を行う→これによってもっと私達を信じくれる
そのひとつのシンボルとしてインドのブッタガヤにアムダピ-スクリニックを作り、そこで死なれた方々の名簿を作って
置いたり、毎年定期的に慰霊を行っている
これのヒントは沖縄の平和の森に沖縄戦で亡くなった方、日本兵だけでなく、アメリカ兵、巻き込まれた
沖縄の人々、全ての死者に対して
「貴方がたの事は忘れませんよ」と死者に対する敬意をお墓でやっている・・・世界で一つしかない
世界に誇るべき国際社会に宗教無しでは語れないという証拠に 先進的なすぐれた平和の森だと思う→
これと同じ事を私達もやらしてもらった

2011年6月11日土曜日

高石友也(69歳) フォクシンガー    ・自分探しのフォーク人生

高石友也(69歳) 


<概要>
ちいさいころの母からの虐待に対してずーっと内に秘めていたが最近になってこの事を告白すること
によって 心の重みが溶けた
大学時代にフォークソングの先駆けとなり 「受験生ブルース」が大ヒット  アメリカにも一時行って 
ここでの学んだ事がその後の人生に大きく影響する
妻を大腸癌で失う まだキズは癒えない  西国33所観音霊場巡りを行い歌を作って奉納する
イベントをする。
( 高石友也さんは去年8月17日京都市内の病院で亡くなりました。 享年82歳
関西フォークの騎手、メッセージフォークの騎手と言われ1968年27歳の時「受験生ブルース」
を大ヒットさせました。 昭和48年には京都の祇園祭に合わせた野外コンサート
「よいよいやまコンサート」を開催しライフワークとなりました。 
母親に虐待されていたことを始めて友人に告白しました。 2011年の再放送です。)
北海道 雨竜町 小さい頃母親から虐待されていた(話して心がすっきりした) 私の母は親から
勧められた結婚(嫌な結婚)だったと母親から言われる。 出来た子供も好きじゃないとはっきり
いうんです。 理不尽さは今頃判るんです。
「お前は憎らしい 、お前は嫌いだ。」と言われて何で自分だけいじめれらるんだろうと思いました。
愛し方も愛され方も知らないわけです。
必死に世の中に無理やり合わしてきた。  母親を好きになれない。
近所におばあさんがいてくれたので愚れなかたのかも(心の受け皿)
虐待は何十年も引きずった。・・・フォークソングだっだ 。
卒業する前に関西にゆく。 ギターでフォークソングを英語を日本語にして歌う・・・この歌が受ける。  
関西フォーク始まる。
ビクターには演歌で入った・・・森進一と同期です。  フォークと言うジャンルはなかった。

大学紛争・・・学生たちの大学にしたいと言うところがありました。  心の改革が60年代にあった。  60年安保の時に大学一年だった。
鶴見俊輔 (ベ平連 哲学者 同志社大学の教授) 「 高石君ギター 一本でずっと続けなさい 
それがフォークソングだよ 他の音楽はパーフェクトを求めるけど
ギター一本だったら人間的でいいんだよ 何とか近づこうと信頼関係が出来るから   
不完全で良いんだよ」と言われました。
歌詞も言いたいことを言う。
69年 「受験生ブルース」を歌う。 うちの会社は大きくなるが関係なかった。  みんなニューミュージックに代わってゆく。  
止めるきっかけに米国に半年近く行く。  カルフォルニア大学のバークレー校でした。
先生のところに居候して、そこには30~40代の若い教授が集まって話してました。
日本車を持っているとか、大型の車の時代は終わるよと言っていました。
 ジョギングも教わる。  
サーフィンのように走ってごらん→太陽と波と遊ぶだけだよ お話しながらゆっくりやりませんか
(日本では勝つ走りしか知らなかった)
音楽も同じ・・・大好きなお客さんとのんびり一緒に楽しくやってゆけばいいんだよ→生き方が変わった
(顔まで変わったんじゃないか)

福井県の名田庄村田舎に引っ越す。 名田庄村では自分探しの歌(朝から晩まで ギターを弾き、音楽を聞き)をやろうとしました。
昭和48年京都で野外コンサートを行う。・・・永六輔さんと出会います。  ゲスト 渥美清、倍賞千恵子、黒柳徹子、・・・  第一回目から盛り上がりました。
「よいよいやまコンサート」は二人称です。   一般に音楽は三人称 知り合いのコンサート 
(お客さんと芸人さんとのやり取りがある 不特定多数ではない) 最後の小屋だねとの言あり
30回で最後 永六輔の具合がいまいちになる (本締めはない)・・・今年で最後のよいよいやま
コンサートが行われた。(あとでNHK TVでも紹介された)
走って西国33所観音霊場巡り
歌を奉納する。 

一番寺(青岸渡寺:天台宗寺院 西国三十三所 第一番寺)
「遠い南の海の果て 観音浄土を目指して 老いた僧侶が舟を出す 補陀落(ふだらく)目指し 死出の旅
 僕らは今 旅に出る 真っ白な服に着替えて
熊野は黄泉の出入り口 魂は生まれ変わる 山青く海青く 心清く 一番札所見上げれば 那智の滝 
手を合わす青岸渡寺
神の住む社があり 仏の住む寺がある いのち信じて歩きだせ 巡礼ここに始まる 山青く 海青く 
心清く 一番札所 見上げれば那智の滝 手を合わす青岸渡寺」
巡礼って繋いでいると別の宇宙になってゆく。 全部廻るのには決心がつかなかったが、うちの
奥さんが大腸がんで後5か月ですと言われて、1年一緒に歩きました。 それで巡礼をすることにしました。
廻って妻に報告するだけでしたが。 妻は今年の春に亡くなりました。 葬式をしてその翌日が
東日本大震災でした。 被災地で「人は誰もただ一人旅に出て・・・」と歌い一緒に泣いていました。
恨みつらみを語り合えるのが本来の家族であり、本来の友達だそうですね。  友達のお坊さんが
「夫婦とか友だちとか言う相棒っていうものは、どっちかが死んだあと会話が始まるんだ。」と
言われて、そういわれてみると会話しているんですね。 

ホノルルマラソン、今年で連続出場35回目になります。(全部完走)  今はランニングが
歌の方を応援してくれていると思います。 
 

壺坂寺
「信じ合うお里沢市千日詣り 眼を閉じて 心の眼を開く 壺坂詣り 生きてゆける あなたとわたし 
仲良く 仲良く 生きてゆけるあなたとわたし
仲良く 仲良く 幸せ願う小巻を炊けば おのが罪 目を閉じて 手をかざす 壺坂の秋 
生きていけるあなたとわたし  仲良く 仲良く 生きていけるあなたとわたし  仲良く 仲良く」

長谷寺
「訪ねよう 五月の初瀬山(はつせやま) 花の寺 訪ねよう 山深く 咲き誇る白牡丹 登りゆく この階段を 
一歩ずつ一歩ずつ 生きることは訪ねること
長谷寺の観音様   登りゆく登廊(とうろう)階段 一歩ずつ一歩ずつ 生きることは祈ること  
長谷寺の観音様 
生きるとは訪ねること  長谷寺の観音様」